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近代革命の社会力学(連載第247回)

2021-06-12 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(4)冒険的革命蜂起―失敗から成功へ
 フィデル・カストロが武装革命組織「運動」を立ち上げた契機としては、1940年代、彼がカリブ海域の国際的革命支援組織であった「カリブ軍団」の一員として、当時親米独裁者ラファエル・トルヒーヨが支配していたドミニカ共和国への冒険的革命遠征に参加した経験があったと思われる。
 この革命は失敗に終わったものの、帰国後、キューバで同様の親米独裁者バティスタを打倒するに際して、裁判闘争のような合法的な方法が尽きた後の最終的な方法として、ドミニカでの経験が念頭に置かれていたことは想像に難くない。
 「運動」の革命蜂起は1953年7月と1956年12月の二次に及ぶが、1953年の第一次蜂起はカストロ兄弟が率いる総勢130人ほど(後に約20人が追参加)の小集団で、キューバ軍のモンカダ兵営を襲撃するというまさに冒険的なものであった。
 結果は無残な敗北であり、メンバーの多くは戦闘で死亡または略式処刑され、カストロ兄弟を含め、拘束された者は訴追され、フィデルは15年の刑に処せられた。しかし、1955年、バティスタは人道的・政治的な圧力からカストロ兄弟らを恩赦釈放し、メキシコへの亡命を認めた。
 バティスタ側にとっては、政権のイメージアップのためかカストロ兄弟の恩赦に応じたことが政治的な命取りとなるのであった。もし、少なくともリーダーのフィデルを処刑していれば、その後の革命運動は防圧できたであろうからである。
 メキシコ亡命後、再び革命蜂起を計画したカストロらは、80人あまりで、第一次蜂起の日付にちなんだ新たな革命組織「7月26日運動」(以下、運動)を立ち上げる。そこには、アルゼンチン出身のエルネスト・ゲバラも加わっていた。彼は、かつて革命渦中のボリビアやグアテマラに滞在した経験もある遊軍革命家と言うべき新たなタイプの外人革命家であった。
 「運動」による第二次蜂起は第一次蜂起以上に冒険的なもので、中古ヨット「グランマ号」に乗り込んでメキシコを出港し、キューバに強行上陸するというものであった。しかし、すぐさま政府軍に発見・攻撃され、わずか十数人の生存者のみで山中に逃亡・潜伏するというありさまであった。
 しかし、この失敗と山中での組織の再建が成功を導く。鍵となったのは、意外にもアメリカによる資金援助とバティスタ政権への経済制裁であった。このことは革命後の両国関係を考えれば不可解ではあるも、バティスタ政権による打ち続く人権侵害や政治腐敗に見切りをつけたアメリカが「運動」に肩入れし、バティスタ政権の排除を容認する方針に転換したためと見られる。
 これにより「運動」は、新メンバーを加えて本格的な軍隊構制の武装組織の編成が可能となり、キューバ軍と対等的に戦闘を行う能力が備わったのである。結果として、1958年に入ると、革命軍と政府軍の間で事実上の内戦状態となる。
 いくつもの大規模な戦闘の後、58年末のヤガイェイとサンタクララの戦いで革命軍が決定的な勝利を収めると、翌59年1月、バティスタの辞任と海外亡命を経て、革命軍が首都ハバナを制圧し、革命は成功したのである。
 このようにほとんど素人の青年集団による冒険的革命蜂起が成功した事例は歴史上も稀有であるが、こうしたことが可能となったのは、上述のようなアメリカによる支援に加え、バティスタ政権の残酷な抑圧に対する国民各層の反発と革命への期待が累積する中、政府軍の戦意喪失とその結果としての戦線離脱兵の続出という事態が寄与している。
 同時に、バティスタの最初の亡命先であったドミニカ共和国の独裁者トルヒーヨとは異なり、バティスタ自身、かつては下士官の反乱から政界へ進出した一種の革命家でもあり、変節した後もその体制内に革命的な要素が凍結されていたこともあると考えられる。
 一時はバティスタが政権内に取り込むことも目論んでいたカストロらの「運動」は、そうした凍結されていた革命の要素を解凍することによって、体制の外部のみならず、内部からも崩壊させることに成功したものとも言えたであろう。


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