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近代革命の社会力学(連載補遺19)

2022-09-23 | 〆近代革命の社会力学

八ノ〇 第二次メキシコ共和革命

(2)自由主義革命から「改革戦争」へ
 1846年8月に復旧された連邦制の第二次メキシコ合衆国では、第一次合衆国時代における連邦派と集権派の権力闘争が止揚されることなく、よりイデオロギッシュに、かつ内戦を伴う形でより激動的に展開されることになった。
 元来、集権派はカトリック教会の権威とサンタ・アナに代表されるクリオーリョ軍閥の政治経済上の権益を優先する傾向があったが、第二次合衆国ではこうした集権派がカトリック教会と結ぶ形で保守派として再編された。
 一方、連邦派は従前からカトリック教会の権威を否定する進歩主義の思想傾向を備えていたが、第二次合衆国ではベニト・フアレスのような先住民族出自の指導者も出現し、教会‐クリオーリョによる政治経済支配構造の改革を目指す自由主義改革派として台頭した。
 実際のところ、第二次合衆国の初期には、1844年の政変で一度は失権しながら復権し、1854年に最終的に失権するまで保守派のサンタ・アナが断続的に大統領を務め、睨みを利かせていたが、最後の在位となる1853年からの任期では「終身独裁官」を称し、独裁制を強化したことが政治生命を縮めた。
 サンタ・アナ独裁に対抗して内部に穏健派と急進派の対立を抱えていた自由主義派が糾合、1854年に発したアユトラ綱領に基づいて武装蜂起し、ゲリラ戦の末、1855年にサンタ・アナを最終的な失権に追い込んだ。
 この自由主義派の勝利は、1833年以来、断続的に都合11次にもわたり大統領を務めてきたサンタ・アナ実権支配体制に対する最終的な勝利を決する実質的な革命の性格を持つ画期的事変であった。
 実際、政権を掌握した自由主義派は「改革法」と呼ばれる一連の構造改革諸法を矢継ぎ早に打ち出した。その眼目は反カトリック教会であり、聖職者特権の廃止、教会の土地所有の禁止、さらに教会財産の国有化にも踏み込むものであった。その集大成として、1857年に個人の財産所有を強調するブルジョワ自由主義の新憲法を公布した。
 こうした改革は、当然ながら教会及び教会の権威と結びついたクリオーリョ軍閥の強い反発を引き起こし、当時の改革派大統領イグナシオ・コモンフォルトを脅迫して保守派に鞍替え辞職に追い込んだことを引き金として、反革命内戦(通称「改革(レフォルマ)戦争」に突入する。
 戦況は緒戦こそ保守派優位に進み、首都メキシコ首都を落として、改革派を南部の都市ベラクルスに追いやるが、保守派がベラクルスの攻略に失敗すると、ゲリラ戦術で反撃する改革派が盛り返し、1860年には保守派は降伏した。
 その結果、1861年3月の大統領選挙では、1858年に辞職したコモンフォルトから当時の最高裁判所長官として規定上大統領職を自動的に引き継いでいたベニト・フアレスが当選したことで、改革派の勝利は確定したかに見えた。


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