ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第410回)

2022-04-12 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(7)チェチェン独立革命とその挫折
 ソ連邦解体革命の対内的な余波事象の中でも、チェチェン人による分離独立運動は独立革命としての性格を持ち、ロシアとの間で二度の戦争に発展するなど、最も大きな動乱を引き起こした点で、特筆する意義がある。
 コーカサス地方のイスラ―ム系先住民族であるチェチェン人は、18世紀以降、帝政ロシアの攻勢に抵抗し、19世紀には近縁の周辺民族と共に神権制のイマーム国家を形成したが、1859年には時のイマーム・シャミールがロシアに投降し、ロシアの支配下に置かれた。
 ロシア十月革命後、ソ連邦が形成されると、近縁のイング―シ人とともに名目的なチェチェン・イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国として包括されたが、第二次大戦中に少数民族の裏切りを警戒したスターリンの強制移住政策により共和国は廃され、住民は中央アジア・シベリア送りとなった。
 その後、スターリン死去を受けた脱スターリン化改革により、チェチェン・イングーシ自治共和国が再構成された。とはいえ、この共和国もまた名目上の自治国家に過ぎず、実質はソ連邦構成共和国たるロシアの一部であった。そのような状況で、1990年代の連邦解体過程を迎えることになる。
 ゴルバチョフ政権が推進していた新連邦条約では、チェチェン・イングーシを改めてソヴィエト連合に加盟する主権国家として認める予定であったところ、91年8月の保守派クーデターを機に新連邦条約も棚上げとなった。
 クーデターが失敗した翌月の91年9月、独立を明確に目指す野党組織として結成されていたチェチェン人民全国会議が決起し、チェチェン‐イングーシ最高会議その他主要施設を制圧し、革命に成功した。そのうえで、同年11月、チェチェンの古い地名イチケリアを冠したチェチェン‐イチケリア共和国の成立が宣言された。
 この革命過程を主導したのは、初代大統領に選出されたジョハル・ドゥダエフであった。彼は元ソ連邦空軍少将で、少数民族出自としては異例のエリート将校であったところ、最後の任地エストニアで独立阻止のためソ連軍が命じた議会封鎖を拒否したことで、エストニア独立にも寄与した。この体験に触発されて、軍を退役、帰郷した後、自ら独立運動家となった。
 ドゥダエフは91年の保守派クーデターに際してはいち早くエリツィンら抵抗勢力を支持したが、単立国家となったロシアは枢要な石油パイプライン・ルートが通るチェチェンの独立は容赦しなかった。そこで、エリツィン政権は、94年2月以降、ロシア軍を投入し、チェチェン‐イチケリア共和国を打倒する軍事作戦を展開した。
 こうした始まった第一次チェチェン戦争でロシア軍はチェチェン側のゲリラ戦に苦戦するも、96年にドゥダエフを戦闘中暗殺することに成功し、97年には平和条約の締結を実現した。
 しかし、独立戦争を通じて台頭し、イスラーム首長国の樹立を企てるイスラーム過激派によるとされるロシア国内のテロを理由に、99年、ロシア軍が再び進撃、第二次チェチェン戦争となる。
 今次は長期戦とならず、ロシア軍は2000年5月までにチェチェンを制圧し、親ロシア傀儡政府を樹立したが、その後も、チェチェン過激派による対ロシア・テロ活動が2010年代初頭まで続き、多くの犠牲者を出した。
 対するロシアはドゥダエフ以降も、チェチェン・イチケリア共和国大統領を名乗る独立運動の歴代指導者全員を暗殺する徹底した弾圧作戦で臨み、力で抑え込むことにひとまず成功したため、チェチェン独立革命は二次に及ぶ凄惨な戦争で最大推計15万人を超える民間死者を出して挫折する結果に終わった。
 その点、ロシア側では、第二次チェチェン戦争の勝利は健康不安のエリツィンから首相、続いて大統領代行に抜擢されたウラジーミル・プーチンの最初にして最大の功績とみなされ、その後のプーチン長期支配体制のステップともなった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿