ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

一党改憲案の反民主性

2012-04-28 | 時評

自民党が昨日、「日本国憲法草案」と銘打ち、逐条式の全文改憲案を公表した。その内容には幾多の問題点があり、波紋を呼ぶであろうが、そもそも内容を云々する前に、一介の政党が独断で全文改憲案を出すということが、民主主義の常道を逸脱している。

自民党は小泉政権時代の2005年にも一度、全文改憲案を出しており、これで二度目である。今回は近く想定される総選挙に合わせ、政権奪回を目指す野党の立場からのものではあるが、野党だからといって一党で改憲案を出すような不遜な真似をすべきではない。

民主的な憲法は一党の判断のみで起草・制定されるものではなく、議会で正式に改憲が提起されれば、その段階で個別条項ごとに審議・発議されるものである。それに反して、一党のみで一方的に、しかも前文から大幅に改変する改憲案を策定するのは、一党独裁的なやり方である。

自民党はわずか三年前まで、90年代のわずかな中断を除いて一貫して与党の座にあり、事実上の一党支配体制を維持してきた頃の感覚でのまま、野党に回っても支配政党意識が抜けていない。それで、与党奪回を想定して再び改憲案の提示に出たのであろう。

その点では、改憲に傾斜しつつも「提言」にとどめ、党としての全文改憲案をまとめていない与党・民主党のほうがまだしも複数政党制下の与党にふさわしい態度と言える。もっとも、これは民主党が意識的にそうしているというよりは、護憲派と改憲派が混在する雑居政党ゆえの制約なのだろうが。

自民党改憲案をめぐっては、今後個別的な批評が多々現われるだろうが、これをあたかも正式の改憲案のごとく扱い、論評の対象とするのは適切でない。一介の政党が自党の綱領を憲法の形式で表現したかのごとき一つの政治文書としての扱いにとどめるべきであろう。

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防衛大臣の条件

2012-04-21 | 時評

昨日、参議院で二閣僚に対する問責決議が可決された。決議に拘束力はないとはいえ、田中直紀防衛大臣については決議を受け、辞任すべきであろう。どう見ても、見識・資質ともに防衛大臣の任に堪えないことは明らかだからである。

それにしても、日本の防衛大臣ほどその条件の適否の見極めが困難な閣僚職もないだろう。それほど、この職は複雑な性格を持つからである。

まず、防衛大臣は自衛隊に対する文民統制の要である。このことはよく知られているが、その具体的な意味はあまり究明されていない。

「文民」といっても、憲法9条で軍の保有を放棄している日本の自衛隊は軍ではないのだから、現行憲法下の日本には厳密な意味での「軍人」は一人も存在しない。制服組自衛官といえども、法的には「軍人」ではない。といって、かれらは「文民」でもない。

すると、「文民」とは何だろうか。まず、現職自衛官でないことは形式的条件である。だが、それだけでは足りない。自衛隊に対する民主的な統制を貫徹するには国会の関与が不可欠であり、中でも国会の中核である衆議院の議員から防衛大臣が任命されるべきである。

しかし、それだけでもまだ足りない。憲法9条と窮屈な同居を続ける国家武力たる自衛隊を憲法の平和主義の理念に沿って統制する能力を備えていることが、防衛大臣の実質的な条件となる。

この点、田中氏に対する野党の批判が専ら安全保障問題に関する知識の欠如に向けられていたのは間違いではないにせよ、不十分である。防衛大臣が安全保障問題に関する知識を欠いていれば、部下である制服組自衛官を適切に統制できないことはたしかであるが、大臣がただ単に安全保障問題のエキスパートであればよいというものでもない。

防衛大臣が安全保障問題に精通はしているが、制服組も顔負けなほどタカ派的で、かえって制服組を煽ってしまうような人物であれば、それは憲法9条の下での防衛大臣としてはやはり不適格である。

かといって、自衛隊そのものを憲法9条違反とみなす絶対的平和主義者では制服組との間に信頼関係を築くことができず、自衛隊の存在という現実の中で文民統制の役割を全うすることは難しい。

そうすると、防衛大臣にふさわしいのは、安全保障問題について十分な見識を備えつつ、憲法9条の下での自衛隊の役割に理解を持ち、憲法の理念に沿った統制能力を持つ衆議院議員ということになろう。

さて、そんな人物を見出すことはできるであろうか。

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老子超解:第九章 無について

2012-04-14 | 〆老子超解

九 無について

復帰するということが道の動き方である。弱いということが道の効用である。
天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。
道が一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生ずる。万物は陰を負って陽を抱き、(この二つを媒介する)沖気がこれを調和させているのである。

 

 老子の中で最も刺激的な論議を提起してきた「無」の思想を展開する章であるが、老子が「無」について正面から語るのは、通行本で第四十章に当たる本章だけと言ってよい。一般的な解釈とは裏腹に、老子にとって「無」は必ずしも決定的なキーワードではない。
 老子にとっての「無」とは、あくまでもの存在論的な別言にすぎない。前章で序説的に語られていた真空というの性質をひとことで「無」と表現するのである。従って、老子的な「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な真空の概念に従って「何かが在る」状態である。
 そうした意味では、老子的「無」はゼロではない。従ってまた、しばしば虚無主義の系譜に位置づけられることも多い老子の思想は、西洋思想の文脈におけるニヒリズムとも異質である。老子の「無」は、むしろ日本の西田幾多郎が単なる有の対偶としての無=相対無とは区別して、相対的な有/無の対立を超える根拠として提起した「絶対無」に近いものと言えるだろう。
 ただし、「絶対無」を心の本体として観念した西田の場合は唯心論的傾向が強いのに対し、無としてのを物質的に把握しようとする老子の場合は唯物論的傾向が強いという点は無視できない両者の差異である。
 ちなみに、第三段は通行本では第四十二章の冒頭に現れる章句であるが、内容的には本章第二段の命題を受けて、それを陰陽思想によりつつ敷衍しようとしているところであるから、あえて本章末尾へ移置してみた。陰陽家ではなかった老子が陰陽思想に触れるのはここだけであるが、それは同時代の中国人にとっても晦渋であった自説を理解させるために、あえて同時代人にはよりなじみやすかった陰陽家的説明を試みたものであろう。
 ただし、ここでも陰と陽の対立の手前にある一者=を想定しつつ、沖気という媒介概念によって陰陽二元論を克服しようとするのは老子独自の考えであり、これは第一段冒頭で再び繰り返されている「復帰」の思想とも関わってくるところである。
 なお、第一段第二文で弱さをの効用としているのは、弱さという価値を積極的に肯定する老子倫理学の一端である。

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朝鮮情勢をめぐる誤算

2012-04-14 | 時評

朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)の最近の動きをめぐり、世界に二つの誤算があった。

一つは権力の「世襲」に関してである。多くの専門家たちは先代の最高指導者であった故・金正日国防委員長・朝鮮労働党総書記の三男・正恩氏が父の就いていたポストを単純に継承すると予測していたようだが、この予測は見事外され、正恩氏の就いたポストは国防第一委員長・党第一書記という若干ささやかなものであった。

朝鮮の基本政体はあくまでも共和制であるからには、君主制のように先代の地位をそのまま世襲することは自己矛盾となるわけで、先代・正日氏も父が就いていた国家主席の地位を継承することは避けた。正恩氏も同じやり方を踏襲するだろうことは容易に予見できたはずであった。

それなのに、ほとんどの専門家が予見できなかったのは、かれらが「朝鮮=世襲制国家」という先入見にとらわれているからにほかならない。もちろん実質的に見れば、一党支配体制の党と国家の最高指導ポストが初代・金日成から子へ、さらに孫へと三代続けて継承されたことに違いないが、決して単純な世襲制ではないのである。

もう一つの誤算は、衛星≒ミサイル発射技術に関するものである。米国や周辺諸国は朝鮮当局が予告していた実質的なミサイル発射に過剰反応し、恐慌を来たしていた―少なくともそう見えた―が、結果は当局自身もあっさり認めるほどの失敗であった。

そもそも多額の国費を投じて行わねばならないミサイル開発が、飢餓的状況も指摘されるほどの深刻な経済難に見舞われている国で、順調に進んでいるとはとうてい考えられないはずであった。それなのに、朝鮮が米国本土に着弾するほどのミサイル技術を擁しているなどと想定することは、朝鮮の軍事技術への過大評価である。

ただ、この誤算は、「世襲」をめぐる誤算とは異なり、半ば意図的な“誤算”であるかもしれない。要するに、朝鮮の先端的軍事力を過大に見積もったうえで「朝鮮の脅威」を口実に自国の軍拡ないしは軍事的プレゼンスの強化につなげようという世論操作を伴う“誤算”なのだ。今回、日本では領域内へのミサイル落下の可能性は通常ないとされながら、沖縄の防衛に仮託した自衛隊の展開がおおっぴらに行われたが、これもそうした“誤算”の一つである。

朝鮮の現状はかつて同国の生みの親にして後ろ盾であったソ連と同様もしくはそれ以上に秘密主義的であるため、ウォッチャーを称する少数の専門家が権威を持ちやすいが、かれらが真に客観的で冷静な分析を実行しているのか、そうでないのか、言わば逆ウォッチしていく必要があろう。

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