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近代革命の社会力学(連載第382回)

2022-02-16 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(3)ハンガリーの党内政変と国境開放
 1989年に始まる連続革命において、前回見たポーランドにおける体制移行に加え、より直接的な物理的動因となったのは、ハンガリーにおける党内政変後に成立した新政権によるオーストリア国境の開放であった。
 ハンガリーの政変も革命によるものではなく、当時の支配政党であったハンガリー社会主義労働者党(他名称共産党)の指導部でのクーデターに近い政変であったが、ハンガリーでは元来、1956年にソ連軍の介入によって挫折した民主化革命(通称ハンガリー動乱)の後、親ソ連圏では比較的「リベラル」なカーダール政権が続いていた。
 カーダール政権は「グヤーシュ共産主義」といささか揶揄された生活の豊かさを重視する緩やかな社会主義を志向したため、同政権下のハンガリーは東側陣営の中では相対的に豊かな生活水準を享受するとともに、欧州の親ソ連圏では市場経済に最も傾斜していたため、富裕層が形成され始めていた。
 しかし、1980年代になると、ポーランド同様、対外債務の累積で次第に財政経済危機が深刻化していたところ、カーダール政権は富裕層への増税を目指したが、88年に増税案が一党支配下の形式的な議会で否決されるという珍事を機に、カーダールへの反対行動が表面化、同年5月、カーダールは党書記長辞職に追い込まれた。
 こうして、30年以上に及んだカーダール体制はあっけなく終焉したが、これは単なる党内権力の交代では終わらず、新たに党指導部に入ったネーメト・ミクローシュ首相ら急進改革派を中心に、一党支配体制の放棄へ向けたプロセスが開始された。
 ハンガリーでも、89年3月、ポーランドの円卓会議にならった協議機関が設置され、反体制勢力との協議を通じた平和的な体制移行が目指されたが、ハンガリーではポーランドほどに速いペースでは進捗せず、複数政党制に基づく総選挙は1990年3月まで持ち越しとなる。
 そうした体制移行に先行して、新指導部は長年の独裁政党であったハンガリー社会主義労働者党をハンガリー社会党に党名変更するとともに、マルクス‐レーニン主義教条の放棄と西欧的な社会民主主義政党への転換、一党支配の根拠でもあった党の指導性の放棄を実行した。
 しかし、それ以上に連続革命の導火線となったのは、ネーメト政権が89年5月から9月にかけて実行したオーストリア国境の開放であった。独立革命以前は一体だったハンガリーとオーストリア間の国境線は、より有名な東西ベルリンを隔てる壁と並んで、冷戦時代の東西を分割する象徴的な障壁となっていた。
 ここには現実にも鉄条網が張られ、直接の往来が制限されていたが、ネーメト政権はこの鉄条網を撤去したのであった。実際のところ、ハンガリーはカーダール政権時代から、西側との往来制限を緩和していたが、鉄条網の撤去は新生ハンガリーが正式に西側に開放されることを象徴的に宣言し、冷戦の終結を先取りする意味があった。
 当初はそうしたシンボリックな意味を持った国境開放が図らずも革命の導火線となったのは、開放を知った東ドイツ市民がハンガリー及びオーストリア経由で西ドイツへ脱出できると考え、殺到したからである。ハンガリーはこうした東ドイツ市民を避難民とみなして、査証なしでの領内通過を容認した。
 これにより多数の東ドイツ市民が脱出に成功し、西側へ亡命したことで、同じく社会主義独裁体制の東ドイツの安定性が破れ、東ドイツ国内でも民主化運動を刺激する結果となった。これが、連続革命の本格的な始まりとなる。


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