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近代革命の社会力学(連載第296回)

2021-09-16 | 〆近代革命の社会力学

四十二 タイ民主化革命

(3)憲法要求運動から革命へ
 タノーム首相による自己クーデターで憲法が停止され、全権委任体制に入ったことは、1932年立憲革命以後における最大級の憲法の危機を意味した。これに対する反作用は、民間からの民主憲法要求運動として発現する。
 1973年10月4日に、民主憲法を要求する百人の抵抗グループ(以下、「百人グループ」)が立ち上げられたが、これは野党政治家や社会運動家、学生活動家、教職員など主として知識中産階級に属する多様なメンバーから成り、立憲体制の回復を目的とする緩やかな非暴力抵抗グループであった。
 しかし、タノーム首相はこうした運動をも敵視し、共産主義者による体制転覆謀議であるとして、10月6日以降、百人グループメンバーの検挙に踏み切った。
 これを契機として、大学生を中心とした抗議行動が拡大し、革命へと展開していくのであるが、その展開過程は急速であり、最終的にタノーム首相の辞職・亡命に至るまでわずか10日余りという短期間に凝集された電撃的な革命であった(そのため、以後の記述中の日付はいずれも10月である)。
 ちなみに、政権側はこの憲法要求運動を当初、共産主義者と結び付けたがったが、実際のところ、運動の参加者は都市部の知識中産階級であり、北部と南部の農村地帯でのゲリラ活動を中心としていた共産党の影響はほとんどなかった。むしろ、一連の抗議行動で台頭したのは、1968年設立のタイ全国学生センター(NSCT)という学生運動体であった。
 にもかかわらず、タノーム政権が憲法要求運動を共産主義者の反乱とみなして弾圧を図ったことは、かえって政権の命脈を縮める結果となった。ピークは10日に、NSCTを中心として市民連合が設立された時である。
 この市民連合は対抗権力と言えるほどに組織されたものではなかったが、以後、政権側に対して、拘束された百人グループメンバーらの釈放を求める交渉団体としての役割を担うとともに、一般市民も加えて自然発生的に拡大した民衆デモの拠点としても機能した。
 その結果、13日には40万乃至50万人というタイ史上空前規模のデモに発展するが、ここに至り、当時の国王ラーマ9世が仲裁役として登場する。国王はすでに約束されていた副首相を中心とする新たな憲法起草委員会の作業日程を明確にさせるとともに、NSCT代表とも会見し、デモの解散を要請した。
 これを受けて、民主化運動はいったん収束したかに見えたが、14日、民主化運動の収束に反対し、デモ行動の継続を求めるNSCTの急進派グループが王宮へ向けたデモ行進を敢行したことに対し、警察と軍がこれを阻止するため出動し、武力行使により多数の学生が死亡した。
 「血の日曜日事件」とも呼ばれるこの出来事は、革命の直接的な動因となった。国王がタノーム政権に事態の収拾を強く求めたことは首相への事実上の辞任要求となり、首相は他の側近閣僚らとともに出国・亡命した。
 こうして、いったんは非暴力の憲法要求運動の線で収束するかに見えた抗議行動が、予期せぬ流血事態の発生により、政権を崩壊させる革命へと急転したのであった。そうした点で、この1973年民主化革命は1932年に続く第二の立憲革命としての意義を持ったと言える。
 ただ、専制君主制を終わらせた第一革命とは異なり、第二革命はファッショ化した軍事独裁体制を終わらせ、かつ、その過程で国王が政治的仲裁者として力学的に大きな作用を示したことは興味深い点である。
 実際、これ以降、ラーマ9世は長きにわたり、政局の緊迫的な節目で仲裁役としての役割をしばしば果たすようになり、政局の如何を問わず君主が完全に名目化された西欧式立憲君主制とは異なるタイ独自の、言わば仲裁型立憲君主制を形作ったのである。


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