ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第87回)

2020-03-30 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐3〉民衆革命の展開
 皇帝への直訴行動が流血弾圧によりで阻止された「血の日曜日」事件は、それまでロシア民衆の間にあった皇帝への敬愛を憎悪に代えたことにより、民衆の間で意識革命が生じる歴史的な転換点となったと言える。それは、十数年後により階級横断的な第二次革命を誘発する動因ともなるのであるが、さしあたり、第一次革命の時点では、革命は階級ごとに分断化された形で進行した。
 当時人口的に最多の農民は、近世以来の一揆的な行動に出た。多くは地主の居館襲撃・略奪、土地の侵奪や森林での伐採や狩猟などの直接行動である。その過程で、より近代的な農民協議会も結成されるが、ロシア農民の間ではまだ近代的な農民運動が浸透していなかったため、結局、統一的な行動を組織することはできず、地域の農民集団が別個に動く状態であった。
 他方、勃興中の都市労働者はより洗練されており、各地でストライキを組織し、ペテルブルクとモスクワの二大都市でゼネストを起こした。さらに、社会民主労働者党(メンシェヴィキ派)の提言により、労働者評議会(ソヴィエト)が結成され、労働者自治も試行した。このソヴィエト制度は、第二次革命ではより明確に革命細胞として発現し、後に国名にも取り込まれたものである。
 また、1905年6月の戦艦ポチョムキン号水兵反乱も革命の重要な一幕であった。これは、試験運用中だった海軍戦艦ポチョムキン号で些細なことから兵士と上官の間で対立が起き、これが兵士らによる革命宣言を誘発したものである。革命兵士に乗っ取られた戦艦はオデッサでスト中の労働者と合流し、初の労兵合同の革命的蜂起へ発展した。
 第一次革命は、こうした農民、労働者、兵士による民衆革命の隆起という形を取っており、近代的な革命政党は必ずしも前衛的な役割を果たさなかった。この時点では最も有力だった社会革命党は農本主義政党のはずであるが、農民一揆を統制して、農民運動を組織化することには成功しなかった。
 一方、社会民主労働者党は、レーニンが率いるより急進的なボリシェヴィキ派と反レーニンの穏健派メンシェヴィキ派に分裂していたが、第一次革命の時点ではメンシェヴィキ派が優位にあり、同派の提言にかかる前掲ソヴィエトの形成に寄与した。ただし、労働者に対する党の指導性を重視するボリシェヴィキとの溝を埋めることはできなかった。
 民衆革命の動向と並行して、テロ手段による要人暗殺が横行した。その多くは、社会革命党戦闘団によるものであるが、アナーキストやその他諸派、ローンウルフ型の暗殺行動も見られた。こうした暗殺により、1万人近くが死亡したとも推計されている。
 こうして、第一次ロシア革命は、階級横断的に全体をつなぐことのできる革命組織を欠いたまま、自然発生的でアナーキーな民衆革命としての展開に終始したことで、帝政側は鎮圧に手間取る一方、革命運動としても着地点となる目標が定まらないまま、1905年10月に皇帝ニコライ2世が革命に一定譲歩して発した改革措置「十月詔書」を契機として、収束に向かうことになった。


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