ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(23)

2015-05-31 | 〆リベラリストとの対話

21:非暴力平和革命について④

コミュニスト:前回、私の世界同時革命論について、空想あるいは机上の空論だというきついご指摘をされましたね。

リベラリスト:言葉が過ぎたかもしれません。でも、狭いようで広い地上に、現時点でも70億の人口が200近い国に分散する惑星上での同時革命など想像もつかないと感じるのは私だけではないと思います。

コミュニスト:同時革命というとき、「同時」を文字通りに取る必要はありません。ここで言う「同時」とは、5年くらいの幅を持たせた時間概念なのです。そういう一定期間内に、次々とドミノ倒しのように革命が継起するようなイメージですね。

リベラリスト:5年で世界が変わるというのは、私からすると、一夜で世界が変わるというのに等しい感覚です。私はそのような事態を想像できませんが。

コミュニスト:それは「世界は変わり得ない」という物理的な不能論ではなく、「世界は所詮変わらない」という諦念が、あなたの革命的想像力を奪っているのです。「世界は変われる」とポジティブにとらえてみてはどうでしょうか。

リベラリスト:問題はどう変わるかですね。歴史上、多くの人が世界を変えると称して、革命に身を投じたものの、かえって以前よりひどい体制を作り出したことは珍しくありません。私はむしろガンジーに従って、自分が世界によって変えられないために何かしたいと思う立場ですね。

コミュニスト:世界によって悪い方向ではなく、良い方向に変えられるならば、あなたも反対はしないでしょう。民衆会議インターナショナルは、あなたを悪い方向に変えようとしている現存世界に対するアンチテーゼであり、そのような世界革命運動なのです。

リベラリスト:あなたの言うことが、教祖みたいに聞こえてきました。民衆会議運動は、少し宗教がかってはいませんか。

コミュニスト:そう受け取られたなら、非は私にあります。私は決して教祖的であろうとは思っていません。私の役割は、民衆会議運動の先駆的な提唱者にとどまります。あえて宗教になぞらえるなら、教祖より預言者に近いかもしれません。

リベラリスト:実際、あなたは我がアメリカ合衆国が世界ドミノ革命のスタート地点になると預言しておいでですが、アメリカで共産主義革命が起こるだろうと確信できるあなたの才能に感服しています。

コミュニスト:確信というより、希望も混じった預言なのです。真の共産主義革命はロシアでも中国でもなく、アメリカで起こるべきであろうという・・・。それは、まさに世界を変える動因となるでしょう。

リベラリスト:その預言は、次期大統領選挙のレース予想に夢中になっているアメリカ人同胞たちの頭を冷やすためには、たしかに革命的に効くかもしれませんね。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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近未来日本2050年(連載第4回)

2015-05-30 | 〆近未来日本2050年

一 政治社会構造(続き)

「新型ファシズム」の特質
 前々回と前回、2050年の日本を支配する「議会制ファシズム」の概要・政治制度について述べたが、このように形式的な民主主義の枠組み内で成立する「新型ファシズム」は、今世紀半ば頃には、日本に限らず、標榜上は民主主義を維持する諸国を含め、世界中でかなり普遍的な広がりを見せている可能性もあると見る。
 この新型ファシズムの大きな特徴は、まさしく民主主義に見えるということにある。国際基準に照らせば正当に実施された選挙の結果に基づいて政権が構成されるという点では、たしかに議会制民主主義そのものである。しかし、実際のところ、政権与党(連立も含む)は巨大で、与野党間格差が大きく、野党には対抗力が欠けている。政府与党提出法案は、形だけの集中審議を経て、ほぼ自動的に、―すでに昨今よく耳にする表現で言えば粛々と―成立していく。渾名すれば「議会制粛々主義」(?)である。
 そのため、「多数派の横暴」という批判もいっそう受けやすくなるものの、そこは議会制における多数決原理が過剰に強調され、「多数派の絶対性」を教条として、正当化されていくだろう。ただし、野党勢力に対する直接的な弾圧は差し控えられ、市民運動や集会・デモのような大衆行動もいちおうは容認されるが、治安諜報機関網が高度に整備され、監視国家体制が進行する一方、放送や通信に対する国家主義的な情報統制は強化される。
 また後の章で詳述するが、国の任務として国防と治安が強調・優先され、教育を含むすべての国策が直接・間接に国防・治安に収斂していくようになる。反面、福祉などの社会サービスは「自助努力」のスローガンの下にいっそう削減され、社会的弱者は放置されるようになる。
 その一方で、新自由主義的な経済政策はさらに徹底され、医療や教育を含めたあらゆるものが市場原理に基づく営利主義に委ねられ、社会的成功者の暮らしはいっそう豊かとなり、格差拡大は頂点に達するが、これも「自助努力の差」による当然の帰結として正当化されていく。それによって生じる大衆の不満をそらすため、娯楽を中心とした個人の私生活の自由は称揚・推奨され、カジノを含む娯楽施設のために多くの公費が投入され、社会サービスに反比例する形で、娯楽サービスは充実する。
 ファシズムというと、独裁・殺戮等の暗いイメージを持たれやすいが、イタリア原産のファシズムは本来、どこか明るいイメージを醸し出すものであった。新型ファシズムはこうした元祖ファシズムへの回帰の様相を呈するだろう。加えて、外見上議会制民主主義が維持され、社会管理がある意味で行き届くという限りでは、都市国家シンガポールの現行体制に近似した様相をも呈するだろう。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(22)

2015-05-23 | 〆リベラリストとの対話

20:非暴力平和革命について③

コミュニスト:前回、私の提唱する過渡期の体制―移行期集中制―がレーニン流プロレタリアート独裁に類似しているとのご指摘を受けました。これについては「プロレタリアート独裁との違い」という小見出しのもとに、説明をしたつもりなのですが。

リベラリスト:読みました。「より厳格に移行期に限定しての短期的な政令統治」とまとめられていますね。ですが、期間を厳格に区切るといっても明確に何年と示さないならば、「移行期集中制」が遷延して一党独裁的な体制が出現する可能性はあります。

コミュニスト:事の性質上、何年という確定数値を示すことはできませんが、5年以内という目安は示しています。要するに、出来るだけ早く終わらせるということです。しかも、不完全とはいえ、代議機関としての民衆会議は存在しますから、完全な執行権独裁とは違うのです。

リベラリスト:しかし、革命委員会という革命指導機関が全権を掌握する体制を基本とし、緊急政令のような強大な立法権も持つわけですから、相当な権力集中体制となるでしょう。

コミュニスト:体制の枠組みを維持したままの「改革」ではなく、社会を根本から変革する「革命」を完遂するには、実際的に考えて、ある程度の集中体制が必要であるということは否定できないのではないでしょうか。

リベラリスト:たしかに、貨幣経済システムそのものの廃止にまで進もうというあなたの革命事業を完遂するには、実際的に考えて、大変な独裁権力を必要とするでしょうね。巨大な反対運動に直面する可能性が大ですから。挑発的な言い方になりますが、遠慮せず、あなた個人が「偉大なる領導者」として全権を掌握する徹底した独裁政治を期間限定でお考えになってはいかがですか。

コミュニスト:それはあり得ません。真の共産主義革命は、全世界・地球規模での連続革命として完遂されるものですから、個人独裁はやろうとしても無理なのです。

リベラリスト:貨幣経済廃止には私のようなリベラリストも反対運動に身を投じるでしょうが、これに対して、警察的な抑圧は一切加えないのですか。

コミュニスト:KGBのような秘密警察機関は設立されませんから、ご安心ください。ただし、反対運動という名目での犯罪的な諸活動が警察的に取り締まられることは当然です。

リベラリスト:一方で、あなたは「反革命活動への関与が疑われる団体や個人に対する情報収集・動静監視及び対抗的抗議活動、場合により捜査機関への告発を行う、警察権限を持たない非権力的な組織」として、革命防衛連絡会なる組織を設立するとされていますよね。これは、民間団体の形で、警察法などの法規を超え自由自在に活動できる巧妙な秘密警察組織だと思うのですが。

コミュニスト:革防連は正規の警察とは異なる民間組織ではありますが、超法規的活動が許されるものではなく、当然各種法規を遵守しなければなりません。革防連は警察のような強制権力は持たないのですから、基本的人権を守りつつ、革命防衛の役割を果たすという意味で「巧妙な」組織なのです。

リベラリスト:そうですか。いずれにせよ、革命という政治行動は多数派の世論に反して少数派がその理念や政策を強制実施するという点において、本質的に非民主的なものです。それが正当化されるのは、よほど既存社会が崩壊危機に瀕しているような場合に限られるというのが私の考えです。

コミュニスト:その点、私も「革命のタイミング」という視点から論じております。タイミングを早まった革命はたしかに少数派による冒険主義的な政治行動となりますが、時宜にかなった革命はむしろ民衆総体での民主的な社会変革事業になるのです。

リベラリスト:その点、あなたはいわゆる連続革命論者でもあるわけですが、全世界で共産主義革命が短期間で継起するとされる連続革命は私には空想、と言って悪ければ机上論のように思えてきます。反論等おありでしょうから、次回討論しましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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司法取引は贅沢

2015-05-20 | 時評

安保法案の影に隠れて昨日、ひっそりと衆議院で審議入りした法案がある。刑事訴訟法等改定法案である。内容は、盗聴対象を組織犯罪から窃盗など一般刑法犯罪にも拡大すること、共犯者の情報提供と引き換えに罪を軽くする「司法取引」を導入することなどを柱とする。

中でも最大の目玉は司法取引である。従来、日本の刑事司法では司法取引のような取引的手法は正式の制度として導入されたことがなく、共犯者情報なども密室での取調べを通じて「吐かせる」手法で取得してきた。

その点で、今般改正で政府が「捜査·公判協力型協議・合意制度」なる婉曲語法で呼ぶ司法取引が導入されれば、日本の刑事司法にとっては16年前、盗聴が「通信傍受」の婉曲語法のもとに導入された時以来の大きな画期となるだろう。

海外ではアメリカを中心に司法取引を導入している国は少なくないようだが、これは基本的に被疑者の取調べに弁護人の同席が認められるなど、取調べで自白を取ることが事実上困難な制度において、「餌」を与えて自白や有力情報を引き出すテクニックとして発達してきたものである。

日本のように弁護人の同席はおろか、取調べの録音録画ですら部分的にしか認めないほど抑圧的な捜査手法を保持しながら、司法取引まで導入するのは両手に花と言うべき贅沢である。これにより、日本の検察は取調べ+取引という強大な権限を手中にすることになる。この制度は検察による冤罪事件続発を受けて「改革」を検討する中で浮上したというが、「改革」に便乗した典型的な焼け太りだ。

花はどちらか一つにすべきである。進歩的なのは、取調べという花を捨てる方向である。この場合も、司法取引が大手を振るって許されるわけではないが、他人を罪に陥れる讒言防止に慎重に配慮された制度なら、許容されるだろう。

一方、盗聴の拡大は盗聴捜査が専ら警察によって行なわれることから、警察権力の大幅な拡大につながる。盗聴は取引とは異なるが、やはり共犯関係の割り出しに効果的な場合はある。適正に実施されれば、自白偏重捜査の緩和にもつながるので、一概に反対すべきではなかろう。

しかし、今般改定法案では、従来実施上の条件となっていた通信事業者の常時立ち会いをなくすことが盛り込まれている。対象拡大と条件緩和がセットにされた強権的な改定である。もしも、そこまで盗聴の本格化を構想するならば、令状審査に際して三人の裁判官の合議制とするなど事前司法審査の強化が絶対条件とされなければならない。

それなくして、単純に盗聴捜査を際限なく拡大することは警察監視国家への道である。自衛権の大幅拡大を狙う安保法案と盗聴拡大+司法取引法案は水面下でつながっていると見てよい。両者併せて、権威主義的な国防治安国家体制へ向けた布石と読む。

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晩期資本論(連載第45回)

2015-05-19 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(4)

・・・原料は不変資本の主要な一部をなしている。本来の原料がはいらない産業部門でさえも、原料は補助材料や機械の成分などとしてはいるのであり、したがって原料の価格変動はそれだけ利潤率の影響を及ぼすのである。

 利潤率は固定的なものでなく、変動的な指標であるが、利潤率の変動の大きな要因となるのが、原料の価格変動である。なお、「ここでは原料のうちには補助材料、たとえばインディゴとか石炭とかガスなどのようなものも含まれる」。現代では石油が加わる。また「機械の製造においても充用においても主要な要素である鉄や石炭や木材などの自然の富は、ここでは資本の自然発生的な豊饒性として現われているのであって、それは労賃の高低にはかかわりなく利潤率を規定する一要素だということである」。

・・・他の事情が変わらなければ、利潤率は原料の価格とは反対の方向に上下する。

 つまり、原料価格が上がれば利潤率は低下し、原料価格が下がれば利潤率は向上する。これは経験的にも理解しやすい法則であろう。「このことからとりわけ明らかになるのは、原料価格の変動が生産物の販売部門の変化を少しも伴わない場合でも、したがって需給関係はまったく無視しても、工業国にとっては原料価格の低いことがどんなに重要であるかということである。さらに明らかになるのは、対外貿易は、それが必要生活手段を安くすることによって労賃に及ぼす影響はまったく無視しても、利潤率に影響を及ぼすということである」。

それだから、原料関税の廃止や軽減は工業にとって大きな重要性をもっているということがわかる。それゆえ、原料ができるだけ自由にはいってくるようにすることは、すでに、より合理的に展開された保護関税制度の主旨でもあったのである。

 国際貿易が最高度に発達している晩期資本主義では税込みでの国際的な原料価格が利潤率に及ぼす影響は極めて大きく、自由貿易の究極は個別の貿易産品の関税廃止を越えた原料関税の廃止である。

資本主義的生産が発展していればいるほど、したがって不変資本中の機械から成っている部分を急激に持続的に増加させる手段が大きければ大きいほど、また蓄積が(ことに繁栄期に見られるように)急激であればあるほど、それだけ機械やその他の固定資本の相対的な過剰生産は大きく、それだけ植物性および動物性の原料の相対的な過少生産は頻繁であり、それだけこれらの原料価格の・・・騰貴もそれに対応する反動もはっきりしてくる。したがってまた、再生産過程の主要な要素の一つであるこうした激しい価格変動を原因とする激しい動揺も、それだけますます頻繁になるのである。

 植物性や動物性のような有機的原料の生産は資本主義先進諸国では機械等の固定資本部分の生産に比して相対的過少生産となるため、有機的原料への需要が供給を上回り、原料価格の騰貴をもたらしやすい。

原料が騰貴する時期には産業資本家は結束して連合体をつくって生産を調整しようとする。・・・・・・・・しかし、直接の刺激が過ぎ去って、「いちばん安い市場で買う」・・・・・という競争の一般原理が再び至上的に支配するようになれば、供給の調整は再び「価格」にまかされる。

 原料価格騰貴による利潤率の低下を食い止めるため、産業資本家は価格カルテルを結んで競争状態を一時停止するが、それが過ぎれば、再び競争状態に戻っていく。マルクスは続けて「原料生産の共同的・干渉的・予測的な統制―このような統制は概して資本主義的生産の諸法則と全然両立しないものであり、したがってまたつねに空しい願望にとどまるか、または大きな直接的危機と困惑の瞬間に例外的にとられる共同的処置に限られる」とも指摘するが、裏を返せば、「原料生産の共同的・干渉的・予測的な統制」は共産主義的生産体制では通常的なこととなるであろう。

労働の搾取率が同じだと前提すれば、・・・・・・・・・・利潤率はつぎのようなことによって非常に違うことがありうる。すなわち、原料が安いかあまり安くないないか、その買い付けについて専門知識が多いか少ないかによって、また充用される機械が生産的・合目的的かつ安価であるかどうかによって、また生産過程のいろいろな段階の設備全体が完全であるかあまり完全でないか、材料の浪費が排除されているかどうか、指揮監督が簡素かつ有効であるかどうか、等々によって、利潤率は非常に違ってくるのである。

 原料価格以外にも、こうした高度の経営判断を要する諸要因の総合作用により、利潤率は変動してくる。「要するに、一定の可変資本についての剰余価値は与えられていても、この同じ剰余価値がより大きい利潤率で表わされるか、より小さい利潤率で表わされるか、したがってそれがより大きい利潤量を与えるか、より小さい利潤量を与えるかは、資本家自身なり彼の管理補助者や支配人なりの個人的な事業手腕によって非常に左右されるのである」。そのため、現代の資本制企業では、純粋の資本家ではなく、MBAなど経営管理の専門職をトップに起用することが慣習化している。

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晩期資本論(連載第44回)

2015-05-18 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(3)

・・・・労働日の延長は、超過労働時間が支払われている場合にも、またある限界までは、超過労働時間が標準労働時間より高く支払われる場合でさえも、利潤を高くするのである。それゆえ、近代的な産業体制では固定資本をふやす必要がますます大きくなるということは、利潤をむさぼる資本家にとっては労働日の延長への主要な刺激だったのである。

 利潤率を高める最も単純な手っ取り早い方法は、労働時間の延長、言い換えれば絶対的剰余価値の増大である。この理は晩期資本主義でも変わらないがゆえに、資本家は労働時間規制の緩和を追求し続ける。

剰余価値が与えられていれば、利潤率を高くするためには、商品生産に必要な不変資本の価値の減少によるほかはない。

 絶対的剰余価値の増大にはしかし、自ずと限界がある。そこで、剰余価値がある一定とすれば、不変資本の価値を節約することが、利潤率の上昇につながる。利潤率は剰余価値mを不変資本cと可変資本vの総和で割った商であったから、仮にc=0であれば、利潤率は飛躍的に上昇することはみやすい道理である。
 このような不変資本の節約の仕方としては、不変資本を生産する労働の節約による方法と、不変資本の充用そのものの節約による方法とがある。すなわち―

一つの資本がそれ自身の生産部門で行なう節約は、さしあたり直接には、労働の節約、すなわちそれ自身の労働者の支払労働の縮減である。これに反して、前に述べた節約(不変資本の充用そのものの節約)は、このような他人の不払い労働のできるかぎりの取得を、できるかぎり経済的な仕方で、すなわち与えられた生産規模の上でできるだけわずかな費用で、実行することである。

 マルクスは、このうち後者の不変資本の充用そのものの節約について、「大規模生産が資本主義的形態ではじめて発展するように、一方では狂暴な利潤欲が、他方では商品のできるだけ安い生産を強制する競争が、このような不変資本充用上の節約を資本主義的生産様式に特有なものとして現われさせ、したがって資本家の機能として現われさせるのである。」と指摘して、これに特に焦点を当て、その複数の方法を個別に検討している。実際、資本制企業が成功する秘訣は、この方法による節約をいかに効果的に組み合わせて高い利潤率を確保するかにかかっていると言ってよい。

資本主義的生産様式は、矛盾をはらむ対立的なその性質によって、労働者の生命や健康の浪費を、彼の生存条件の圧し下げを、不変資本充用上の節約に数え、したがってまた利潤率を高くするための手段のうちに数えるところまで行くのである。

 不変資本充用上の節約の第一の方法は、「労働者を犠牲にしての労働条件の節約」である。マルクスは「およそ資本主義的生産は、ありとあらゆるけち臭さにもかかわらず、人間材料についてはどこまでも浪費をこととする」と断じている。
 ただ、現代の資本主義先進国では、労働安全基準法の規制によりこうした節約は一応禁止されているが、しばしば違反事例が発覚する。日本のアスベスト問題なども、政府の不作為も絡んだこの種の深刻な一例である。また労働ストレスや過労死もこうした「人間材料の浪費」の結果であり、「それ(資本主義的生産)は、ほかのどんな生産様式に比べてもはるかにそれ以上に、人間の浪費者、生きている労働の浪費者であり、肉や血の浪費者であるだけではなく、神経や脳の浪費者でもある」。

・・・ここですぐにさらに思いださなければならないのは、機械の不断の改良から生ずる節約である。

 不変資本充用上の第二の節約法として、技術革新による固定資本の低廉化が挙げられる。マルクスは「発動、伝導、建物の節約」という節題のもと、ある工場監督官の報告を引用して叙述に代えているが、資本にとってはこの方法が最も真っ当な節約方法の一つである。
 ちなみに、マルクスは最後に四つ目の節約法として「発明による節約」を挙げているが、発明は技術革新の契機となる精神的な所産であるから、技術革新に絡めてとらえてもよいであろう。ただ、ここでの節約は「およそ新たな発明にもとづく事業を経営するための費用は、後にその廃墟の上にその遺骨から起こされる事業の場合に比べればずっと大きい」という後発利用者の節約利益という形で現れる。
 そのため、「最初の企業家たちはたいてい破産してしまって、あとから現われて建物や機械などをもっと安く手に入れる企業家たちがはじめて栄えるということにもなる」が、そうした事態を防ぐため、現代では特許制度が確立され、発明企業家が特許利益を確保できるようにされているわけである。

資本主義的生産様式の発達につれて生産と消費の排泄物の利用範囲が拡張される。

 マルクスはこのような生産・消費の過程で出される廃物を「生産上の排泄物」と呼び、「生産上の排泄物、いわゆる廃物が同じ産業部門なり別の産業部門なりの新たな生産要素に再転化するということ」を不変資本充用上の節約の三番目に挙げている。
 大量生産・大量消費の晩期資本主義では、「このいわゆる排泄物が生産としたがってまた消費―生産的または個人的―の循環のなかに投げ返される過程」すなわちリサイクルが、「環境保護」の体裁の下に一個の産業分野として確立、拡大されている。これもまた人間材料の浪費と並ぶ物質材料の莫大な浪費を通じた、利潤率上昇のための一つの節約法なのである。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(21)

2015-05-17 | 〆リベラリストとの対話

19:非武装平和革命について②

リベラリスト:コミュニストさんが提唱される「民衆会議」を通じた非武装革命論は、どこかインドのガンジーの非暴力抵抗論を思わせる―ガンジーが所属した「国民会議」の党名も含め―のですが、影響関係はあるのですか。

コミュニスト:そう思われるのも無理はありませんが、私が『共産論』をまとめた時、ガンジーのことはまったく念頭にありませんでした。ガンジーの名と業績は知っていますし、尊敬に値する歴史上の人物であると思いますが、彼は基本的に独立運動家であって、革命家ではありませんでした。もちろんコミュニストでもありませんでした。

リベラリスト:たしかに、非武装というのは、革命ではなく、抵抗の手法ではないかと思うのです。あなたが革命の手法として提起する集団的不投票についても、それは例えば不正選挙に対するボイコット手段としては効果的でしょうが、合法的に行われる選挙に対しては、ご自身不安視されているように、技術的に困難かと思われます。

コミュニスト:すると、やはり革命の「伝統」に従って、武装蜂起したほうがよろしいと?

リベラリスト:そうではありません。私は革命家ではありませんから、社会の変革は投票箱を通じてしか現実的には無理であろうと考えるものです。ただし、アメリカ独立宣言にあるように、暴虐な政府に対しては武器を取って革命を起こさざるを得ない場合はあるだろうと―そうならないことを切望しつつ―思います。

コミュニスト:私も二つの革命の方法を例示する中で、状況によっては武装蜂起型の革命が有効な場合はあるだろうと指摘していますが、そういうケースは乏しく、基本的には平和革命のほうが「現実的」であり、これからの革命の常道になろうと考えています。

リベラリスト:そこがどうしても納得いかないのです。投票ボイコットで合法的に無政府状態に追い込み、交渉でもって政権移譲、革命政権樹立に結びつけるというのは、机上の空論と言って失礼なら、理論倒れではないかと。小説や映画の世界ならわかりますが。

コミュニスト:それは、これまでそういう形の革命が起きたことがないから、経験的に理解できないだけです。徹底した経験論に立つなら、そのような革命は想定できないとなるでしょうが、革命論は経験論に終始するものではありません。理屈として立てられたものを可能にする方法を考えることも、革命論の使命です。

リベラリスト:では、どのようにして可能になりますか。私には思いつかないのですが。

コミュニスト:『共産論』にも書いたように、民衆会議運動です。民衆会議は革命後には公式の民衆代表機関となりますが、革命前には革命組織であるという連続的・発展的な運動体です。

リベラリスト:それは共産党のような政党組織抜きの革命運動論として、ポスト近代的な興味深いお考えと受け取りますが、どれだけの人々がそういう運動体の意義を理解し、参加してくるかどうか、私は懐疑的です。

コミュニスト:歴史ある共産党だって入党しようとする人は限られているでしょう。コミュニズムを正しく理解してもらうための困難さは運動形態を問わず、共通のものです。民衆のいわゆる動員解除状態は日本では極めて高度ですから、民衆会議の組織化も困難を極めるだろうことは承知しています。

リベラリスト:すると、積極的にそのような運動を自ら組織しようとはなさらないのですね。孤高のコミュニストさんですか。

コミュニスト:それは、自分自身の組織力のなさを自覚しているからでもありますし、『共産論』もまだ完全版とは言えないからでもあります。

リベラリスト:そういうまるで仏陀のような謙虚さは、レーニンその他、過去の傲慢な革命家には見られなかった新しい革命家像のように思われます。とはいえ、あなたが過渡期の革命体制として提示する部分は、どうもレーニン的なプロレタリア独裁論を思わせるものがあって、少し不穏さも感じますので、これについては次回対論してみたいと思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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近未来日本2050年(連載第3回)

2015-05-16 | 〆近未来日本2050年

一 政治社会構造(続き)

「議会制ファシズム」の政治制度
 ここで、「議会制ファシズム」の政治制度について概観しておこう。「議会制ファシズム」はまさに議会制の形式的枠内で成立するファシズムであるがゆえに、中央及び地方の議会制度自体は維持される。
 しかし、中央の国会に関しては、一院制に移行しているだろう。この点、現時点でも「決められる政治」の実現のため、一院制移行を唱える改憲論者もあるように、究極の「決められる政治」であるファシズムは現行のような対等型二院制には適しない。
 そこで、二院制を廃し、定数600程度の一院制国会に一元化する改憲が実現しているだろう。あるいは二院制維持論に一定譲歩して、衆議院の優越原則を徹底した形で(例えば法律案についても衆議院先議制を拡大し、衆参両院不一致の場合、一定期間経過後の衆院の単純再可決で法案成立とするなど)、参議院を存置するといった妥協的制度が導入されていることもあり得る。
 いずれにせよ、国会を基盤とする議院内閣制は存続しているが、内閣総理大臣の指導性を強調する「官邸主導」の権威主義的な内閣制であり、内閣官房の機能はいっそう強化されているだろう。
 一方、天皇制も存続しているが、2050年時点の天皇は憲法上も明確に国家元首と位置づけられており、皇室家政機関である宮内庁の長官職は官僚でなく、国務大臣を当てる戦前の旧制が部分的に復活している。
 この点、本来ファシズムは共和制を本則とするが(論理必然ではない)、議会制ファシズム下の天皇は明治憲法下のような神権天皇ではなく、世俗君主的存在である。その意味で天皇の位置づけは名誉職大統領的なものとなるが、それによりかえってファシズムが成立しやすい共和的土台が整うことにもなるだろう。
 地方制度に関しては、都道府県制が廃され、一都道州制に移行しているだろう。すなわち、全国の広域自治体は東京都並びに北海道及び複数の州に再編されている。権限が特別に強い東京都を除くと、道州は中央から一定の権限を委譲されるものの、限定的であり、かえって中央集権制は強化されているだろう。
 広域自治体の数が都道府県時代より削減される分、ファシスト与党が一都道州政治を掌握しやすくなり、知事の大半が標榜上の無所属を含め、ファシスト与党系の陣容となっている。
 市町村レベルでは、過疎により消滅する自治体も相次ぎ、合併はいっそう進んでいる。大都市制度が拡大され、自治体の権限は法的に強化されているものの、大都市市長もファシスト与党系が席巻し、ファッショ体制の下支えをしているだろう。

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近未来日本2050年(連載第2回)

2015-05-16 | 〆近未来日本2050年

一 政治社会構造

「議会制ファシズム」の概要
 2050年の近未来日本が到達しているであろう「議会制ファシズム」とは、形式上は議会制を維持しつつ、議会制の枠組みでファシスト政党が政権党として統治する体制をいうと仮定義したが、これをもう少し敷衍してみよう。
 ファシズムは通常、議会制を否定するので、「議会制ファシズム」は教科書的には概念矛盾である。しかし新型ファシズムにおいては、議会制の枠組みは否定されないだろう。特に戦後日本では議会制の形式自体は広く定着したため、議会制を否定する企てには支持が集まらない。
 一方で、議会制の枠組みのもとで政権交替を伴わない事実上の一党支配が安定的に続くことに日本有権者は慣れ切っている。小選挙区制とさらなる議員定数削減はこうした「議会制一党支配」の構造を確立するだろう。その延長に来たるのが、「議会制ファシズム」である。
 単に「議会制一党支配」という場合、支配政党のイデオロギー的立ち位置はさしあたり不問に付されているが、「議会制ファシズム」の支配政党は、その名称はともかく、イデオロギー的には国家絶対・国粋的なファシズムを信奉する政党である。
 2050年の日本では、そのような政党が議会制の枠組みで衆参両院の絶対多数を制して事実上の一党支配を行なっているであろう。問題は現時点でまだ存在しない新党が与党化しているか、それとも既存の右派大政党がファシスト政党として再編されているかであるが、筆者としては後者を予測する。
 小選挙区制のもとで今後結党される新党が一世代程度で安定的な大政党に成長する可能性は乏しく、やはり既存の右派大政党がファッショ化する可能性のほうが現実味がある。そして、2015年現在、その兆候はすでにはっきりと現われているのである。
 ちなみに、もう一つの想定として、右派大政党がファシズムの綱領を明確にしないまま、明確にファシズムを掲げる新党と連立与党を組んでいることも考えられるが、これも「議会制ファシズム」の亜種とみてよい。
 他方、「議会制ファシズム」は野党の存在を否定するものではないので、野党勢力も議会に議席を保持するであろう。ファシスト与党への対抗上、共産党が野党第一党に就いている可能性もあるが、少数野党にとどまり、絶対多数を握る与党に対抗する力は持ち得ない。

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近未来日本2050年(連載第1回)

2015-05-15 | 〆近未来日本2050年

 

 本連載の目的は、2050年の日本社会を予測し、描写することである。2050年と言えば、今からちょうど35年後である。35年と言うと、ほぼ一世代が経過した近未来に相当する。筆者の世代は「後期高齢者」として、残り少ない日々を過ごしている頃である。
 一方、その頃各界の指導層に就いているのは、現在おおむね10代後半から30代半ばくらいまでの青年層であり、政治指導者もこの世代から輩出されているだろう。従って、2050年の日本社会の予測とは、かれらが指導する社会がどのようになっているかという予測を意味している。
 ここで結論を先に述べれば、筆者は「議会制ファシズム」の社会と予測する。「議会制ファシズム」という語は現時点ではほとんど耳慣れないが、筆者の仮定義によれば、形式上は議会制を維持しつつ、議会制の枠組みでファシスト政党が政権党として統治する体制をいう。
 この点、筆者は戦後日本の歴史を振り返る連載『戦後日本史―逆走の70年―』の末尾で、「最終ゴールはまだ視界にはっきりととらえられているわけではないが、行く手にうっすらと浮かび上がって見えるのは、議会制の枠組みを伴いつつ、ファッショ的色彩を帯びた管理主義的かつ選別・淘汰主義的な国家社会体制である。」という予測を示しておいた。「議会制ファシズム」とは、上記の予測をひとことでまとめた術語である。
 よって、本連載は前連載で概観した戦後日本史を踏まえて、さらに向こう30年内外の近未来を予測しようとするものであるが、いろいろな意味で戦後日本史の大きな転換点を画する重要な年となるであろう今年2015年にこのような予測を立てることには意義があると考えられる。
 今年2015年は、言わば70年近い「逆走」の中間総括のような年度であり、筆者の予測によればここから一路、「議会制ファシズム」へ向けて進んでいく新たな基点となる年である。
 予測される「議会制ファシズム」の社会が実際どんな社会なのかということについては、おいおい明らかにしていくが、初めにことわっておくと、それは戦前のいわゆる軍国主義や、ナチズムのような狂信的ファシズムの単純な復刻ではない新型の、ある面では「民主的」なファシズムの社会である。と同時に、いくつかの重要な点では軍国主義やナチズムとも重なる要素が観察されるであろうような社会である。
 その描写をもって楽園的ユートピアとみるか、それとも地獄的ディストピアとみるかは、各自の価値観しだいであり、本連載ではどちらとも判定することはしない。ただ、少なくとも筆者にとってはディストピアとなるに違いないが、幸いその頃にはお迎えが近づいているので、彼岸への亡命が許されることを期待している。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(20)

2015-05-10 | 〆リベラリストとの対話

18:非武装平和革命について①

リベラリスト:「自由な共産主義」の政策的な各論についても、いろいろと議論したい点はありますが、それ以前の問題として、あなたが提示される「平和革命」という体制移行の方法について、議論したいと思います。もっとも、「平和」という語は不戦平和主義と紛らわしいので、「非暴力」という語のほうが議論するうえではわかりやすいでしょう。

コミュニスト:予想どおりの展開です。つまり、いったい「非暴力(平和)革命」というような形容矛盾が可能なのかどうかという問いでしょう。ちなみに、私は「非暴力」ではなく、革命の手段に着目して「非武装」という用語を使います。

リベラリスト:読まれていましたか。そのとおりです。あなたは、投票ボイコットによる在宅革命というユニークな提案をされていますね。それが「非武装革命」ということなのでしょう。武器を取って蜂起する革命のイメージを覆すという点では有意義だと思うのですが、いささか漫画的―すみません―に思えてくるのです。

コミュニスト:荒唐無稽とはっきりおっしゃっていただいても、別に傷つきませんよ。たしかに、技術的に投票ボイコットという革命の方法は困難ですし、武装蜂起に比べて恰好悪いかもしれませんね。しかし、よく考えてみれば、恰好良い武装蜂起による革命のほうがもっとあり得そうにないのではないでしょうか。

リベラリスト:私の祖国の米国では、そうでもないのですよ。さすがに憲法には書いてありませんが、独立宣言には、革命の権利が記されています。米国民はいざとなったら暴虐な政府を革命で倒す権利を留保しています。ですが、それはまさに暴虐な独裁者が立ち現われた場合のことでして、憲法はそういうことが起きないように、三権分立を徹底しているわけですが。

コミュニスト:立憲政治が正常に機能している限りは、投票箱を通じて政権を取り替えることしかできないのですよね。ですから、発想を変えて、投票しない権利を行使することが革命になるのです。

リベラリスト:そこがよくわからないのです。立憲政治が正常に機能している場合は、おっしゃるように投票箱を通じて政権を取り替えることが「プチ革命」となるはずであって、なぜあえて投票をボイコットする必要があるのでしょう。

コミュニスト:私も旧『共産論』で示した三つの革命の方法の中に「投票箱を通じた革命」を含めておきましたが、それについては、「基本的に大統領直接選挙制を採用する典型的な共和制国家―しかも有権者が若く、その投票行動が比較的柔軟な新興国―で一定の可能性を持つ革命の方法であると言えようが、民衆会議が目指す革命の方法として積極に推奨されるべきものとは言えない。」と指摘しましたが、現在では革命の方法からは削除しています。

リベラリスト:なるほど、日本や欧州でよく見られる議院内閣制下の選挙では、「投票箱を通じた革命」が困難なことはわかります。それで、あえてボイコットという逆を突くような戦略を取るわけですね。でも、やはり私は疑問で、非武装革命云々というなら、技術的な困難はあっても「投票箱を通じた革命」こそが正道であると信じます。

コミュニスト:リベラリストさんは選挙政治の確信的支持者なのでしょうね。それも理解できますが、選挙とは基本的に反革命的なものです。革命的な激変を抑止するために、選挙という面倒な手続を踏むのです。ですから、共産党も選挙政治に没入していると急進性を失い、党是であるはずの共産主義社会の実現は名ばかりの理念と化してしまうのです。

リベラリスト:共産党も遠慮せず、共産主義社会の実現を有権者に堂々と訴えたらよいのです。その結果、共産党が最多得票すれば、政権獲得できるのではないですか。

コミュニスト:共産党の得票が伸張する前に、他政党の反共宣伝と集票マシンがフル稼働して、共産党の政権獲得を全力で阻止するでしょうから、実際にそんなことは起きないでしょう。本当に共産党が政権を獲得できるとしたら、それは共産主義の看板を下ろした時、つまり、イタリアのように共産党が反共政党に転向した時です。

リベラリスト:そういうこともあって、コミュニストさんは共産党によらない共産主義革命、すなわち民衆会議という独特の政治組織による革命を主張されるのですよね。これについては、改めて次回議論することにしましょう。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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英国「二大半」政党政へ

2015-05-09 | 時評

2015年の英国総選挙は、英国史にとって大きな画期点とみなされるだろう。すでに日本のメディアも大きく伝えているように、この選挙で、北部スコットランドの地域政党スコットランド民族党(以下、「スコット党」と略す)が大きく躍進し、第三党に座ったからである。

昨年の住民投票では否決されたとはいえ、独立論がなおくすぶる中、元来は完全な独立王国だったスコットランドを代表する政党が国会で第三政党の座を確保したことは、ある意味で自然なことである。

スコット党の勝因は、初めから人為的に割り当てられた配分議席のおかげもあるが、それを地盤のスコットランドで活用し切ったことにある。歴史的には、貧しい労働者階級の貯水池であったスコットランド地方は労働党発祥地とも言い得る強力な支持基盤であったが、今回、スコット党は労働党の地盤を切り崩したのだった。

反面、労働党は最大地盤で惨敗したことで、20を越える議席減となり、さらに後退した。全体としては「惨敗」と呼ぶほどの打撃ではないが、今回の敗北の意味は同党にとって大きい。なぜなら地域政党として根を張るスコット党が今後の国政選挙で大敗する可能性は乏しく、労働党のスコットランド地盤は半永久的に失われたに等しいからである。

となると、労働党は今回議席を堅実に上積みし、単独過半数に達した保守党が将来惨敗する事態にならない限り、半永久的に政権与党に復帰できないことになる。それ以外に政権復帰の可能性が開けるのは、今般総選挙では共闘を避けたスコット党と共闘して勝利し、連立を組む場合だけである。

スコット党は他国にありがちな民族政党とは異なり、イデオロギー的には中道左派で、労働党の路線とも近い関係にあり、本来は共闘・連立可能な関係にある。ところが、労働党はスコット党と組めば、スコットランド独立に傾くと保守党に宣伝されることを恐れ、共闘を回避したことで、自ら墓穴を掘る結果となった。

労働党にとっては万年野党か、それともスコット党との共闘かを選択する歴史的な岐路に立たされたことになる。同時に、英国にとっても100年続いた保守・労働の二大政党政が転換点に立っている。

純粋小選挙区制の古典モデルを固守する英国では、完全な多党政は実現しにくいが、スコット党は今後、党是どおりにスコットランドが独立しない限り、英国会での第三党の地位を長期にわたって確立し、スコットランドの重みからしても、同党は議席数を超えた発言力を持つ可能性が高い。

となると、今後の英国政治は三大政党政とまではいかなくとも、保守・労働の二大政党に、スコットを半分加えた「二大半」政党政のような構成に変化するのではないかと予測される。

とはいえ、20世紀初頭までの古典期二大政党政の一翼を担った自由党の流れを汲む自由民主党は今回惨敗し、ほぼ没落したうえ、自由党を押しのけて今世紀まで二大政党の一翼を担ってきた労働党も「没落」とは言わないまでも、万年野党モードに入ると、今後の英国政治は再び長い保守党トーリーの支配に逆戻りするかもしれない。

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晩期資本論(連載第43回)

2015-05-06 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(2)

資本家が商品を生産するのは、その商品そのもののためでもなければ、その商品の使用価値またはこの使用価値の個人的な消費のためでもない。資本家にとって実際に問題になる生産物は、手でつかめる生産物そのものではなく、生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本を越える超過分である。

 消費者向けの様々なキャッチフレーズにもかかわらず、資本主義的生産の目的が「生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本を越える超過分」、すなわち利潤の獲得にあるという資本主義的真実を赤裸々・簡明に語っている。

資本家はただ不変資本を前貸しすることによってのみ労働を搾取することができるのだから、また彼はただ可変資本を前貸しすることによってのみ不変資本を増殖することができるのだから、彼にとってこれらのことは観念のなかではみな同じことになってしまうのであり、しかも、彼の利得の現実の度合いは可変資本に対する割合によってではなく総資本にたいする割合によって、剰余価値率によってではなく利潤率によって規定されており、この利潤率はあとで見るようにそれ自身は同じままでもいろいろに違った剰余価値率を表わすことができるのだから、ますますそうなるのである。

 剰余価値の可変資本に対する割合を示す剰余価値率は労働の搾取度を表わす指標として、第一巻ですでに登場した。この指標は労働者が自身の搾取されている割合を知るうえでは有益であるが、専ら利得に関心を持つ資本家にとっては重要な指標ではない。かれらにとって重要なのは、ここで示された剰余価値の総資本に対する割合、すなわち利潤率である。記号で表わせば、剰余価値率は剰余価値mを可変資本vで割った商であるが、利潤率はmを不変資本cと可変資本vの総和たる総資本Cで割った商である(従って、当然にも利潤率は剰余価値率より小さい数値で表わされる)。

剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点となるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである。

 剰余価値率は言わば経済原論的な一つの理論的指標であるが、利潤率のほうは経営学的な実際的指標と言える。歴史的にも、資本主義は利潤率の向上を目指す資本家の「経営努力」の歴史であったし、現在でもそうである。

・・・・利潤率は剰余価値率とは数的に違っており、他方剰余価値と利潤とは事実上同じであり数的にも等しいのであるが、それにもかかわらず、利潤は剰余価値の転化形態なのであって、この形態では剰余価値の源泉もその存在の秘密もおおい隠され消し去られているのである。じっさい、利潤は剰余価値の現象形態であって、剰余価値は分析によってはじめて利潤からむきだされなければならないのである。剰余価値にあっては、資本と労働の関係はむきだしになっている。

 さしあたり原理上剰余価値mと利潤pは等価的なものと措定されていたが、剰余価値を資本家の視点から利潤と把握し直すことによって、搾取的な剰余労働の存在が隠蔽されることが指摘されている。剰余価値とは利潤の「正体」であり、そこでは資本と労働の対立関係が明るみに出される。そのことから、剰余価値はある種政治学的な概念となるのである。

・・・・・・・利潤率の上昇が剰余価値率の低下または上昇に対応し、利潤率の低下が剰余価値率の上昇または低下に対応し、利潤率の不変が剰余価値率の上昇または低下に対応することがありうるのである。同様に利潤率の上昇や低下や不変が剰余価値率の不変に対応することもありうる・・・・・・・。

 上述のとおり、数的には別ものである利潤率と剰余価値率の関係性について、マルクスは数式例をあげて縷々検討しているが、そうした数学的操作はここでは割愛する。とにかく、利潤率の上下変動と剰余価値率の上下変動とは対応関係にあるわけでなく、様々な組み合わせがあり得るということである。 結局のところ、「利潤率は二つの主要要因、剰余価値率と資本の価値構成とによって規定される」。ここで資本の価値構成とは、併せて費用価格を構成するところの不変資本と可変資本の構成比のことである。

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晩期資本論(連載第42回)

2015-05-05 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(1)

 今回以降の参照箇所は「資本主義的生産の総過程」と題された『資本論』第三巻であるが、本巻も第二巻と同様、マルクスの遺稿を盟友エンゲルスが整理編集して公刊されたものである。
 この巻の目的は、マルクス自身の紹介によれば、「全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして叙述すること」である。すなわち、「現実に運動している諸資本は具体的な諸形態で相対しているのであって、この具体的な形態にとっては直接的生産過程にある資本の姿も流通過程にある資本の姿もただ特殊な諸契機として現われるにすぎないのである。だから、われわれがこの第三巻で展開するような資本のいろいろな姿は、社会の表面でいろいろな資本の相互作用としての競争のなかに現われ生産当事者自身の日常の意識に現われるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいていくのである」。
 つまり、第一巻で扱った個別資本の生産過程、続く第二巻で見た総資本の流通過程を経て、最終第三巻では諸資本の競争を通して剰余価値が利潤へ転化していく動態的な過程が考察されることになる。平たく言えば、資本制企業が総体として日々精進している「金儲け」の仕組みの考察である。

商品の価値のうち、消費された生産手段の価格と充用された労働力の価格とを補填する(この)部分は、ただ、その商品が資本家自身に費やさせたものを補填するだけであって、したがって資本家にとって商品の費用価格をなすものである。

 第三巻のキータームは「利潤」であるが、その前提として「費用価格」が説明される。商品の価値(W)とは、不変資本(c)と可変資本(v)、剰余価値(m)の総和で表わされるが、このW=c+v+mの定式のうち、mを控除したc+vがここで言う費用価格(k)である。簡単に言えば、コストに当たる部分である。これは、生産要素に支出された資本価値、すなわち前貸資本の補填分である。

まず第一に剰余価値は、商品の価値のうちの、商品の費用価格を越える超過分である。しかし、費用価格は支出された資本の価値に等しく、またこの資本の素材的諸要素に絶えず再転化させられるのだから、この価格超過分は、商品の生産中に支出されて商品の流通によって帰ってくる資本の価値増加分である。

 上記定式中、剰余価値mは費用価格k=c+vを越えた超過分として表わされるが、「資本家にとっては、この価値増加分は資本によって行なわれる生産過程から生ずるということ、したがってそれは資本そのものから生ずるということは、明らかである。なぜならば、それは生産過程の後では存在するが、生産過程の前には存在しなかったからである」。これが簡単に言えば、「儲け」に当たる部分である。

このような、前貸総資本の所産と観念されたものとして、剰余価値は、利潤という転化形態を受け取る。そこにおいて、ある価値額が資本であるのは、それが利潤を生むために投ぜられるからだ、ということになり、あるいはまた、利潤が出てくるのは、ある価値額が資本として充用されるからだ、ということになる。利潤をPと名づければ、定式W=c+v+m=k+mは定式W=k+pすなわち商品価値費用価格利潤に転化する。

 こうして、資本価値と剰余価値の総和で表わされた商品価値の定式は、費用価格と利潤という二つの要素の総和に変換できるわけだが、それは言い換えれば、「一方の極で労働力の価格が労賃という転化形態で現われるので、反対の極で剰余価値が利潤という転化形態で現われるのである。」ということになる。

・・・・商品が価値どおりに売れれば、ある利潤が実現されるのであって、その利潤は、商品の価値のうち費用価格を越える超過分に等しく、したがって、商品価値に含まれている剰余価値全体に等しいである。しかし、資本家は、商品をその価値より安く売っても、それで利潤をあげることができる。商品の販売価格がその費用価格より高いかぎり、たとえその価値より安くても、商品に含まれている剰余価値の一部分はつねに実現されるのである、つまり、つねに利潤が得られるのである。

 後半部分が、いわゆる安売りで利益を上げる秘訣となる。ということは、費用価格を可能な限り圧縮することが必須であり、わけても費用価格を構成する可変資本、すなわち労賃相当分を圧縮することである、安売りは低賃金労働に支えられるゆえんである。

これによって明らかにされるのは、ただ単に日常見られる競争の諸現象、たとえばある種の場合の安売り(underselling)とか一定の産業部門での商品価格の異常な低さなどだけではない。これまで経済学によって理解されなかった資本主義的競争の原則、すなわち一般的利潤率やそれによって規定されるいわゆる生産価格を規制する法則は、もっとあとで見るように、このような商品の価値と費用価格との差にもとづいているのである、また、この差から生ずるところの、利潤を得ながら商品をその価値よりも安く売る可能性にもとづいているのである。

 ここでマルクス理論による経済分析のキーワードとなる「利潤率」の概念が先取りされているが、これは商品価値と費用価格との差に着目した理論―言わば差額理論―を前提としている。このような理論は今日でも理解されているとは言えず、いわゆる「マルクス経済学」の退潮に伴い、主流的な経済学からはほぼ無視されるに至っているのが現状である。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(19)

2015-05-04 | 〆リベラリストとの対話

17:共産主義的家族モデルについて

リベラリスト:前回家族モデルの問題にも少し触れましたが、あなたが提唱する共産主義家族モデルは非婚姻的なパートナーシップというもので、要するに、資本主義社会で一般的な核家族モデルの究極ですね。これはいささか意外です。

コミュニスト:つまり、共産主義的家族モデルは、本来もっと大家族的なものではないかという疑問ですか。

リベラリスト:そうですね。核家族というのは本来労働者階級的な家族モデルであって、まさに資本主義の社会的な所産だと考えられますから、どうもあなたの描く未来の非婚的家族モデルは、共産主義的未来ではなく、資本主義的未来の家族モデルのように思えるのです。

コミュニスト:実は、私も『共産論』を執筆していた時、一番悩んだ点の一つは、家族モデル問題でした。実際、共産主義的家族モデルとして、大家族の復権という選択肢も念頭に浮かびました。しかし、私の構想する共産主義は農村社会への回帰を前提するものではなく、工業化・情報化社会の上に成り立つポスト近代的な共産社会を構想するので、農村社会的な大家族の全般的な復権はやはり想定できないと考えたのです。

リベラリスト:なるほど。そうすると、生産活動における社会化、日常生活における個人化という峻別がなされるのですね。実際のところ、そういうことが可能かどうかわかりませんが。

コミュニスト:実は、この対論のテーマにもなっている「自由な共産主義」とは、そのように個人主義的な自由と共産主義的協働化とを組み合わせようという試みなのです。共産主義=統制主義というような自由主義者が抱きやすいステレオタイプな「偏見」を克服したいのです。

リベラリスト:よくわかります。ただ、私は自由主義者ながら核家族モデルには疑問を持ち始めています。核家族は封建的な長幼序から解放されたフラットな家族関係である反面、密室的な環境下に親と子数人が逼塞的に暮らし、人間関係が濃密になり過ぎるがために、様々な家族病理を生じさせる元になっているように思います。その点、私はかえって共産主義に大家族モデルの復権を期待したくなるのです。

コミュニスト:それは興味深いご指摘ですね。これは全くの仮説モデルにとどまるのですが、共産主義社会では計画的な職業紹介システムが構築されることで、職住近接が実現するため、転居回数も減り、全般に定住性が強くなると考えられます。そうなると、近隣の結びつきが復活し、近隣家族が大家族的な集合体を作るといった形で、核家族モデルを「核」とした集合家族モデルのようなものが都市部でも現れるのではないかと予測しているのですが。

リベラリスト:なるほど、それは血縁ではなく、地縁に基づく大家族モデルのようなものですね。農村部など地方ではどうなのでしょうか。

コミュニスト:私の構想する共産社会では農業も社会的な形態で再構築されますので、農村の再編が見られるでしょう。それは従来型の家族農の集落ではなく、農業生産機構の職員の集住地となるので、農村というより「農業都市」のようなもので、そこにはやはり集合家族の形成が見られるかもしれません。

リベラリスト:そうした集合家族では家事や育児も共同化されるのですか。

コミュニスト:あくまでも仮説モデルなので、具体的な内実を説明することは難しいのですが、単なる「近所付き合い」にとどまらない「集合家族」となるからには、家事や育児も融通し合うことになるのではないでしょうか。

リベラリスト:シェアハウスのファミリー版のようなものですね。楽しそうです。どうやら、家族モデルに関しては、共産主義に軍配が上がりそうな気がしてきました。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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