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奴隷の世界歴史・総目次

2018-06-15 | 〆奴隷の世界歴史

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より全記事(原則別ブログに掲載された記事に飛びます)をご覧いただけます。

 

序言 ページ1

第一章 奴隷禁止原則と現代型奴隷

奴隷禁止諸条約の建前 ページ2
残存奴隷慣習と復刻奴隷制 ページ3
性的奴隷慣習の遍在 ページ4
児童奴隷慣習の遍在 ページ5
隷属的外国人労働 ページ6

第二章 奴隷制廃止への長い歴史

奴隷制廃止の萌芽 ページ7
英国の奴隷制廃止運動 ページ8
英国の奴隷制廃止立法 ページ9
人種隔離国家・南アフリカの形成 ページ9a
フランス―革命と奴隷制 ページ10
ハイチ独立―奴隷の革命 ページ11
ラテンアメリカ独立と奴隷制廃止 ページ11a
アメリカの奴隷制廃止運動 ページ12
リベリア―解放奴隷の帰還国家 ページ13
ルーマニアのロマ族奴隷廃止 ページ14
アメリカ内戦と奴隷解放宣言 ページ15
「苦力」労働制への転換 ページ16
イスラーム奴隷制度の「廃止」 ページ17
奴隷制禁止の国際条約化 ページ18
ナチスとソ連による強制収容所労働 ページ18a(準備中)
旧奴隷制損害賠償問題 ページ19

第三章 世界奴隷貿易の時代

世界奴隷貿易 ページ20
イスラーム奴隷貿易:前期 ページ21
大西洋奴隷貿易:初期 ページ22
大西洋奴隷貿易:最盛期 ページ23
インド奴隷貿易 ページ23a(準備中)
奴隷供給国家 ページ24
逃亡奴隷共同体Ⅰ:サントメ島 ページ24a(準備中)
逃亡奴隷共同体Ⅱ:中南米 ページ25
北米のブラック・セミノール ページ26
大西洋奴隷貿易の終焉 ページ27
イスラーム奴隷貿易:後期 ページ28
世界奴隷貿易の全体像 ページ29

第四章 中世神学と奴隷制度

イスラーム奴隷制の基底 ページ30
マムルークと女奴隷 ページ31
奴隷制と中世キリスト教会 ページ32
ローマ教皇の奴隷貿易容認勅許 ページ33
スペインにおける奴隷論争 ページ34

第五章 アジア的奴隷制の諸相

中国の奴隷制① ページ35
中国の奴隷制② ページ36
日本の奴隷制 ページ37
朝鮮の奴隷制 ページ38
インドの奴隷制 ページ39
東南アジアの奴隷制 ページ40

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ギリシャの奴隷制 ページ41
古代ギリシャ人の奴隷観 ページ42
古代ローマの奴隷制 ページ43
古代ローマの剣闘士奴隷 ページ44
古代ローマの奴隷大反乱 ページ45
古代ローマの解放奴隷 ページ46

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制①:メソポタミア ページ47
古代「文明」と奴隷制②:エジプト ページ48
古代「文明」と奴隷制③:中国 ページ49
古代「文明」と奴隷制④:インド/ペルシャ ページ50
古代「文明」と奴隷制⑤:古代ユダヤ ページ51

結語 ページ52

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奴隷の世界歴史(連載最終回)

2018-06-10 | 〆奴隷の世界歴史

結語

 本連載では、奴隷(制)という慣習に焦点を当てて、世界歴史を現在から過去へと遡ってとらえ直すという異例の叙述を試みてきた。結局のところ、奴隷制は少数の例外を除けば「文明」の開幕時にはすでに存在していたという哀しい事実が改めて確認された。
 その場合、「文明」を拓いた古代国家の時代に奴隷制が初めて創始されたか、それ以前の先史時代にすでに創始されていたかはなお検証の余地が残されている。私見は、先史時代に立場の弱い他者を拘束して使役するという言わば始原的奴隷慣習が創始されていて、古代国家はそうした慣習を法律という「文明」の所産に仮託して制度化したとみなしている。
 もっとも、先史時代と言っても純粋な狩猟採集生活の時代には奴隷は必要とされなかっただろう。狩猟採集生活では各人の狩猟採集の技能がすべてだからである。その後、農耕生活に移行しても、原始農耕は比較的平等な共同体成員によって担われ、奴隷労働を必要としなかった。
 おそらくは、生産活動の組織化とともに雑務に従事する被用者を必要とするようになり、とりわけ肉体労働的な部分労働を拘束下の他者を使役して担わせる習慣を生じ、そうした奴隷を安定供給するべく、人間そのものを商品として売買する奴隷取引・交易が活発化したものと考えられる。
 最も初期の奴隷は戦争捕虜ないしは戦争に伴う略奪によって拉致された被征服地の住民であっただろう。奴隷制と戦争は相即不離の関係にある。その後、貨幣経済の発達に伴い、借金を負った債務者が奴隷に落とされる債務奴隷も増大していく。戦争と貨幣経済が奴隷制を支えた―。そう断じても過言でない。

 現代においては、戦争捕虜の奴隷化も債務奴隷もほとんど見られない代わりに、第一章各節に見たような種々の形態での現代型奴隷制が依然として残されている。これらの奴隷は、旧来の奴隷とはいささか異なり、表面上は「契約」に基づく労働の形態を取っていることも多く、身体的には拘束下にないこともある。
 序説冒頭で紹介した「人格としての権利と自由をもたず、主人の支配下で強制・無償労働を行い、また商品として売買、譲渡の対象とされる「もの言う道具」としての人間」という文字どおりの奴隷を「形式的意味の奴隷」と名づけるとすれば、現代型奴隷の多くは形式のいかんを問わず、実態として雇い主に隷属している点で「実質的意味の奴隷」と呼ぶべきものである。
 厳密には前者だけを「奴隷」と呼ぶべきかもしれないが、奴隷の定義を狭めると、現代型奴隷の多くは奴隷でなく、単なる労働者ということになって、その禁止と保護をゆるがせにすることを恐れるため、本連載では「実質的意味の奴隷」を含めて、奴隷の定義を広く取ってきたものである。
 もっとも、「実質的意味の奴隷」を拡大解釈していけば、賃金を報酬として受け取りつつ、雇い主の支配下で剰余労働搾取を受ける賃金労働者もある種の奴隷―賃金奴隷―ということになる。
 しかし、正当な賃金労働者には入退職の自由が保障されていることから、本連載では、総体として領主に隷属しながら相対的な生計の自由が保障されていた歴史上の農奴を奴隷に含めないのと同様に、賃金労働者も奴隷には含めなかった―強いて言えば「農奴」に対し「賃奴」―。
 いずれにせよ、人類が自己利益を拡大するために他者を「道具」として利用しようという欲望を断ち切れない限り、奴隷制は何らかの形で残存し続けるだろう。人類は果たして奴隷制と絶縁することができるか否か―。これは、人類の未来がかかった大きな問いである。(了)


※以下のリンクから、別ブログに再掲された本連載全記事を個別リンクで一覧できる目次をご案内しています。

http://blog.livedoor.jp/kobasym/archives/24000952.html

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奴隷の世界歴史(連載第51回)

2018-06-03 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制⑤:古代ユダヤ
 古代ユダヤ人は、聖書で有名な出エジプトに象徴されるように、古代エジプトによって奴隷化されていた時代もあった。もっとも、出エジプトは同時代の他史料による裏づけができておらず、史実性には慎重な留保が必要であるが、まったくの虚構と断じる根拠もない。
 いずれにせよ、旧約聖書(ヘブライ語聖書)以来、語り継がれていった出エジプト‐脱奴隷化はユダヤ人の歴史的原体験とも言える。ところが、一方で、古代ユダヤ人自身がその社会に奴隷制を有していたことは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記された奴隷に関する数多くの法的規定からも明白である。
 古代ユダヤ社会の奴隷は家内奴隷が中心的であり、非ユダヤ人奴隷とユダヤ人奴隷とに系統が分かれていた。このうち非ユダヤ人奴隷の多くは戦争捕虜出自であり、ユダヤ人奴隷は貧困者や債務者出自であったという点では、他の古代社会と類似するところが多いが、古代ユダヤ社会では、この両系統の奴隷が異なる法規によって規律されていたことに特徴がある。
 非ユダヤ人奴隷の多くは、ユダヤ人が征服対象とみなしていたカナーン人から徴発されることが多く、奴隷の大半を占めていたと見られる。その待遇はユダヤ人奴隷に比べても劣悪であり、ユダヤ人奴隷は一定年数の経過後、また聖書にいわゆるヨベル(大恩赦)年ごとに解放されたのに対し、非ユダヤ人奴隷は恒久的かつ遺言相続の対象とされた。
 古代ユダヤ社会では元来、他者を完全に人格支配する文字どおりの奴隷化は許されていなかったとされるが、この人格尊重論が適用されたのはユダヤ人奴隷だけであり、非ユダヤ人奴隷には適用されなかったのである。
 このような差別待遇は、ノアのカナーンに対する呪い―ノアが自身の酔った寝姿を見た息子ハムの子カナーンを呪い、カナーンの子孫がセムとヤペテの子孫の奴隷となると予言したとされる聖書説話―によって、宗教的に正当化された。
 このような民族差別的な二元奴隷制の一方で、古代ユダヤ社会の奴隷法制は外国から逃亡してきた奴隷の送還を禁じ、これら外国人逃亡奴隷を通常の外国人居住者と同等に扱うこととしている。ある種の亡命者庇護権の先駆として注目される規定である。

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奴隷の世界歴史(連載第50回)

2018-05-27 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制④:インド/ペルシャ
 古代インド文明は、インダス文明時代とそれが何らかの要因で滅亡した後に移住してきたアーリア人によるアーリア文明に大別できるが、インダス文明時代の社会構造については不明な点が多い。君主の存在を示すような壮麗な宮殿や大規模墳墓は検出されないことから、比較的平等な都市国家型文明だったと推察されている。
 とはいえ、都市国家でも古代ギリシャのように奴隷制に依存した社会は存在したのであり、インダス文明都市も奴隷制に支えられていた可能性がないわけではない。しかし、古代ギリシャのように、奴隷の姿が明確に描かれた出土品は未発見である。
 インダス文明滅亡後に現れたアーリア文明の段階に関しては、以前の記事で言及したように、緩やかな奴隷制を伴っていた。仏典にも奴隷への言及がかなりあり、ブッダに仕える奴隷の存在も示唆されているほどである。いまだ出自不詳のインダス文明人に比べ、アーリア人は階層的な社会構造を好んだことが窺える。
 古代アーリア人は第二波としてイランにも移住してペルシャ人をはじめとする様々な種族に分かれ、中でもペルシャ人が古代国家の担い手として台頭してくるが、興味深いことには、ペルシャでは奴隷制が組織的に行なわれた形跡が見られない。
 古代ペルシャ文明の集大成とも言えるアケメネス朝にあっても、奴隷はごく少数にとどまり、多くは王朝に反攻した周辺諸部族を奴隷化したものであった。実質的な王朝創始者キュロス1世は、非戦闘員の奴隷を廃止したとされる。その実態については慎重な検証を要するが、奴隷制廃止としては最も先駆的な開明策と言える。
 キュロス2世はメソポタミアを武力で統一すると同時に、ユダヤ人のバビロン捕囚を解放するなど、寛大lな解放者としての側面を有し、古代の統治者としては異例の人物でもあった。
 アケメネス朝は古代ギリシャにたびたび征服・干渉戦争をしかけたことから、この戦争は民主制対専制の争いとみなされることも多いが、こと奴隷制に関しては「民主制」のギリシャ世界のほうがはるかに後進的であったのだ。
 とはいえ、アケメネス朝が滅び、数百年を経て成立したササン朝ペルシャの時代になると、明白に立法化された奴隷制が存在するようになるので、非奴隷制的なペルシャ文明社会は紀元前の古代国家の時代に限定され、時代が下って後退的変化が生じたことも興味深い。

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奴隷の世界歴史(連載第49回)

2018-05-13 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代「文明」と奴隷制

古代「文明」と奴隷制③:中国
 従来、古代中国における最初の実在的な統一王朝とみなされてきた殷は、奴隷制に基盤を置く奴隷制社会と理解されてきたが、殷より遡ることが実証されつつある夏の時代の社会編成は不詳である。
 殷における奴隷の主たる給源は対外戦争で確保した捕虜であり、かれらを労役や軍務に徴用していた点では他地域の古代国家と大差ないが、殷ではその濃厚な祭政一致体制における宗教儀礼で欠かせない生贄や王侯の殉葬にも奴隷を供した点に特徴があった。
 その後、殷の奴隷制社会が後継の周王朝によって転換されたか、それとも春秋戦国時代まで継続されたかは歴史学的な論争点である。周王朝は一般に封建制社会と特徴付けられるが、これは王族を各地に封じたもので、西欧中世における奴隷制と区別された農奴制に基盤を置く領主制とは異なり、奴隷制とも両立し得る社会構制であったと言える。
 春秋戦国の分裂を止揚して全国統一に成功した秦は厳罰主義的な法治国家で、とりわけ男性犯罪者への宮刑を多用した。宮刑受刑者は、時に家族もろとも奴隷身分に落とされた。秦は万里の長城や始皇帝陵に代表されるような大規模建築事業を好んだが、これらの建設作業には農民のほか、奴隷が徴用されたと見られる。
 秦の時代には、後の奴婢制度の原型となる官奴と私属の区別が形成され、秦の政界実力者であった呂不韋などは私属奴隷を一万人も所有していたとされる。こうした社会編成は秦滅亡後の混乱を収拾して成立した漢王朝にも基本的に継承された。
 ちなみに、前漢7代武帝に仕え、匈奴対策で活躍した将軍・衛青は生母が奴隷出身という低い身分の出で、下級官吏の養父に引き取られた後も奴隷の扱いを受けていたとされる。姉が入内し武帝の皇后となったことで出世の機会をつかんだが、姉弟ともどもこのような幸運は稀であった。
 前漢末になると、豪商を含む上層階級が大量の私属奴隷を抱え込み、庶民の労働を奪う結果となったことから、12代哀帝は身分ごとに所有できる奴隷数の上限を定める規制策を導入した。
 その後、前漢を打倒して新を建てた王莽は奴隷制廃止・奴隷売買禁止という画期的な政策を導入したが、社会主義的な農地国有化や統制経済などと共に、当時としては革命的に過ぎた王莽の策は失敗し、新は短命に終わった。
 その後、後漢から三国時代、五胡十六国・南北朝時代をはさんで唐の成立に至る過程で、中国の奴隷制は律令体制の下、公式の奴隷制度たる奴婢制度として定在化していくのである。
 なお、五胡十六国時代に後趙を建国した石勒は中国史上唯一の奴隷出自皇帝と紹介されることもあるが、本来は匈奴系羯族の一族長家の生まれで、飢饉を機に出奔流浪し、一時奴隷となったに過ぎない。

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奴隷の世界歴史(連載第48回)

2018-04-29 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制②:エジプト
 古代エジプト(特に古王国時代以降)は周知のピラミッドや壮麗な神殿などの巨大建造物の宝庫であるが、その影にはそれら巨大建造物の築造作業に当たった膨大な建設作業員の存在が想定される。古代エジプト王ファラオはそれだけの労働力を動員する権能を備えていたことはたしかである。
 その作業員たちの身分属性については、古代ギリシャの史家ヘロドトスや聖書の記述に影響され、奴隷とみなされてきたが、近年は奴隷説を否定し、専門技術者が存在したとか、農閑期の農民を動員したなどの修正説が盛んである。
 こうした古代エジプトのイメージアップには近年における考古学的研究成果が一定反映されていることは認められるとしても、重機が存在しない時代における巨大建造物の築造が相当な重労働だったことは間違いなく、厳重な監督下に行なわれた末端労働は実態として隷役であっただろう。
 このように古代エジプトの奴隷制に曖昧な点がつきまとうのは、同時代のエジプト史料上の用語が不安定かつ多義的なせいのようである。しかし、あえて分類整理すれば、真の奴隷と債務奴隷、強制労働者の三種に大別できるとされる。
 真の奴隷の多くは戦争捕虜であり、エジプトの対外戦争が増発するにつれて増加した。特にピラミッド建設が本格的に開始された第四王朝創始者スネフェル―彼の息子が「ギザの大ピラミッド」建造者クフ―の時代には、ヌビア人やリビア人を大量に奴隷化した記録がある。
 戦争捕虜は王の所有物とされ、主に兵士や警護官、鉱山労働者として投入されたほか、神殿や貴族などに下賜されることもあった。しかし、古代ローマのように農業労働に投入されることはなかったと見られる。王はこうした奴隷の配分や下賜の権限を保持していた。
 債務奴隷は古代中世に至るまで世界に広く見られた奴隷の一形態であり、債務返済の代償でもあった。債務を負っておらずとも、貧困ゆえに自ら身売りして奴隷となる貧困奴隷も債務奴隷に準じた形態である。こうした私的な奴隷売買は市場を通じて行なわれたが、取引は地方官の面前で監督された。
 三つ目は強制労働者であり、ピラミッド建設のような国家プロジェクトに従事したのは、かれらと見られる。ピラミッド建設に代表されるような大規模プロジェクトを好んだ古代エジプトは、強制労働者を組織的に徴用・配分する人身配分庁なる官庁も備えていた。
 こうした強制労働は古代東アジア律令制下の租税制度であった租庸調の庸(徭役)に類似した一種の税制とみなすこともできるが、古代エジプトの強制労働には報酬が支払われており、その点では賃金労働の萌芽と理解する余地もある。ただ、巨大建造物築造のような労働内容の過酷さに鑑みれば、実質的には奴隷制に近いと解釈する余地も十分にあろう。
 古代エジプトではメソポタミアのハンムラビ法典に匹敵するような体系的な法典が検出されていないため、奴隷の法的地位や奴隷をめぐる法律関係の詳細は不明であるが、断片的な事実は再現できる。
 それによると、奴隷には食糧が支給されたほか、財産を所有することができるなど、その待遇は懲罰的な神殿奴隷を除き、比較的良かったと見られている。また児童の奴隷化自体は認められていたが、児童奴隷を過酷な肉体労働に従事させてはならないという規制の存在は、児童労働保護の先駆としても注目される。

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奴隷の世界歴史(連載第47回)

2018-04-15 | 〆奴隷の世界歴史

第七章 古代国家と奴隷制

古代「文明」と奴隷制①:メソポタミア
 前章では古代ギリシャ・ローマの奴隷制に焦点を当てたが、あえて時代を過去へ逆にたどる構成を採ってきた本連載の最終章となる本章では、古代ギリシャ・ローマより遡る古代国家における奴隷制の諸相を概観する。国家と奴隷制の結びつきの起源を探る試みである。
 古代国家と言えば、「文明」の創始と結びつけられて美化的に語られることが多い。実際、そのような開明的な側面も認められることはたしかであるが、その裏には他人を隷属させて労役を課す奴隷制の創始という暗黒面も認められる。「文明」の持つもう一つの顔である。
 「文明」の発祥地と言えば、在来の通説に従う限り、メソポタミア地方であり、中でも当地に最初の文明的都市国家を築いたと目されるシュメール文明が嚆矢であるが、今日では死語となったシュメール語には奴隷を意味するイル(男性奴隷)/ゲメ(女性奴隷)という対語が存在していた。
 これらの奴隷には、戦争捕虜として連行された者の他に、商人から購入された者もあり、奴隷制の根本的な骨格はすでに「文明」創始期から出揃っていたことがわかる。ただし、奴隷労働力が生産活動全般を担うことはなく、奴隷は専ら家内奴隷として家事・家内生産に動員されていた。
 シュメール文明を征服・継承してメソポタミアに最初の統一国家を一時的に築いたアッカド帝国の時代に「自由民/奴隷」という初歩的な身分制が整備されたと見られるが、奴隷は家畜同様に売買される身分ながら、独立して生計を立てたり、解放されて半自由民となることもできるなど、柔軟性があった。
 後にシュメール都市国家を再建したウル第三王朝創始者ウル・ナンム王が制定した現存する世界最古の成文法であるウル・ナンム法典(紀元前2100年乃至2050年頃)には奴隷に関する規定が数か条搭載されており、中でも逃亡奴隷の捕縛者に報奨金を出す奴隷の逃亡抑止のための規定の存在は、奴隷制が単なる社会慣習から法制度に昇華されたことを示している。
 続いてこの地の覇者となり、かつ精緻な法典を制定して文明国家を発展させたのがバビロニアであるが、中でも有名なハンムラビ王が制定したハンムラビ法典は奴隷に関する詳細な規定を擁する。おそらく、これは体系的な奴隷法制としては史料的に現存する最古のものであろう。
 そこでは奴隷の逃亡幇助が死罪とされ、奴隷の逃亡抑止がいっそう厳格に図られている。さらに奴隷は宮殿台帳に登録されるとともに、奴隷には刻印を義務づけ、それを抹消する行為も死罪とされるなど、奴隷の国家管理が明確にされている。
 とはいえ、バビロニアの奴隷制もやはり家内奴隷を中心とする限定的な制度である。後代の新バビロニア時代になると、神殿に所有され神殿の雑務に従事する神殿奴隷や、王室に従属する王室奴隷などのカテゴリーが誕生するが、それらも広い意味では神殿なり王室なりの「家内労働」に当たる家内奴隷と言い得る存在であった。

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奴隷の世界歴史(連載第46回)

2018-03-25 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ローマの解放奴隷
 古代ローマの奴隷制の特徴として、奴隷主が奴隷の個別的な解放に比較的好意的であったことが挙げられる。その傾向は、スパルタクスらの第三次奴隷大反乱の後には、さらに強まった。
 元来、古代ローマの解放奴隷には市民権が与えられ、投票権も保障された点で、古代ギリシャのそれとは異なっていた。経済的な面でも、奴隷の財産所有が認められるようになり、解放奴隷には土地所有権も保障されたことから、解放後、裕福になることもできた。
 ただし、解放奴隷は解放後も元主人との関係が続き、元主人を庇護者(パトロヌス)とするクリエンテスと呼ばれる古代ローマ独特の社会的関係性を築くのが通例であった。クリエンテスは奴隷のような一方的従属関係にあるのではなく、パトロヌスに奉仕することにより、見返りに経済的・社会的な便宜を図ってもらう「持ちつ持たれつ」の関係である。
 クリエンテスはそのすべてが解放奴隷であったわけではないが、クリエンテスを多く持てば持つほど有力者とみなされ、また貴族の重要な義務である戦時の兵力動員に際しても兵力となるクリエンテスが多いほど有利であったローマ貴族にとって、奴隷を解放することは手っ取り早いクリエンテス培養手段であった。
 一方で、気前の良すぎる奴隷解放により古代ローマの社会経済基盤である奴隷制が崩壊しないよう奴隷主は奴隷を解放するに当たり、解放税を納税する義務が課せられていたが、奴隷の供給が停滞した帝政期になると、奴隷を購入するより、解放奴隷をクリエンテスとして奉仕させるほうが貴族階級にとっても有益となったことから、奴隷解放が促進されたと見られる。
 解放奴隷たちは社会組織の面でも、農場の奴隷監督者や役所の中間管理職、あるいは剣闘の興行主といった中間層を形成し、奴隷制が弱化していく帝政期以後には解放奴隷階層は社会の維持に不可欠の要素となっていた。
 解放は、奴隷にとっては階級上昇の重要なステップであった。中でも4代クラウディウス帝時代には解放奴隷が高級官僚ポストに多数登用され、中でも財務長官となったマルクス・アントニウス・パッラスは国庫を預かり、事実上の宰相格として宮廷でも絶大の権限を持つに至った。
 またローマに編入された征服地エジプト属州は皇帝私領にして食糧供給地帯というその特殊な地位から、長官職には皇帝に近い解放奴隷を充てることが慣例とされていた。
 ちなみに、後期ストア派哲学者として名高いエピクテトスも解放奴隷であり、彼は14代ハドリアヌス帝と親しく交わり、その思想はハドリアヌスを継いだ哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝にも影響を及ぼした。
 とはいえ、古代ローマの解放奴隷は自由民の地位にとどまり、元老院議員をはじめ、公選公職や神官といった高位職に就く資格はなく、また将軍となり軍閥を形成することもできなかったから、イスラーム圏のマムルーク朝のように解放奴隷から支配層にまでのし上がる下克上の可能性は開かれていなかった。*例外として、内乱期の193年に五人の皇帝が次々と擁立された「五皇帝の年」における最初の皇帝となったペルティナクス帝は父が解放奴隷出自であった。また3世紀に専制君主政を創始したディオクレティアヌス帝も解放奴隷出自との説があるが、定かではない。
 パッラスのように官僚として重きをなす道も―彼自身、5代ネロ帝により処刑―、ハドリアヌス帝が官僚制度を整備するに当たり、解放奴隷が官僚として政治参与する余地を狭めたことで、閉ざされることとなった。

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奴隷の世界歴史(連載第45回)

2018-03-18 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ローマの奴隷大反乱
 古代ローマの歴史を特徴付けるものとして、しばしば「奴隷戦争」とも称される奴隷による大反乱がほぼ30年間隔で三度記録されていることである。このことは、古代ローマでは結集すれば戦争を起こせるほどに奴隷が多く使役されていたことと、奴隷の待遇が戦争を起こさせるほどに劣悪だったことを示している。
 ただし、いずれの大反乱も共和政時代に集中していることは、共和政時代の政治的な不安定性と軍事的な脆弱性を示しており、帝政時代に入るとローマの軍事力が確立される一方で、解放奴隷も増えるなど、奴隷の待遇も向上し、かつ奴隷の新規供給が困難になったことを示してもいる。
 三度の大反乱のうち、最初の二度はいずれもシチリア島で発生している。シチリアは二次に及ぶポエニ戦争の結果、ローマが最初の属州として手中にした記念すべき征服領土であり、それだけにシチリアでは奴隷を酷使する典型的な大農場経営(ラティフンディウム)が導入されていた。
 前にも触れたとおり、農場奴隷は待遇が悪く、とりわけシチリアのような本土から離れた征服地では衣食住も満足に提供されない有様であったから、奴隷の不平不満は爆発する必然性があった。そうした時に、シリア出身の解放奴隷エウヌスが預言者を称して反乱を煽動したのが、前135年から3年に及んだ第一次奴隷大反乱である。
 反乱軍の指揮を執ったのはトルコ出身の奴隷クレオンであったが、精神的指導者と作戦指揮者を分担した反乱軍の巧みな体制は、ローマ当局を手こずらせた。しかしクレオンの戦死をきっかけに反乱は鎮圧され、エウヌスも捕縛護送中に死亡した。
 しかし、それからおよそ30年後の前104年、再びシチリアで奴隷大反乱が発生する。第二次大反乱は、第一次に比べると偶発性が強く、きっかけはガリア地方の先住民キンブリ族の反乱に対処するべく、ローマ軍司令官ガイウス・マリウスが奴隷を解放して徴兵しようとしたことにあった。
 その際に解放したシチリア奴隷たちが、サルウィウスなる人物に率いられて反乱を起こしたのだった。サルウィウスは30年前の反乱指導者エウヌスの後継者を自称し、第一次反乱の記憶を利用しつつ第一次反乱より長い4年を戦ったが、これもマリウスの部下であった執政官マニウス・アクィリウスによって鎮圧された。
 それからさらにおよそ30年後の前73年、今度は初めてイタリア本土で史上最大規模の奴隷大反乱が勃発する。この第三次奴隷大反乱はその規模やローマ側の損害から見ても、優に「戦争」と呼び得る事態であった。その指導者は剣闘士奴隷スパルタクスである。
 スパルタクスは剣闘士に多いバルカン半島の先住民トラキア人の出身と見られ、剣闘が盛んな南イタリアはカプアの剣闘士養成所に所属していた。前に触れたとおり、剣闘士奴隷は生命の危険を伴う最も過酷な境遇の奴隷であり、待遇への不満が鬱積していた。
 スパルタクスと彼の同僚らがそうした境遇からの逃亡を企てたのが、この大反乱のきっかけであった。それがなぜ単なる集団脱走を越えて「戦争」に発展したかは定かでない。スパルタクスの大反乱はしばしば後世の史家によって美化され、階級戦争の初例として挙げられることもあったが、一競技者にすぎないスパルタクスらにそこまで覚醒された問題意識があったかどうかは疑わしい。
 とはいえ、前二回の反乱のように扇動者的存在はいなかったにもかかわらず、反乱軍は様々な種類の奴隷を糾合して最終的に推定30万人規模にまで膨れ上がり、まさしく奴隷の階級的蜂起の様相を呈したことは間違いない。またスパルタクスは扇動者としてより軍事指導者として優れており、反乱軍は規律と統制が取れていたと評されている。
 しかし、スパルタクスの盟友であったクリクススが何らかの対立から離脱行動を取ったことに加え、緒戦では反乱を見くびり敗北を重ねたローマ側がクラッススやポンペイウスらの有能な将軍を投入して反攻に出た結果、前71年までに反乱は鎮圧され、スパルタクスは戦死(推定)、捕虜数万人が見せしめのため磔刑に処せられた。
 こうして第三次奴隷大反乱は規模こそ最大級ながら、期間は最も短い2年ほどで終息することとなった。しかし、この事件の衝撃余波は大きかったと想像され、以後奴隷の待遇は改善され、財産の所有や個別的解放の増発、また農場奴隷の小作人への転換などが徐々に進んでいった。
 それはとりもなおさず、ローマ社会の土台であった奴隷制の衰退と体制の終焉へ向けた長いプロセスの始まりでもあったと言えよう。そうした意味では、スパルタクスがどこまで意識していたかは別としても、彼の名とともに記憶されている第三次奴隷大反乱には階級蜂起的な意義を認めることもできるだろう。

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奴隷の世界歴史(連載第44回)

2018-02-25 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ローマの剣闘士奴隷
 古代ローマの奴隷制度の中でも際立った特色を持つのが、剣闘士奴隷である。剣闘競技の起源は不明であるが、当初は要人の死に際して追悼儀礼の一環として実施される宗教的な意味合いが強かったものが次第に世俗化され、観戦競技化したとされる。
 世俗化した剣闘士試合は公職選挙に合わせた政治的な意味合いも帯びるようになり、カエサル以後の帝政ローマ時代には皇帝自身が主催するようになった。それに伴い、剣闘士の養成所や剣闘士の資格・等級の整備なども進み、ほとんど国技となる。
 剣闘士は初期の儀礼時代には戦争捕虜となった外国人・異民族兵士が充てられたと見られるが、次第に興業化するにつれ、選手補充のため、身体能力の高い奴隷を徴募したり、懲罰目的で罪人から選抜したりするようになった。
 中でもバルカン半島の先住民族トラキア人の剣闘士奴隷は多く、共和政ローマを揺るがす奴隷反乱を起こしたスパルタクスもトラキア人であった。「トラキア剣闘士(トゥラケス)」という剣闘士の種別が設定され、トラキア人以外の剣闘士をトラキア風の衣装で試合に出すようになるほど、トラキアは剣闘を象徴する代名詞だった。
 徴募された奴隷らはまず、訓練生として剣闘士養成所で体系的かつ過酷な訓練を受けた。訓練生は逃亡防止のため厳重に監視され、専門的な訓練士が施す日々の訓練も自殺者を出すほど過酷を極めるものであった。選手として完成すると、興行師が主宰する剣闘士団に所属して試合に出場した。
 当初の剣闘試合は「助命なし」というむごいものであったが、帝政初代皇帝アウグストゥスがこれを禁じ、原則として死亡前に試合終了とされるようになる。ただし、例外として罪人出自の剣闘士だけは死亡するまで闘わされた。
 とはいえ試合では真剣を用いたまさしく真剣勝負であったため、重傷や死亡の危険が試合ごとにつきまとった。そうした危険の報酬として剣闘士にはかなりの額が支払われ、等級の高い剣闘士には褒美として贅沢な住居も与えられた。
 無事生き残って引退した剣闘士は養成所の訓練士になれたほか、運と才覚があれば解放され自由民の興行師として一財産作ることもできたが、剣闘士の社会的評価は低く、解放されてもローマ市民権は与えられず、自由民中最下位の階級にとどめられた。
 このような剣闘は帝政期にその頂点を迎え、試合も残酷さを増していった。帝政ローマが混乱期を迎えた「3世紀の危機」の時代には剣闘試合での死亡率が飛躍的に高まったとされるが、これは奴隷制自体が奴隷獲得の困難から行き詰まり、罪人や不良奴隷を剣闘士に採用することが増加したためと見られる。
 ローマにキリスト教が普及すると、異教風習の名残と見られる剣闘に批判が向けられるようになり、帝国の東西分裂後、404年に西ローマ帝国のホノリウス帝の命により闘技場が閉鎖された。そのおよそ70年後、西ローマ帝国は滅亡している。ある意味で、古代ローマの歴史は剣闘と共にあったといえるかもしれない。

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奴隷の世界歴史(連載第43回)

2018-02-18 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制 

古代ローマの奴隷制
 古代ローマはラテン族の都市国家としてスタートしたが、初期から奴隷制を擁していた。伝説によれば、ローマの建国者ロームルスが家父長に我が子を奴隷として売ることを認可したことに発祥するとされるが、この伝説が暗示するのは、おそらく貧困対策的な目的からの奴隷売買である。
 その真偽はともかく、ローマが強勢化していくにつれ、ローマの奴隷制は拡大していき、ローマ帝国の社会経済を支える不可欠の支柱となった。ローマ法上、奴隷制は自然法に反すると認識されながら、実際の必要上正当化されていたのである。そうした点では、古代ギリシャの奴隷制以上に実際的な面があった。
 古代ローマの奴隷も市場で売買される家産とみなされ、法人格を認められなかったが、他方で事実上の個人財産を保持し、事実婚をすることもできた。また技能を持つ奴隷は自立して生計を立てることができ、有償で解放され得るなど、柔軟性もあった。ローマの解放奴隷身分については、後に別項で見ることにする。
 古代ローマ奴隷制の大きな特徴として、その専門分化とそれに応じた階級内階級分岐が挙げられる。大別すると私有奴隷と公有奴隷とがあったが、大半は私有奴隷であった。私有奴隷にも、中上流階級の邸宅で家事に従事する家内奴隷や貴族の従者、各種専門職、剣闘士、地方の農場で農業労働に従事する農場奴隷といった種別があった。
 家内奴隷は各種家事を担う奴隷で、比較的良い暮らしが保証されており、解放される可能性も高いカテゴリーであった。従者は幼少期から家庭教師によって子弟とともに育成され、貴族子弟に匹敵する地位が与えられた特級待遇の奴隷であった。
 現在では公的資格・免許によって認証される専門職の多くも古代ローマでは奴隷の職業であり、ギリシャ人が充てられることが多かった。このカテゴリーには会計士や医師、家庭教師、個人秘書といった知的・事務的専門職が含まれる。こうした専門職奴隷は付加価値が高いため転売目的で育成され、一種の利殖投資の対象物とされることもあった。 
 私有奴隷の中で過酷な運命にあったのが、農場奴隷である。元来、古代ローマでは小農でも奴隷を使役するのが慣例であったが、大土地所有制の発達により、いわゆるラティフンディウム農場で使役される奴隷が増大した。これら農場奴隷は肉体労働者であり、専門的な技能に欠ける奴隷が投入、酷使され、解放される可能性も低かった。
 しかし肉体的な面では、剣闘士奴隷が最も悲惨だったかもしれない。剣闘士は古代ローマで最も人気の高い格闘技であった剣闘の選手であるが、真剣を使った実戦の形を取ったため、敗戦すれば重傷・死亡を免れなかった。その悲惨な境遇ゆえに奴隷反乱にも関わることになる剣闘士については、後に別項を立てて見ることにしたい。
 一方、公有奴隷は東洋のに類似し、国家や都市によって公的に所有され、建設や清掃その他様々な公共事業に使役された。中でも鉱山奴隷の労働環境の苛酷さは際立ち、事故や酷使による死者は後を絶たなかった。
 また公有奴隷の一種に下級官吏があった。古代ローマの執政官をはじめとする上級行政職は貴族の名誉ある無償奉仕として行なわれていたが、その下で行政事務に当たる下級官吏は奴隷身分の者が充てられた。彼らは、私有奴隷における個人秘書のような存在と言えるかもしれない。

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奴隷の世界歴史(連載第42回)

2018-01-28 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ギリシャ人の奴隷観
 古代ギリシャ人は哲学論争を同時代のどの民族よりも好んだが、奴隷制の是非論もその一つであった。とはいえ、古代ギリシャの名だたる哲学者の間でも、奴隷制は圧倒的に是認されていた。最も初期の論者では、ホメロスが奴隷を戦争の不可避的な結果として正当化している。
 同じことをヘラクレイトスはさらに敷衍し、戦争は「万物の王」であって、彼(戦争)は人を奴隷にしたり自由人にしたりする権利を持つと論じた。こうした議論は、ギリシャに限らず、奴隷制の起源の一つが人狩りによる場合を含めた戦争捕虜に発していることを示唆するものである。
 しかし、奴隷制が戦争捕虜に限らず、社会的な制度として定着した時代には、もはや奴隷制をあえて哲学的な論争の主題として掲げる論者もほとんどいなくなり、ソクラテスやプラトンといった大家も奴隷制について主題的には論じていない。プラトンによれば、ギリシャ神話上の「黄金時代」には、奴隷制なくしても人々は暮らせたが、それはすでに遠い過去の原初の社会だというのである。
 プラトンが構想した哲人王による理想国家においても、奴隷制は当然の前提とされていたし、すべての市民が財産及び教育に関して平等であるべきことを初めて憲法的に説いたカルケドンのファレアスが理想とした都市国家においてすら、公共的任務に従事する公共奴隷は正当化されていた。 
 ギリシャ都市国家の衰退期に出たアリストテレスは、奴隷制について最も強力に弁護している。とりわけ人間の中には生まれながらにして奴隷として定められた者が存在しているという「生来性奴隷説」は後世の奴隷制擁護論者によっても引用され、スペインにおける奴隷論争のきっかけともなった。 
 しかし一方で、アリストテレスは、奴隷とはそれなくして市民が生活することのできない家産の最も重要な一部だとして、奴隷制を正常な社会における必需という実際的な観点からも正当化しており、「生来性奴隷説」の自然学的な説明とは齟齬する部分もある。
 このことは、古代ギリシャのポリスがそれだけ奴隷制によって支えられており、彼が強調するとおり、奴隷の存在なくしては成り立たない構制であったことの証左であろう。その点、古代ギリシャの奴隷は、資本主義社会において必需的な賃金労働者―ある見方によれば「賃金奴隷」―に照応するものであったと言えるだろう。
 他方、アリストテレスと同時代の弁論家ソフィストであったアルキダマスは「自然は誰をも奴隷にはしない」と論じて、アリストテレスとは対立的な議論を提起したが、ソフィストは危険な詭弁家と見られており、正統派の議論とはなり得なかった。
 しかし、すべての人間は等しく同じ種族に属するという原理を初めて哲学的に明確に論じたのはソフィストたちであった。ソフィストによれば、真の奴隷とは精神の奴隷であり、地位は奴隷であっても精神が自由であれば、その者は自由人である。
 このようなソフィストらしい一見詭弁的な議論はその後、ヘレニズム時代のストア派やエピクロス派の哲学にも継承されたが、「精神的奴隷」の概念は真の奴隷解放の断念を示しているとも言える。そして、ヘレニズム哲学が広く隆盛化した頃には、古代ギリシャを上回る強力な奴隷制を築いたローマの時代となっていた。

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奴隷の世界歴史(連載第41回)

2018-01-21 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ギリシャの奴隷制
 古代ギリシャと古代ローマは、そのきらびやかな文明で世界の人々を魅了してきたが、その裏には史上最も巧妙かつ組織的な奴隷制度を擁する奴隷制国家体制でもあった。その意味で、古代ギリシャ及び古代ローマの奴隷制は特筆するに値する。
 とはいえ、両者の奴隷制には相違点も少なくない。しかも、先行する古代ギリシャは集権的な統一国家ではなく、植民市ごとの都市国家ポリスの形態を最後まで維持したため、奴隷制のあり方もポリスごとの政策により異なっていた。しかし、奴隷制の実態に関する史料の大半はアテナイのそれに集中しており、その他ポリスの奴隷制の実態は不明な点が多い。
 元来、古代ギリシャには入植地の先住民を農奴のような隷属農民として使役する慣習があったと言われる。アテナイにもヘクテモロイと呼ばれる隷属農民がいたが、農業が不振で商業に活路を見出したアテナイでは時代が進むとヘクテモロイは廃れ、奴隷制に移行していった。
 他方、アテナイのライバルとなるスパルタは奴隷とは異なる隷属農民ヘイロータイが一つの社会階級として定着した一方で、奴隷制は根付かなかった。ちなみに、商工業を低俗とみなしたスパルタ支配層は参政権を持たない二級市民ぺリオイコイに商工業を押し付けたことも奴隷の需要を生じさせない要因であったと見られる。
 アテナイ奴隷制は古代ギリシャにおいて最も典型的かつ大々的なものであり、その最盛期には人口の三分の一を占めたとされるまでに膨張しており、奴隷なくしては存立し得ない状況であった。これほど奴隷制が膨張した要因として、参政市民層が家事を含む労働を軽視し、様々な労働を奴隷に依存していたことがある。
 中でもアテナイの商業的成功の秘訣となった銀山ラウリオンの採掘では過酷な奴隷労働が行なわれていた。一方、小さな都市国家の形態を採る古代ギリシャに大農場は形成されず、古代ローマのような奴隷農場も出現しなかった。
 奴隷売買は主として古代ギリシャ世界の共通聖地でもあったデロス島の奴隷市場を通じて行なわれ、奴隷の持つスキルに応じて価格がつけられた。その給源は戦争捕虜や債務者などもあったが、多くは小アジアなど東方から奴隷商人によって奴隷として輸入されてきた異民族であった。
 奴隷の待遇はその業種によって異なり、上述のように鉱山奴隷が最も劣悪であったのに対し、家内奴隷は比較的待遇がよく、子どもを教育する権利も与えられていた。奴隷は有償で解放されることもあったが、解放後も市民権は与えられず、外国人扱いされるなど、法的制限は付いてまわった。
 古代ギリシャでは古代ローマのような奴隷反乱事件は記録されていないが、ペロポネソス戦争末期にアテナイ奴隷2万人が逃亡したとされる。このような奴隷労働力の大量喪失は奴隷に依存したアテナイの衰退を決定づけたことであろう。

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奴隷の世界歴史(連載第40回)

2017-12-27 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

東南アジアの奴隷制
 東南アジアは複雑に入り組み、かつ前近代には多数の小王国がひしめき、興亡し合っていたところでもあるので、奴隷制一つとってもその全体像の把握は困難であるが、ここでは前近代の東南アジアにおいて特に有力だったカンボジア、タイ、ビルマ諸王朝の奴隷制を中心とした簡単な概観にとどめる。
 カンボジアでは9世紀から15世紀にかけて、アンコールワットに代表される壮大な建造物を遺したアンコール王朝が繫栄したが、この王朝は当初影響を受けたインドからカースト制を導入した。奴隷はやはりカースト外最下層階級とされ、建設などの重労働に従事した。アンコールワットのような建造物も奴隷によって建設されたと見られる。
 アンコール王朝における奴隷の給源は山間部密林の部族や債務者、戦争捕虜などであったと考えられる。アンコール社会における奴隷の人口構成は不明だが、遺された壮大な数々の建造物からみて、王朝は相当数の奴隷労働力を動員する力を保持していたと推定される。
 続いてアンコール王朝を滅亡させたタイの王朝も奴隷制を保持したが、戦争捕虜は王の所有物とされ、多数の戦争捕虜が存在していた。それ以外に、タートと呼ばれる契約に基づく奴隷身分があったほか、支配層の下で労役などに従事するプライと呼ばれる隷属身分もあった。タイにおけるこうした奴隷的諸制度の廃止は、チャクリー朝のラーマ5世による近代化社会改革が進行していた1905年を待たねばならなかった。
 次いで、タイのスコタイ王朝を滅亡させたビルマのコンバウン王朝も、隣接するインドのカースト制にならった身分制度を持ち、自由人と奴隷の身分差が厳格に分けられていた。
 それ以外の地域では、フィリピン・インドネシア方面のイスラーム系首長諸国が17世紀から19世紀にかけて、フィリピンやタイ沿岸部で農業労働力確保のための奴隷狩りを行なっていたほか、スラウェシ島のマレー系先住民トラジャ族の奴隷がジャワ島などとの間で奴隷貿易の対象とされるなど、マレー系諸民族の間で地域間奴隷貿易が見られた。
 なお、トラジャ族の社会は王制ではなかったが、貴族・平民・奴隷という原初的な三つの厳格な社会階級を持ち、奴隷にはアクセサリー装身や住宅装飾の禁止、上位階級女性との性行為禁止、葬儀の禁止等、死罪をもって担保される厳格な生活規範が課せられていた。

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奴隷の世界歴史(連載第39回)

2017-12-26 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

インドの奴隷制
 インドの奴隷制は、インドの長い紆余曲折の歴史とともに様々な形態を取り、変化し続けた。まずインド土着的な奴隷制として、ダーサとかダスユなどと呼ばれる一種の奴隷制が見られた。もっとも、これは元来、インドを征服したアーリア人にとっての敵部族を指す用語でもあり、おそらく古代社会では普遍的に見られた戦争捕虜の奴隷化が起源なのであろう。
 時代が下ると、破産、道徳的な堕落や犯罪の結果として奴隷化される慣習が生まれるが、奴隷に汚れ仕事を強制したり、虐待・レイプなどの被害を与えることは違法とされるなど、奴隷の扱いについてはある種の人道的な規制があったとされる。インドの土着奴隷制は言ってみれば、緩やかな奴隷制であった。
 これに対し、インド特有の社会構造を成すカースト制におけるカースト外下層身分ダリットは多くが汚れ仕事に専従してきたが、これは奴隷とは概念上区別された職業身分差別制度の一環とみなすべきものであろう。
 さて、インドは8世紀以降、イスラーム勢力による侵攻を受け、特に北インドではデリーを拠点にデリー・スルタン諸王朝が興亡する時代に入る。結果としてイスラーム的慣習が持ち込まれ、非イスラーム教徒の奴隷化が大々的に行なわれるようになった。
 ちなみに、五つのイスラーム系王朝が継起的に興亡したデリー・スルターン諸王朝最初のものは奴隷王朝と称されるように、奴隷軍人マムルークが樹立したテュルク系王朝であったことも、イスラーム的な特質であった。
 その後、インドは南端部を除き、テュルク‐モンゴル系の血を引くイスラーム帝国ムガル朝が支配するところとなり、その支配領域内ではイスラーム法が定着した。従って、奴隷制もイスラーム法に基づいて運用された。
 特に全盛期を築いた6代皇帝アウラングゼーブが内外のイスラーム法学者を結集して制定したファタワ・エ・アーラムギーリと呼ばれる基本法典中には、アウラングゼーブ自身が帰依した厳格なスンナ派の法思想をベースに、奴隷所有権や奴隷の権利、奴隷の解放に至るまで奴隷制に関する具体的な規定が含まれているが、奴隷の法的地位は主人に対して相当に従属的である。
 インドの奴隷は高度な熟練技能を持つことが多く、ムガル領内で使役されるにとどまらず、需要のある中央アジア方面へしばしば「輸出」されることもあった。他方、イスラーム奴隷貿易やポルトガルを通じてアフリカからエチオピア人を含む奴隷が購入されることもあり、その一部は逃亡してシッディと呼ばれるアフリカ起源の民族集団に編入され、インド西部にジャンジーラ王国のような小さな自治国家を形成した。
 一方、18世紀以降、デカン高原に台頭したヒンドゥー系マラーター王国も奴隷制度を保持したが、これはインド土着の緩やかな奴隷制の伝統を受け継ぎ、奴隷の扱いは全般に穏当で、相続権の存在などムガル帝国のそれよりも柔軟であった。
 なお、17世紀以降18世紀にかけて西欧列強がインドに侵出してくると、インドは西欧列強―具体的にはポルトガル、次いでオランダ、英国―が主導する奴隷貿易の草刈場となる。従って、ここから先は第三章で扱った領域と重なるので本章での記述は割愛し、第三章に後日、インド奴隷貿易に関する補遺を追加することとしたい。

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