ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第61回)

2020-01-15 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(6)革命の挫折と反革命テロル
 フランス・コミューン革命では、パリ・コミューンの前後に、南部・中部の都市にも同様のコミューンの設立が相次いだのであるが、都市間の連携が取れていないことが問題であった。全体をつなぎ、全国規模の革命的波動を作り出せる全国的革命組織が何も存在していなかったからである。
 コミューンの設立を支援した国際労働者協会(第一インター)も、国際組織としての立場上、フランス一国の革命を直接に主導することはできなかった。ただ、協会の創立にも関わったマルクスが各地連携のため孤軍奮闘していたが、当時のマルクスはマイナーな存在であり、影響力を持っていなかったため、彼一人の力で連携を作り出すことは不可能であった。
 その結果、フランス・コミューン革命は中央政府vs地方自治体の抗争という図式の域を出ず、コミューンが対抗権力として公式政府と並立する未然革命の段階から次なる真の革命へと展開することが最後までできなかった。 
 こうした分断状況は、鎮圧に当たる中央政府にとっては極めて好都合であった。革命の起きていなかったベルサイユを拠点とするティエールの中央政府は、当初こそ革命軍化した国民衛兵団の武装解除とパリ奪取を試みたが、これに失敗すると、あっさりパリを放棄し、いったんベルサイユへ撤収した。
 しかし、これは「与えて奪え」の格言どおり、いったん引いて革命を許しておき、後から各個撃破の反転攻勢に出る巧妙な作戦の一環であった。事実、パリ以外のコミューンはいずれも基盤が弱く、次々と短期間で鎮圧されていき、パリ・コミューンが孤立する状態に置かれたのである。
 こうなると、中央政府による鎮圧は時間の問題であった。1871年5月21日、コミューン内の潜入スパイの手引きでパリ市内に第一陣を送り込んだ中央政府軍は、23日以降、本格的な鎮圧作戦にかかった。コミューン側の国民衛兵団と中央政府軍では兵員数も武器も比較にならないほど非対称であり、政府軍のパリ進軍を許した時点で帰趨は決していた。
 国民衛兵団は降伏を決めるが、精神主義的な徹底抗戦派のコミューン支持者に阻止されたことで、和平の可能性は遠のいてしまった。流血のコミューン掃討作戦により、28日、パリ市全域が政府軍により制圧され、パリ・コミューンは崩壊した。3月26日の宣言から起算しても、わずか二か月の命脈であったが、戦死者は推定3万人である。
 革命を鎮圧した政府側は、事後処理としてコミューン派に対し容赦のない弾圧を加えた。即決裁判によりコミューン派指導者らを多数処刑したほか、軍による超法規的処刑やあからさまな殺戮も相次いだ。死刑を免れた者たちも、数千人規模で投獄あるいは海外領土へ流刑となった。
 このような中央政府の事後処理は革命派への報復とともに将来の革命の抑止をも狙った反革命テロルの恐怖政治であり、反革命対処のある意味手本として現在まで継承され、他国の政府によっても、程度差はあれ、繰り返し利用されているものである。
 事実、反革命テロルの効果は抜群であり、フランスにおける18世紀以来の革命の歴史はパリ・コミューンを最後に終焉、フランスでは以後、現在まで真の意味で革命と呼び得る事変は発生していない。
 ちなみに、パリ・コミューンからおよそ百年後、第五共和政ド・ゴール政権下での「1968年五月革命」は、政権を揺るがす大規模な大衆デモに対する比喩にすぎず、体制変革につながる真の意味での革命ではない。
 他方、ティエールが初代大統領となった第三共和政下では王党派が再び伸張したが、ティエールの辞職後、ブルボン朝復古の最期の試みが失敗に終わり、君主制と共和制の転変を繰り返してきた歴史にも終止符が打たれた。
 以後、政体論争は消滅し、現在の第五共和政まで共和制の枠組みがほぼ恒久的にフランスに根を下ろした。その意味で、パリ・コミューンをフランスにおける最後の共和革命における一コマとして見るならば、それは短期的に失敗しつつ、長期的に「成功」したと評価することもできるだろう。


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