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近代革命の社会力学(連載第414回)

2022-04-21 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(2)エチオピア救国/エリトリア独立革命

〈2‐1〉多民族糾合革命
 エチオピアでは、1974年社会主義革命以来、メンギストゥ軍事独裁政権が80年代を通じて継続していた。しかし、そうした見かけの安定の影では内戦状態にあった。その中心は、帝政時代から、人口構成上第二位のアムハラ人の支配に対して抵抗してきた少数民族ティグライ人と紅海に面した東部エリトリア州の分離独立運動である。
 メンギストゥは自身の少数民族出自を活かした民族協和に成功せず、アムハラ支配は革命後も不変であった。そのため、ティグライ人とエリトリア人はそれぞれが人民解放戦線を結成して革命後も活動を継続した。
 中でもティグライ人民解放戦線は、80年代の飢餓を結果したメンギストゥの強制移住政策の失政を通じて活動を強化し、飢餓民の大行進や人道援助活動などの平和的な方法も活用しつつ、80年代後半には根拠地のティグライ州の相当部分を占領、解放区化した。
 転機は1988年、ティグライ人民解放戦線に加え、エチオピア最大民族オロモ人のオロモ人民民主機構、さらに支配民族アムハラ人の反体制派が結成したアムハラ民族民主運動、エチオピア南部の諸部族で構成する南エチオピア人民民主戦線という各反体制武装勢力が合同して、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を結成したことである。
 この組織の特徴は、構成組織が民族別に形成されており、通常なら分裂が避け難いところ、単一の革命組織として束ねられ、多民族糾合組織となったことである。加えて、エリトリア人民解放戦線が共闘関係を結び、いっそう多民族糾合の革命運動に進展した。
 もう一つの特徴として、EPRDFがマルクス‐レーニン主義を標榜したことである。これは中核となったティグライ人民解放戦線、さらに共闘関係のエリトリア人民解放戦線もマルクス‐レーニン主義を標榜していたことが大きい。
 結果として、ともにマルクス主義の政権と革命勢力が対峙する稀有の構図となった。この特質は、全般にマルクス主義が低調だったアフリカ諸国にあって、エチオピアではマルクス主義がいかに風靡していたかを示している。
 一方、メンギストゥは、ソ連の指導により1984年に独裁政党として労働者党を結成し、文民政権の体裁を整えようとしたが、1990年以降、ソ連のゴルバチョフ改革の一環で、ソ連からの援助が打ち切られた。89年には、ソマリアとのオガデン戦争以来駐留していたキューバ軍も撤退した。
 とはいえ、当時20万以上の総兵力を擁したエチオピア軍であったが、ソ連とキューバの支援を失い、軍の士気も低下する中、政権は急速に弱体化し、1991年2月以降、攻勢に出たEPRDFが5月に首都アディスアベバを制圧、メンギストゥはジンバブウェに亡命、革命は成功した。
 EPRDFはそのまま一党支配型の政権勢力となり、ティグライ人民解放戦線出身のメレス・ゼナウィ首相のもと、マルクス‐レーニン主義を離れ、中国の社会主義市場経済にも似た開発独裁的な手法で、経済成長を遂げた。
 こうして多民族糾合革の結果としての新連邦体制が革命後30年近くも持続したのも稀有のことであったが、2019年に、オロモ人出自のアビイ・アハメド首相のもと、EPRDFが繫栄党として統合されると、ティグライ人民解放戦線はこれに参加せず、野党化したことで、多民族糾合体制が初めて破綻した。
 政権離脱したティグライ人民解放戦線はさらに根拠地のティグライ州で分離独立運動を展開、連邦政府軍との内戦に発展し、同州は深刻な人道危機に陥った。この件は革命の範疇を離れ現在進行中の事態であるので、ここでは立ち入らない。

〈2‐2〉エリトリアの独立
 イタリアのムッソリーニ時代のエチオピア侵攻後、植民地支配下に置かれ、第二次大戦後は国際連合決議により、エチオピアとの連邦体制を強いられたエリトリアはエチオピアのティグライ人とも近縁なティグリニャ人が最大民族を構成し、抑圧的なエチオピア支配に対する独立運動が帝政時代以来展開されてきた。
 その中心は1970年にそれまでの解放組織エリトリア解放戦線から分派して結成されたエリトリア人民解放戦線であるが、80年代末にはエチオピア側のEPRDFと協力して、1991年の革命に参加した。
 この共闘関係は政府軍に比して武力で劣るEPRDFを助け、メンギストゥ政権打倒で功績を挙げたことから、エチオピア救国革命はエリトリア独立含みのものとなった。そのため、エチオピア革命後、旧エチオピア軍が駆逐されたエリトリア州をエリトリア人民解放戦線が制圧し、独立革命に進展した。
 その後、米国が仲介する和平協議を経て、1993年の住民投票で独立が承認され、エリトリアは正式に独立国となった。これにより、エチオピアは紅海へのアクセスを喪失し、内陸国となった。独立エリトリアは90年代末にエチオピアと国境紛争に陥るも、和平が成立し、以後は関係が修復された。
 人民解放戦線は革命後、独裁政党となり、マルクス主義を離れた翼賛的民族主義政党・民主主義と正義のための人民戦線に改称した後、独立以来のイサイアス・アフェウェルキ大統領による個人崇拝型のファッショ体制に転化拙稿参照)、エチオピアとは対照的に国際的にも孤立した状況にある。
 エリトリア人民解放戦線はエチオピアのEPRDFのような多民族糾合組織でなかったこと、地政学的に複雑な「アフリカの角」に位置するエリトリアは、エチオピアやスーダンなどの大国に囲まれつつ、革命によって勝ち取った宿願の独立を維持していくためにも一元的な政治指導への要請が強いことが、個人独裁化への力学をもたらしたものと言える。


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