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近代革命の社会力学(連載第439回)

2022-06-07 | 〆近代革命の社会力学

六十二 ユーラシア横断民衆諸革命

(4)ウクライナ未遂革命

〈4‐2〉未遂革命と親欧派政権の誕生
 2004年10月‐11月の大統領選挙では、連続二期の任期切れとなるクチマ現職は立候補しない代わりに、事実上の後継者と目されたヴィクトル・ヤヌコーヴィチが与党系候補者として立候補した。これに対抗して、統一野党勢力からは前出のヴィクトル・ユシュチェンコが立ち、一騎討ちの構図となった。
 実際のところ、両候補者は共にクチマ政権の首相経験者であったから、04年選挙は10年続いてきたクチマ政権内の分裂を反映した対決構図であった点、前年のグルジア革命と同様、腐敗した体制自身が生み出した対立構造であった。
 しかし、ウクライナの場合、ユシュチェンコは反クチマというにとどまらず、元銀行家のエリートにして、西部に支持基盤を置く親欧州派、一方のヤヌコーヴィチは強盗前科のある労働者階級出自の立身者という異色経歴の人物にして、東部に支持基盤を置く親ロシア派という形で、地政学的にも階級的にも明瞭に対立する構図が作り出された。
 そうした先鋭な対立関係の中、ユシュチェンコは選挙直前、政権保安機関の関与が疑われる置毒の結果、緊急治療を受け、顔面に後遺症を発症するという陰謀にも見舞われる波乱に満ちた選挙となる。
 選挙は二回投票制で実施され、10月31日の第一回投票ではユシュチェンコがヤヌコーヴィチに僅差で勝利するも、過半数は取れず、11月21日の決選投票に進むが、当初の当局発表では、ヤヌコーヴィチが勝利したとされた。
 これに対して、野党勢力は政権側の集計操作があったとして、直後から大規模な抗議行動を展開した。この抗議行動にはセルビアのオトポールの指南を受けた青年運動ポラ!(ウクライナ語で時間だ!の意)も参加し、野党の枠組みを超えた国民的な蜂起に進展した。
 そうした中、ユシュチェンコ陣営が救国委員会の設置を発表し、全国ゼネストへの突入を示唆すると、状況は一挙に革命的様相を呈し始めた。ここで、意外なことに、最高裁判所が介入し、選挙の不正を認め無効としたうえで、再選挙を命じる決定を下した。
 この司法決定を両陣営が受け入れ、04年12月26日に再選挙が行われることになったため、革命のプロセスは中止される。再選挙の結果は一転してユシュチェンコの勝利となり、合法的な政権交代が実現した。
 この事変ではユシュチェンコ陣営支持者や抗議行動参加者がオレンジ色のリボンや旗などのシンボルを採用したことから、世上「オレンジ革命」の名で記憶されているが、実のところ、革命は中止され、再選挙の結果、平和的な政権交代が実現したので、厳密には未遂革命の事例である。ただし、失敗による未遂ではなく、成功的な未遂という点で異例な事象ではある。
 とはいえ、この事象は先行のセルビアやグルジアの革命と比べても、地政学的な親欧vs親露の対立関係が鮮明であったため、ロシアと欧州連合/米国の強い利害関心の的となり、それぞれが友好陣営に肩入れした点で、革命への外部干渉が際立っていた。
 結果として、親欧派のユシュチェンコが勝利し、親欧政権が発足することになるが、親露勢力及び背後のロシアはこの結果には大いに不満であり、以後、今日にまで及ぶ親欧派と親露派の社会的分断と大国の干渉、最終的にはロシアによる〝特別軍事作戦〟につながる苦難の時代の始まりともなる。


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