ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

奴隷の世界歴史(連載第46回)

2018-03-25 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ローマの解放奴隷
 古代ローマの奴隷制の特徴として、奴隷主が奴隷の個別的な解放に比較的好意的であったことが挙げられる。その傾向は、スパルタクスらの第三次奴隷大反乱の後には、さらに強まった。
 元来、古代ローマの解放奴隷には市民権が与えられ、投票権も保障された点で、古代ギリシャのそれとは異なっていた。経済的な面でも、奴隷の財産所有が認められるようになり、解放奴隷には土地所有権も保障されたことから、解放後、裕福になることもできた。
 ただし、解放奴隷は解放後も元主人との関係が続き、元主人を庇護者(パトロヌス)とするクリエンテスと呼ばれる古代ローマ独特の社会的関係性を築くのが通例であった。クリエンテスは奴隷のような一方的従属関係にあるのではなく、パトロヌスに奉仕することにより、見返りに経済的・社会的な便宜を図ってもらう「持ちつ持たれつ」の関係である。
 クリエンテスはそのすべてが解放奴隷であったわけではないが、クリエンテスを多く持てば持つほど有力者とみなされ、また貴族の重要な義務である戦時の兵力動員に際しても兵力となるクリエンテスが多いほど有利であったローマ貴族にとって、奴隷を解放することは手っ取り早いクリエンテス培養手段であった。
 一方で、気前の良すぎる奴隷解放により古代ローマの社会経済基盤である奴隷制が崩壊しないよう奴隷主は奴隷を解放するに当たり、解放税を納税する義務が課せられていたが、奴隷の供給が停滞した帝政期になると、奴隷を購入するより、解放奴隷をクリエンテスとして奉仕させるほうが貴族階級にとっても有益となったことから、奴隷解放が促進されたと見られる。
 解放奴隷たちは社会組織の面でも、農場の奴隷監督者や役所の中間管理職、あるいは剣闘の興行主といった中間層を形成し、奴隷制が弱化していく帝政期以後には解放奴隷階層は社会の維持に不可欠の要素となっていた。
 解放は、奴隷にとっては階級上昇の重要なステップであった。中でも4代クラウディウス帝時代には解放奴隷が高級官僚ポストに多数登用され、中でも財務長官となったマルクス・アントニウス・パッラスは国庫を預かり、事実上の宰相格として宮廷でも絶大の権限を持つに至った。
 またローマに編入された征服地エジプト属州は皇帝私領にして食糧供給地帯というその特殊な地位から、長官職には皇帝に近い解放奴隷を充てることが慣例とされていた。
 ちなみに、後期ストア派哲学者として名高いエピクテトスも解放奴隷であり、彼は14代ハドリアヌス帝と親しく交わり、その思想はハドリアヌスを継いだ哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝にも影響を及ぼした。
 とはいえ、古代ローマの解放奴隷は自由民の地位にとどまり、元老院議員をはじめ、公選公職や神官といった高位職に就く資格はなく、また将軍となり軍閥を形成することもできなかったから、イスラーム圏のマムルーク朝のように解放奴隷から支配層にまでのし上がる下克上の可能性は開かれていなかった。*例外として、内乱期の193年に五人の皇帝が次々と擁立された「五皇帝の年」における最初の皇帝となったペルティナクス帝は父が解放奴隷出自であった。また3世紀に専制君主政を創始したディオクレティアヌス帝も解放奴隷出自との説があるが、定かではない。
 パッラスのように官僚として重きをなす道も―彼自身、5代ネロ帝により処刑―、ハドリアヌス帝が官僚制度を整備するに当たり、解放奴隷が官僚として政治参与する余地を狭めたことで、閉ざされることとなった。

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民衆会議/世界共同体論(連載第36回)

2018-03-20 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第8章 世界共同体の組織各論②

(4)民際共同武力
 世界共同体(世共)と国際連合(国連)の最大の相違は、世共が国家という政治単位によらない点にあるが、そのことはほぼイコール軍隊(国軍)を前提としないということを意味する。世共は国連のような軍隊を保持する「集団安全保障」ではなく、非軍事的な「恒久平和」の機構である。
 従って、世共の憲法に相当する世共憲章は軍備廃止条項を最重要条項とし、世共を構成する領域圏は独自の軍事組織を保有することが許されない。言わば、日本国憲法9条がグローバルに実現されることになるのである。
 そのため、ほとんどの紛争は前回見た二段階の非軍事的なプロセスを通じて解決がつき、世共に固有の武力は必要ないはずである。とはいえ、そうした非軍事的解決に限界がある場合、あるいは紛争解決後の平和監視のために一定の武力が必要となる場合を排除しない。そこで、世共も現実政策として、一定の武装組織―民際共同武力―を保有することは許されてよい。
 その場合でも、民際共同武力は本格的な軍隊組織である必要はなく、現行制度で言えば、フランスやフランス系諸国の憲兵隊のような武装警察組織で必要にして十分である。こうした世共直属の武装警察組織として、輸送目的限定の小規模な海上及び航空部隊も附属する一定規模の警察軍を常備する。
 ただし、この組織は完全な統合的組織ではなく、平和理事会の監督下に、実際の部隊は同理事会と協定を結んだ領域圏が世共の規定に従って隊員募集・訓練を受託管理したうえで、同理事会の派遣決議に基づき、理事会下部機関としての指揮運用委員会が統合運用する方式が現実的であろう。
 以上に対して、地球全体の防衛のための武力を持つべきかどうかという別問題もある。これは現時点ではいささかSF的ではあるが、地球外からの攻撃や、あるいはより現実的に想定され得る隕石衝突などの事態に対する備えである。
 この問題について確定的な結論は急がないが、仮にこうした全域防衛力を保持すべきだとするならば、ここでもそれは本格的な軍事組織である必要はなく、専守防衛型の防空警戒軍のような組織で必要にして十分であろう。
 いずれにせよ、世界共同体はその究極的な姿においては、一切の武力から解放された恒久平和機構であって、現実的な観点から保持される民際共同武力も必要最小限の補充的なものであるべきことが忘れられてはならない。

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民衆会議/世界共同体論(連載第35回)

2018-03-19 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第8章 世界共同体の組織各論②

(3)紛争解決機関
 世界が一つにまとまる世界共同体の下でも、構成領域圏間の境界紛争や特定地域の帰属問題、さらには領域圏内における分離問題などの紛争を完全にゼロにすることはできない。そうした場合に備えて、世共は二段構えの制度を用意する。
 一つは、司法的解決である。このような民際司法は、第一次的には領域圏の地域的なまとまりである汎域圏の民衆会議に設置された司法委員会がこれを担う。汎域圏民衆会議司法委員会(以下、単に司法委員会という)は、紛争当事領域圏以外の当該汎域圏内中立領域圏の出身者たる委員で構成された合議体として設けられた常設機関である。
 司法委員会は紛争当事領域圏の一つが司法委員会に適法に提訴すれば開始され、すべての当事領域圏の合意を必要としない。司法委員会の審決は全当事領域圏を拘束する強制力を持つ。
 ただし、不服の当事領域圏は上訴することができる。その上訴審を担うのは、世界共同体司法理事会である。司法理事会は上訴が行なわれたつど設置される非常設機関であり、理事は紛争当事領域圏以外の中立領域圏の出身者で構成される。上訴審決には終局性があり、三審は認められない。
 国家主権という観念を持たない世共の司法的解決には当事領域圏を拘束する強制力が認められるから、ほとんどの紛争は司法的に解決されることを期待できるだろう。しかし、それでも解決がつかない場合の備えとして、世共平和理事会による紛争調停と平和工作が用意される。すなわち―
 武力紛争の発生または発生の現実的危険を認知した平和理事会はまず、紛争当事領域圏以外の中立領域圏に属する専門家から成る「緊急調停団」を任命し、紛争の終結に努める。
 この「緊急調停団」による調停が功を奏した場合も、再発防止と調停履行の監視のため、平和理事会の下に専門的な訓練を受けた要員から成る「平和工作団」を常備し、同理事会の決議を受けて随時紛争地へ派遣することができるようにする。

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奴隷の世界歴史(連載第45回)

2018-03-18 | 〆奴隷の世界歴史

第六章 グレコ‐ロマン奴隷制

古代ローマの奴隷大反乱
 古代ローマの歴史を特徴付けるものとして、しばしば「奴隷戦争」とも称される奴隷による大反乱がほぼ30年間隔で三度記録されていることである。このことは、古代ローマでは結集すれば戦争を起こせるほどに奴隷が多く使役されていたことと、奴隷の待遇が戦争を起こさせるほどに劣悪だったことを示している。
 ただし、いずれの大反乱も共和政時代に集中していることは、共和政時代の政治的な不安定性と軍事的な脆弱性を示しており、帝政時代に入るとローマの軍事力が確立される一方で、解放奴隷も増えるなど、奴隷の待遇も向上し、かつ奴隷の新規供給が困難になったことを示してもいる。
 三度の大反乱のうち、最初の二度はいずれもシチリア島で発生している。シチリアは二次に及ぶポエニ戦争の結果、ローマが最初の属州として手中にした記念すべき征服領土であり、それだけにシチリアでは奴隷を酷使する典型的な大農場経営(ラティフンディウム)が導入されていた。
 前にも触れたとおり、農場奴隷は待遇が悪く、とりわけシチリアのような本土から離れた征服地では衣食住も満足に提供されない有様であったから、奴隷の不平不満は爆発する必然性があった。そうした時に、シリア出身の解放奴隷エウヌスが預言者を称して反乱を煽動したのが、前135年から3年に及んだ第一次奴隷大反乱である。
 反乱軍の指揮を執ったのはトルコ出身の奴隷クレオンであったが、精神的指導者と作戦指揮者を分担した反乱軍の巧みな体制は、ローマ当局を手こずらせた。しかしクレオンの戦死をきっかけに反乱は鎮圧され、エウヌスも捕縛護送中に死亡した。
 しかし、それからおよそ30年後の前104年、再びシチリアで奴隷大反乱が発生する。第二次大反乱は、第一次に比べると偶発性が強く、きっかけはガリア地方の先住民キンブリ族の反乱に対処するべく、ローマ軍司令官ガイウス・マリウスが奴隷を解放して徴兵しようとしたことにあった。
 その際に解放したシチリア奴隷たちが、サルウィウスなる人物に率いられて反乱を起こしたのだった。サルウィウスは30年前の反乱指導者エウヌスの後継者を自称し、第一次反乱の記憶を利用しつつ第一次反乱より長い4年を戦ったが、これもマリウスの部下であった執政官マニウス・アクィリウスによって鎮圧された。
 それからさらにおよそ30年後の前73年、今度は初めてイタリア本土で史上最大規模の奴隷大反乱が勃発する。この第三次奴隷大反乱はその規模やローマ側の損害から見ても、優に「戦争」と呼び得る事態であった。その指導者は剣闘士奴隷スパルタクスである。
 スパルタクスは剣闘士に多いバルカン半島の先住民トラキア人の出身と見られ、剣闘が盛んな南イタリアはカプアの剣闘士養成所に所属していた。前に触れたとおり、剣闘士奴隷は生命の危険を伴う最も過酷な境遇の奴隷であり、待遇への不満が鬱積していた。
 スパルタクスと彼の同僚らがそうした境遇からの逃亡を企てたのが、この大反乱のきっかけであった。それがなぜ単なる集団脱走を越えて「戦争」に発展したかは定かでない。スパルタクスの大反乱はしばしば後世の史家によって美化され、階級戦争の初例として挙げられることもあったが、一競技者にすぎないスパルタクスらにそこまで覚醒された問題意識があったかどうかは疑わしい。
 とはいえ、前二回の反乱のように扇動者的存在はいなかったにもかかわらず、反乱軍は様々な種類の奴隷を糾合して最終的に推定30万人規模にまで膨れ上がり、まさしく奴隷の階級的蜂起の様相を呈したことは間違いない。またスパルタクスは扇動者としてより軍事指導者として優れており、反乱軍は規律と統制が取れていたと評されている。
 しかし、スパルタクスの盟友であったクリクススが何らかの対立から離脱行動を取ったことに加え、緒戦では反乱を見くびり敗北を重ねたローマ側がクラッススやポンペイウスらの有能な将軍を投入して反攻に出た結果、前71年までに反乱は鎮圧され、スパルタクスは戦死(推定)、捕虜数万人が見せしめのため磔刑に処せられた。
 こうして第三次奴隷大反乱は規模こそ最大級ながら、期間は最も短い2年ほどで終息することとなった。しかし、この事件の衝撃余波は大きかったと想像され、以後奴隷の待遇は改善され、財産の所有や個別的解放の増発、また農場奴隷の小作人への転換などが徐々に進んでいった。
 それはとりもなおさず、ローマ社会の土台であった奴隷制の衰退と体制の終焉へ向けた長いプロセスの始まりでもあったと言えよう。そうした意味では、スパルタクスがどこまで意識していたかは別としても、彼の名とともに記憶されている第三次奴隷大反乱には階級蜂起的な意義を認めることもできるだろう。

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貨幣経済史黒書(連載第8回)

2018-03-11 | 〆貨幣経済史黒書

File7:チューリップ・バブル事件

 貨幣経済は商取引を活発にするとともに、投機熱をも刺激する。もっとも、短期的な価格変動を見込んで利ざや稼ぎをする投機という経済行為の歴史は貨幣経済よりも古いようで、遊興としての賭け事と共通の根を持つ人類的慣習なのかもしれない。
 その点、貨幣経済下の商取引にあっては、物の価値が貨幣によって数量的に表象され、短期間で上下変動しやすいことから、投機のギャンブル性が高まり、人間の射幸心を刺激するのであろう。
 そうした投機熱がもたらした史上初のバブル経済とされる事象として、17世紀のオランダ(当時の国名ネーデルラント;現在のベルギーの一部にまたがる共和国であったが、本稿では便宜上オランダという)に起きたチューリップ・バブルがある。
 チューリップは元来、アナトリア地方原産の球根植物であり、欧州にはオスマン帝国からオーストリア帝国への贈呈品として16世紀半ばにもたらされたものが広がり、特にライデン大学植物園で量産栽培に成功したことからオランダで急速に人気を呼ぶようになった。
 問題はそれが愛好家の観賞で終わらなかったことである。オランダのような寒冷気候ではチューリップの開花期は4月‐5月期であるが、球根植物としての利点を生かして休眠期にも球根の現物取引が可能であるほか、先物取引の対象にもしやすい。
 そうしたことから、チューリップ取引は当時の金融先進地でもあったオランダでたちまち投機ブームを引き起こした。オランダは先物市場のパイオニアであったとはいえ、当時は商品取引所も取引ルールも未整備であり、現物が存在しない状態での取引はまさに投機的な空売りであった。
 危険性を察知した当局は空売り禁止令をたびたび発したが、取引所が整備されず、居酒屋などでの投機者の相対取引によっていたため、規制は行き届かなかった。ギャンブル性は増し、正常な現物取引では商品にならない傷み物にまで高値がつくような事態となった。
 球根価格は1636年から急騰した。ところが翌37年、価格は突如暴落する。このわずか一年での急騰暴落の要因とその結果に関しては17世紀という時代柄、データ史料の限界もあり、定説を見ない。
 特に結果に関しては、従来、庶民を含む多くの投機者が一瞬で財産を失い、オランダ経済に大打撃を与えた記録に残る史上初のバブル経済と評されてきたところ、今日の研究によれば、実際に球根先物取引に参加していたのは富裕な商人や職人など限られた中間階層であり、経済全体に及ぼした影響は過大評価できないとされる。
 そのように参入者限定の投機事象だったとするなら、それはそれとして、今日でも一部の個人的投機者の間で発生する信用取引や先物取引における価格暴落事象の先駆けと言えることになるかもしれない。
 また突然の値崩れの要因として、当時のオランダ議会が先物取引の買い手の購入義務を免除し、売り手に対し売買代金の一部支払い義務のみを負わせる規則改正を行なったことで、取引停止に陥った点にも注目されている。こうした政策変更が要因とすれば、それは議会の介入という人為的な要因がもたらした市場の反応だったとも言える。
 こうして、「チューリップ・バブル」は、実は真のバブル事象ではなかったかもしれない可能性が残るわけだが、そうだとしても、この事象は貨幣経済が本質的に持つ投機性の恐怖を17世紀という近代への入り口となる時代に先取りした事例と言えるであろう。

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民衆会議/世界共同体論(連載第33回)

2018-03-05 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第8章 世界共同体の組織各論②

(1)非官僚制的運営
 国際連合や欧州連合といった現行国際機構に付きものの欠陥は、官僚主義である。これらの機構は固有の主権を持たないが、それゆえにかえって政治職が名誉職化し、実務を仕切る官僚制がはびこりやすい体質を蔵している。
 民際機構としての世界共同体(世共)は、このような官僚主義から自由な存在でなくてはならない。前回まで見てきたように、世共が世界民衆会議を軸に成り立つのも、官僚主義を抑制して民衆会議を核とする民衆統治を徹底する趣旨である。
 世界民衆会議は各領域圏民衆会議が選出した代議員で構成されるのであるが、それら代議員は官僚としての外交官ではなく、民主的な基盤を備えた政治職として世共運営の中心を担う。そのうえで、汎域圏民衆会議が選出した汎域圏常任全権代表で構成される汎域圏代表者会議が世共執行機関としての役割を担うことで、執行の側面でも政治職に実質的な権限を保障する。
 そればかりでなく、具体的な機関構成の点でも、非官僚制的な運営が目指される。世共事務局は独立した主要機関ではなく、世界民衆会議の下で文字通りに世共の事務処理を担う実務機関に純化され、その長たる事務局長も実務責任者以上の権限を持たない。
 また各分野ごとの主要機関についても、現行国連のように総会と並立する形で安全保障理事会や経済社会理事会等が置かれる縦割り主義的な構制ではなく、世共総会の位置づけを持つ世界民衆会議の常任委員会として置かれる。従って、これら主要機関の運営に当たる理事職は、世界民衆会議代議員が兼任することになる。
 実際のところ、世共事務局や各主要機関その他の世共帰属機関の一般職員は世共公務員としてある種の官僚ではあるが、これらの実務職員は必要最小限に抑え、世界民衆会議代議員が実質的な権限を発揮できるようにする。

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