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近代革命の社会力学(連載第145回)

2020-09-14 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(3)ハンガリー共産党とソヴィエト革命
 独立革命の結果成立した第一共和国が内外政策ともに行き詰まる中、ハンガリーでは共産党が急伸していた。ハンガリーの共産党は、ロシアやドイツのそれとは異なり、社会民主主義政党からの分派ではなく、先行の社会民主主義政党とは別個独自に成立したことを特徴とした。
 ハンガリー共産党は、オーストリア革命渦中の1918年11月、モスクワで結党された外国生まれの党という点でも特異であった。結党の中心にいたのは、ジャーナリストのクン・ベーラであった。
 クンは二重帝国時代の帝国軍に従軍し、ロシアで捕虜となった際、革命を現地で体験する中でボリシェヴキに感化され、最初期のロシア内戦にも参加した人物である。彼はモスクワでハンガリー共産党を結党し、独立革命後のハンガリーに帰国して本格的に活動を開始した。
 レーニン的なカリスマ性と組織力、それにジャーナリストとしての筆力も備えたクンの指導により、外国生まれのマイナー政党にすぎなかった共産党は、たちまちブーム的な急伸を見せたのだった。
 クンは、機関誌を通じて当時のカーロイ政権やその最大支持基盤となっていた穏健派の社会民主党を労働者階級の敵と見立たて、攻撃した。これに対し、カーロイ政権は当初、共産党を危険視し、党員の検挙と機関誌の発禁、党本部の閉鎖という弾圧措置で応じたが、この強権策は裏目に出て大衆の反発を招いたため、すぐに緩和した。しかし、この融和策は自らの政治生命を縮めた。
 この頃、社民党内には共産党が浸透しており、多数の党員が共産党に傾斜していた。そうした状況下で、党指導部は水面下でクンら獄中の共産党と連絡し、連立政権の形成を目指した。これに対し、クンはさらに進んで両党の合同を提案し、ここにある種の密約が成立した。
 一方、カーロイ大統領としては、共産党を排除しつつ、70万党員を抱える社民党単独の内閣を発足させて急場をしのごうとの考えで、首相の退陣を発表した。このタイミングを利用する形で、1919年3月21日、社民党と共産党は決起し、新たにハンガリー・ソヴィエト共和国の樹立を宣言、同時に、両党が合併してハンガリー社会主義者党を結党することも発表された。
 これにより、カーロイ大統領は辞職し、社会主義者党単独での革命統治評議会が発足した。この政変は独立革命に続くソヴィエト革命と言えるもので、新たな正式国名・ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国は、明らかにソ連との密接な連携・同盟関係を意識したものであった。
 こうして、ハンガリーでは第一段階の独立革命から半年もしないうちに第二段階の社会主義革命へと急転したのであるが、このような経過は、カーロイ政権の脆弱さに加え、共産党指導者クンの個人的なカリスマ性に依存しており、実際のところ、革命の土台は未成熟のまま、早すぎた革命であった。


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