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近代革命の社会力学(連載第28回)

2019-10-14 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(9)革命の軌道修正  
 ロベスピエールの革命的独裁体制は、政策的には中道、手段は恐怖という奇妙な組み合わせから成っていた。通常、中道政策はより穏健な手段を通じて行なわれるからである。それに加えて、この体制は自己定義においても中途半端なところがあった。  
 ロベスピエールの公的な地位は国民公会議長というものであったが、これは共和制樹立後の事実上の国家元首の立場であった。とはいえ、暫定的な輪番職の性格を脱しておらず、ロベスピエール自身、いずれも短期間二度務めたにすぎない。そのうえ、ロベスピエール派は立憲体制を確立することもできなかった。  
 山岳派主導で起草された1793年憲法は、先行のアメリカ合衆国憲法のような三権分立に基づく大統領制を採用せず、人民主権論に基づき、立法府が権力の中心となるある種の議会共和制を想定する先進的な内容ではあったが、恐怖政治期の混乱の中、施行されず、幻に終わった。  
 そうした中、1794年6月、ロベスピエール政権は反革命者を処罰する革命裁判所の権限を強め、恐怖政治をいっそう強化する内容の「恐怖政治法」を制定する。これは従来、手段として行なわれてきた恐怖政治に法律的な根拠を与えようとするものであった。手段が目的と化したのである。  
 これにより粛清がいっそう過激に拡大される危険が生じた時、革命の軌道修正を図ろうとする力学が働いた。中心となったのは、名門貴族出身の革命派軍人ポール・バラスであった。彼は派遣された地方で権力乱用や汚職に手を染め、ロベスピエールから召喚された問題人物であった。  
 おそらくは自身の粛清を恐れたバラスはジョセフ・フーシェやジャン‐ランベール・タリアンといった策士と共謀して、1794年7月、反ロベスピエールのクーデターに決起、ロベスピエールとその側近集団を電撃的に大量逮捕することに成功する(共和暦によるテルミドール9日クーデター)。  
 こうして、ロベスピエール体制はあっけなく崩壊したのであるが、恐怖政治のイメージから磐石に見えたロベスピエールの権力基盤が実は脆弱であったことが明らかとなった。テルミドールの政変は、ロベスピエール体制が少数独裁を恐怖手段で維持していたにすぎないことを暴露したのである。  
 テルミドール派政権は、皮肉にも、ロベスピエール流の恐怖政治を逆用してロベスピエール派を大量処刑することで権力を固めたが、テルミドール派には統一した政治綱領は存在せず、単に反ロベスピエールという一点で一致していただけであった。  
 従って、テルミドール派政権は集団指導体制となり、結果的に、独裁色は薄められた。施行延期となっていた1793年憲法を大幅に修正した憲法を制定したが、そこではアメリカ憲法にならった三権分立制が採用された。ただし、行政権は単独の大統領ではなく、五人の総裁による集団制であった。  
 第一期の総裁五人は、貴族一名(バラス)にブルジョワ階級四名という構成であったが、バラスも含めて、おおむねブルジョワ階級に寄り添う政権という性格を帯びた。これによって、革命政権の性格がロベスピエール期のプチ・ブルジョワ階級主体からブルジョワ階級主体に押し戻され、ブルジョワ民主革命の線に収斂したと言える。  
 総裁政府の樹立以降を革命の終息期と見ることもできるが、総裁政府は革命プロセスに完全な終止符を打ったわけではない。そのため、再び王党派(王政復古派)がうごめきだした時、バラスらは王党派を排除する再クーデターで応じたのである。


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