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近代革命の社会力学(連載第302回)

2021-09-27 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(5)マダガスカル革命
 インド洋の東アフリカ包摂圏では最大の島国であるマダガスカルは、中央高原から出たメリナ王国が19世紀前半に全国統一に成功したものの、同世紀末にフランスの軍門にくだり、植民地となった後、1960年にマラガシ共和国として独立した。
 初代大統領フィリベール・ツィラナナは共産主義者から穏健左派の独立運動に転じ、平和的な独立を導いた功績から「独立の父」とみなされていたが、社会民主党(PSD)を与党とするその政権運営は一貫した親仏路線であり、安定はしているものの、旧宗主国フランスの経済支配が存続するいわゆる新植民地主義の代表例となっていた。
 しかし、1960年代末の不況を契機に、こうした新植民地主義の安定性は破られた。それによって、従来は隠蔽されてきた部族対立が表面化し、1970年代に入ると、ツィラナナをはじめ、北部と西部の部族連合が独占する支配体制への南部部族の不満が表出され始める。
 一方では、首都の中産階級出自の学生の間で、ツィラナナの新植民地主義への政治的批判が高まり、反体制的な学生運動が隆起するようになった。その拠点となったのが、最高学府アンタナナリヴォ大学であった。
 こうした二系統の反作用が合流した頂点が、1971年から翌年にかけての「ルタカ」と呼ばれる一連の民衆蜂起であった。これはほぼ同時発生した学生抗議行動と農民蜂起の二つの要素から成る階級横断的な蜂起である。
 先行したのは学生抗議運動で、1971年3月にアンタナナリヴォ大学医学部生が始めた抗議行動が全学的に拡大したものであるが、その翌月、南部の農民の武装蜂起が流血鎮圧され、これを扇動したとされる南部系の政党が強制解散させられた。
 これに抗議する学生運動が大学から高校・中学まで拡大し、抗議デモが頂点に達した1972年4月には治安部隊が発砲する事態となった。混乱状況が続く中、ツィラナナはベテラン軍人のガブリエル・ラマナンツォア将軍を首相に任命、国民投票によりラマナンツォア将軍が5年任期で暫定政権を率いることが承認されると、辞職した。
 こうしてルタカは、変則的ながら民衆革命に進展することとなった。後継のラマナンツォア政権は暫定移行政権とされたが、民衆革命の動因でもあった新植民地主義からの脱却と部族対立の解消を課題としつつ、社会主義化を推進した。
 その成果として、駐留仏軍の撤退とフラン通貨圏からの離脱があるが、脱フランス化による経済不振を招く中、1975年2月、任期未了のまま、軍部急進派のクーデターにより辞職に追い込まれた。
 このクーデターを主導したリシャール・ラツィマンドラヴァ内相(大佐)は、マダガスカル伝統の村落共同体を基盤とした社会主義を志向するユートピアンであったが、大統領就任からわずか6日で暗殺された。暗殺は特殊治安部隊によって実行されたとされるが、背後関係は不明である。
 この後、短期間の内戦を経て混乱を収拾したのが、「赤い提督」の異名を持つディディエ・ラツィラカ外相であった。この種の革命指導者には珍しく海軍出身(中佐)のラツィラカは1975年6月、最高革命評議会議長に就任すると、「マラガシ社会主義革命憲章」に基づく社会主義革命を宣言し、国名をマダガスカル民主共和国に改称した。
 ラツィラカ新体制はマルクス‐レーニン主義こそ明言しなかったが、マダガスカル革命前衛団(FNDR)を唯一の合法政治組織とし、産業国有化と農業集団化を基本とする政策はソ連式社会主義と径庭のないものであった。
 アフリカにおける他の類似体制と同様、政治的にはラツィラカ大統領の強権で維持されていたFNDR体制も1980年代に失敗が明確となり、政権は社会主義の放棄とIMFの構造調整を受け入れる一方で、民主化運動にも直面する中、ラツィラカは1992年に行われた複数政党制下の大統領選挙で敗北、下野した。
 その後、1997年の大統領選挙で当選、返り咲きを果たした点ではベナンのケレクと似た軌跡をたどったが、再選を目指した2001年選挙は僅差となり、勝敗をめぐり国を二分する抗争に敗れ、事実上の亡命に追い込まれた。
 その後のポスト・ラツィラカ時代のマダガスカルではなおも政情不安が続き、経済的にも旧FNDR体制からの脱却は充分に進展しているとは言えず、最貧国の状態にある。長期的に見て、マダガスカルの社会主義革命は最も明瞭な失敗に終わったと言える。


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