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近代革命の社会力学(連載第430回)

2022-05-23 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(4)翼賛体制の終焉と残存課題
 1998年5月の民衆蜂起は30年に及んだスハルト政権を崩壊させたものの、後任の大統領にはスハルト側近のハビビ副大統領が自動的に昇格したため、この後継政権は「スハルト抜きのスハルト政権」となることが懸念された。
 実際、辞職したスハルトが隠然たる影響力を行使して院政を敷く可能性すらあり得る状況であったが、意外なことに、ハビビ政権は短期間でかなりの程度、脱スハルトに向けた改革を実施したのであった。
 その柱として、従来ゴルカル翼賛体制の法的基盤となっていた政党法を大改正し、ゴルカル以外の一般政党を不利に扱う政党規制を廃止し、対等な複数政党制を導入するとともに、選挙法も改正し、自由選挙の制度を整備した。
 ハビビ政権はこの新法制の下、民衆蜂起翌年の1999年には早速に総選挙及び大統領選挙(間接選挙制)を実施した。ハビビ自身も党内抗争の末に与党ゴルカルの大統領候補に指名されるも、ゴルカルは総選挙で第二位に終わり、大統領選挙でも穏健イスラーム主義者のアブドゥルラフマン・ワヒドが当選した。
 このような結果となったのは、まさにハビビ政権の政党法改正によって、インドネシア民主党を離れたメガワティが改めて結成したインドネシア民主党闘争派(闘争民主党)とワヒドの国民覚醒党が連携したためであった。
 こうして、従来抑圧されていた世俗系とイスラーム系の野党が連携するという力学の中で、ゴルカル翼賛体制は終焉したのであった。このことにより、1998年民衆蜂起は、結果としてゴルカル体制を打破する革命的な効力を持ったことになる。
 このような結末をもたらすことはハビビの本望ではなかったかもしれないが、ハビビ政権の改革なくしてこうした結果はもたらされなかったという点では、ハビビ政権は図らずも事実上の革命移行政権の役割を果たしたとも言える。
 一方、新大統領となったワヒドは、インドネシアでしばしば差別迫害の対象となり、民衆蜂起時にも攻撃の標的とされた中国系(客家)の血を引く点でも、これまでにない指導者であったが、任期を全うできず、2001年に弾劾罷免されるという不名誉な終わりを迎えた。
 ワヒド大統領の弾劾罷免には様々な要因があるが、革命との関わりでは、ワヒドが軍の利権排除のため、軍の改革に着手しようとしたことで軍部の支持を失ったこと、より直接には、01年7月の大統領令をもって上下両院の解散とゴルカルの完全解体を図ったことがある。
 これは、従来のインドネシア支配機構の一挙的な解体を狙ったものだが、かえってゴルカル以外の主要政党をも結束させ、国民協議会に大統領弾劾を決断させる要因となった。とはいえ、現時点までゴルカルは主要政党として存続しながらも、一人の大統領も輩出しておらず、ゴルカル翼賛体制はひとまず解体されたと言える。
 しかし、ワヒド政権、後継のメガワティ政権下でも積み残されたのは、スハルト時代に肥大化した軍部利権の排除である。前述したように、ゴルカル体制≒軍部支配体制であったところ、排除されたのは表層のゴルカルだけで、背後の軍部は温存された。
 その点、2004年に初めて直接選挙方式で実施された大統領選挙で国軍出身のスシロ・バンバン・ユドヨノがメガワティを破って当選、二期十年にわたり大統領を務めたことも、ある意味では軍部政権の部分的な復活であり(ただし、政権与党は2001年結成の民主党)、軍部利権の温存を後押ししたと言える。
 このことは、ワヒド政権以後も、軍が関与した1965年‐66年のインドネシア共産党員及び支持者に対する大量殺戮の真相究明と司法処理がなされていないことと合わせ、ポスト・スハルト時代のインドネシアにおける民主化を制約する要因となっている。


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