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近代革命の社会力学(連載第49回)

2019-12-09 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(3)フランス二月革命

〈3‐3〉革命政府の樹立と展開
  1848年2月、オルレアン朝政府がパリのシャンゼリゼ通りでの「改革宴会」を禁止したことに端を発する民衆蜂起が革命的な展開を見せると、国王ルイ・フィリップは側近による強硬な鎮圧策の進言を拒否し、亡命を決意した。これにより、七月王政は倒れ、18世紀フランス革命以来の共和制が樹立される。
 この第二共和政の臨時政府は、「改革宴会」を主導していた穏健な共和主義者が中心となって構成された。政府首班には18世紀フランス革命を経験した老政治家デュポンドルールが就いたが、実権を握っていたのは外相に就任したアルフォンス・ド・ラマルティーヌであった。
 ラマルティーヌ自身は貴族出身であったが、オルレアン王政が崩壊した要因が都市民衆の中核となった労働者階級の政治的・経済的不満にあることを洞察していたから、当時労働者階級を代弁していたルイ・ブランらの社会主義者を取り込み、労働者の権利問題を優先課題とした。
 その結果、18世紀フランス革命当時の人権宣言では想定されていなかった生存権や労働基本権のような社会権の理念が初めて政治の場に登場することとなった。しかし、ブランはさらに先を見ていた。
 失業の要因を資本主義的自由競争にあると見定めた彼は、主要産業の国有化、さらには労働者の自主管理企業の設立など、近代的な社会主義のマニフェストとなる経済政策を掲げ、実現しようとした最初の政治家であった。
 このようなブランの考えに対して、ブルジョワ階級は当然反発し、政府実権者ラマルティーヌも懐疑的であった。ラマルティーヌは、穏健な共和主義者として、急進的な社会主義を抑制しつつ、漸進的な社会改革を進めたい考えであった。
 そこで、ある種の妥協策として、政府公営の失業対策事業として数万人規模で労働者を雇用する「国立作業場」の設置を決定した。さらに、この妥協策に不満で、閣僚辞職の意思を表明したブランをつなぎとめるべく、産業界と労働界双方の代表からなる「労働者のための政府委員会」を設置した。
 この委員会は公式の政府機関ではなく、諮問機関と労使調停機関の両方を兼ね備えたユニークな機関であり、法的拘束力はないながらも、労働省の設置や鉄道・鉱山の国有化、フランス銀行の国有化、労働者協同組合への融資など、当時としてはかなり進歩的な社会改革を提起したのであった。
 しかし、明らかにブランの考えを反映したこれらの提案はブルジョワ階級の危機感を一層煽っただけでなく、協同農場の設立といった社会主義的農業の提案は前世紀の革命を通じて土地を獲得していた農民の間に農地を接収される不安を掻き立てる結果となった。
 問題の解決は、4月に予定されたフランス史上初の男子普通選挙制による制憲議会選挙に委ねられることになる。まだ近代的な政党政治は確立されていなかったが、一挙に900万人に膨れ上がった有権者に対し、各党派が支持を訴えて選挙戦を戦うという政党政治の原型が生まれたのも、この時であった。同時に、この選挙はブルジョワ対プロレタリアに、農民も加わった階級闘争の場ともなった。
 とはいえ、穏健共和主義者優位の臨時政府の構成からして、穏健共和派勝利が予想されたが、果たして、結果は穏健共和派が880議席中500議席を取る大勝であった。これに作家のヴィクトル・ユゴー率いる王党派系の保守派200議席を加えると、反社会主義派の圧勝である。
 ブルジョワ陣営からの効果的なネガティブキャンペーンをはねのけることのできなかった社会主義派は80議席の少数議席にとどまった。この選挙結果を経て、二月革命はブルジョワ共和革命の線に収斂したと言える。18世紀の第一共和政との違いは、男子普通選挙制により民衆の意思を無視できなくなったことである。

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