ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第298回)

2021-09-20 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(1)概観
 サハラ以南アフリカ諸国における革命の潮流は現在までに都合四回隆起しているが、1950年代末から60年代前半にかけての第一次潮流に対して、それに続く第二次潮流はおおむね1960年代末から1970年半ば過ぎにかけて隆起している。
 この時期はアフリカ諸国の独立から10年程度が経過し、最初期の国造りが一段落した段階である(ただし、独立が70年代まで持ち越されたインド洋の旧フランス領諸島や大陸部の旧ポルトガル領諸国は別)。
 この時期になると、多く独立運動指導者から横滑りした初代大統領らの実力差が明瞭になってくる。中にはすでに強固な終身的支配体制を固めた者もいたが、不安定な政権運営に苦慮し、クーデターで失権した者も少なくない。
 アフリカにおける政変の特徴として、革命よりクーデターが圧倒的に多いということが挙げられるが、こうした傾向の根底には、独立後も根強い部族主義に加え、教育制度の不備ゆえ政治的に成熟した民衆の不在という共通の構造があった。
 反面、最も近代化が進んでいたエリート部門である軍部が政治的に先鋭化していく。特に旧宗主国等への留学経験を持つ若手・中堅の将校、場合によっては曹長・軍曹といった曹級の下士官によるクーデター決起が目立つ。
 そうした中にあって、いくつかのクーデター決起は、社会体制の全般的な変革に踏み込む革命に進展した。革命第二次潮流におけるモードは社会主義、特にマルクス‐レーニン主義が風靡したことも特徴的である。
 世界的にソ連の影響からマルクス‐レーニン主義が革命理論として風靡する中、アフリカでもそれが植民地支配と部族主義を超克する自立的発展に寄与すると信じられた時代である。
 その点、10年ほど先立って社会主義革命の潮流が見られたアラブ諸国において、マルクス‐レーニン主義は南イエメンという例外を除き、ほぼマイナーであり、革命の中心理論とならなかったこととは対照的であった。
 とはいえ、多くの場合、職業的革命家ではなく、思想的に洗練されているとは言い難い若手の軍将校らがマルクス‐レーニン主義を標榜していただけであり、革命政権の実態は軍事政権、言い換えればマルクス‐レーニン主義は軍事政権の隠れ蓑でもあった。
 アフリカ諸国における革命第二次潮流の地政学的な特徴としては、第一次潮流と同様に、少数の例外を除いて、東アフリカ(インド洋の島嶼地域を含む)に集中していることである。
 その要因の解明は困難であるが、西アフリカ諸国は比較的統治しやすい小国が多く、イデオロギーや統治手法に差はあれ、初代大統領による安定した支配体制が敷かれた国が少なくなかったことが想定される。
  また、革命後、反革命クーデターが当時アフリカ各地の紛争で暗躍していた白人傭兵の介在によって侵略的な形でしばしば実行され、その背後に新植民地主義を展開したい旧宗主国や白人至上主義体制を維持するため、周辺同盟国を獲得したい当時の南アフリカがあったと疑われることも特徴である。
 本章で取り上げる諸革命の中でも、1977年ベナン、1978年コモロ、1981年セーシェルにおける反革命クーデター(いずれも未遂)は、そうした事例である。
 ちなみに、コモロでは当初、革命自体も白人傭兵の助力で行われたのであるが、後に反革命派への助力に転じてクーデターを成功に導いた白人傭兵が居座り、事実上の支配層となるという数奇な展開が見られた。
 なお、この時期の革命中、エチオピア革命は古い帝政を擁した独特の歴史の上に展開を見せるので、独立した章で扱う。また西アフリカのギニア‐ビサウ革命は、西欧で最後まで植民地体制に固執したポルトガルからの独立革命という性格を持つので、これも別立てで扱う。


コメント    この記事についてブログを書く
« 前の記事へ | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿