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近代革命の社会力学(連載第412回)

2022-04-15 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(9)革命の帰結

〈9‐1〉独裁制と独占資本の出現
 1991年のソ連邦解体革命は共産党独裁体制を終わらせたが、その最終的な帰結は芳しいものとはならなかった。各々独立した15の構成共和国の多くで民主主義が成熟することはなく、また北欧型の福祉国家へ移行することもなく、新たな形態の独裁制と独占資本が出現したからである。
 例外として、独立革命によっていち早くソ連邦を離脱したバルト三国では西欧型の議会制が定着し、ブルジョワ民主主義のもとで安定した体制に転換されて、北欧との結びつきも強めている。中でも最小のエストニアは電子投票システムの導入など先端的な情報技術立国として成功を収めた。
 また、モルドバでも比較的安定した議会制が定着したが、バルト三国では共産党が非合法化された中、興味深いことに、ここでは共産党が議会政党として生き延び、選挙を通じて改めて政権党となったことさえある点で異例である。
 それ以外の11か国では民主主義は定着せず、旧共産党幹部がすみやかに政権を掌握し、独裁化する例が多く見られた。中でも、ベラルーシと中央アジア諸国でそれが顕著である。同時に、旧国営企業群が市場経済化改革の中で政商的な独占資本として再編され、独占資本と独裁制の二本立て社会編制が形成されていった。
 そうした中で、グルジア(現ジョージア)とキルギスでは、2000年代に旧共産党系独裁政権を打倒する民衆革命を通じて一定民主化された新体制が樹立されたが、政情不安はその後も続いた。
 ウクライナでは議会制が定着はしたものの、地政学上親ロシア派と親欧州派、さらに独立後台頭したウクライナ民族派の鼎立関係が激化し、2010年代には民衆革命により親ロシア派政権が打倒された。
 しかし、それは親ロシア派の反発を招き、ロシア系の多いクリミアの分離・ロシア併合やロシア系少数派を抱える東部地域での分離独立運動など、国の存亡に関わる動乱を惹起し、旧ソ連時代の産業基盤を擁しながら、経済的にも欧州最貧状況に陥った。

〈9‐2〉ロシアの社会再編
 旧ソ連邦中枢国ロシアの社会再編については、ソ連体制を産出した1917年ロシア革命に照らしつつ、これを取り出して論じる意義がある。
 革命後、単立国家となったロシアでは、ソ連邦解体革命の立役者でもあったエリツィン大統領の下で、急激な市場経済化改革が断行されることとなった。
 その過程で、旧国営企業幹部や若手共産党員などが時に不正な手段によって払い下げられた国有資産を取得し、急速に財閥が形成された。この新興財閥(オリガルヒ)は一種の政商として政権とのコネクションを利用しながら急成長し、資本主義の形成に寄与した。
 このような過程は、1917年の社会主義革命を起点に見れば、それ以前の帝政ロシア時代に相当な発達を見せていた独占資本主義の復刻であり、再版独占資本主義と言うべき反革命反動事象であった。それは、政権との癒着による構造的汚職の要因ともなった。
 一方、政治的上部構造の面では、エリツィン大統領自身、1999年の任期途中での辞任表明演説で認めたように、民主主義の樹立には成功しなかった。
 その要因として、共産党出自のエリツィン自身の権威主義的体質とともに、ソ連時代の抑圧的社会統制の要であった国家保安委員会(KGB)の清算がされず、単に二つの他名称機関に分割されるにとどまったことがある。
 その点では、旧東ドイツのカウンターパートであった国家保安省(シュタージ)をはじめ、脱社会主義革命の後、同種機関が完全に解体され、機密文書の開示や密告者の究明などがなされた諸国とは対照的であった。
 これは、議事堂砲撃にまで至った議会勢力との熾烈な対立やチェチェン戦争対応、さらに自身に向けられた汚職疑惑の封印のためにも、エリツィン政権が旧KGBを中心とした旧治安機関出身者を活用する必要があったためである。中でも後任に抜擢したウラジーミル・プーチンはその筆頭者である。
 その結果、ロシアでは、さしあたり形式的には直接選挙に基づく大統領制と議会制が定着したものの、その枠組みのもとで、プーチンを中心に旧治安機関閥(シロヴィキ)が支配する翼賛的政治体制に再編されていった。
 結局のところ、70年余り続いたソ連体制はロシアを含む旧ソ連地域に遺産として残される経済的平等主義も政治的民主主義も持ち合わせておらず、かえって転形して新たな独裁制と独占資本を産み出す母体となったと総括するほかはない。


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