ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後ファシズム史(連載第33回)

2016-04-26 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐7:マラウィの開発ファシズム
 コードディボワールのウフェ‐ボワニ体制と類似する体制として、アフリカ南東部マラウィで1964年の独立から94年まで続いたヘイスティングズ・カムズ・バンダを指導者とするマラウィ会議党体制がある。
 バンダは医師の出身で、医療関係から出た点でもウフェ‐ボワニと類似する。バンダは旧英領ローデシアの一地方であったニヤサランド(現マラウィ)の反英独立運動闘士として台頭した。独立前には投獄も経験したが、釈放後は独立後の初代首相に就く。66年には初代大統領に選出されると、71年以降は終身大統領となり、瞬く間に強固な独裁体制を築いた。
 彼の政治動員マシンとなったのが、マラウィ会議党である。この党は元来、旧ニヤサランド独立運動組織を母体とする民族主義政党であり、ファシズムを直接の綱領としていない点では、ウフェ‐ボワニの民主党と同様であり、ともに不真正ファシズムに分類できる。
 しかし、バンダ体制はウフェ‐ボワニ体制以上に全体主義的性格の強いものであった。まず成人は全員が自動的に党員とされ、かつ党員証の常時携帯・提示義務まで課せられた。またナチ親衛隊に近い青年武装組織が監視や迫害の最前線を担った。バンダへの個人崇拝も強制されたほか、服装規制を国民のみならず外国人にも強制するなど、生活統制も徹底された。
 イデオロギー的には強固な反共主義者であったバンダは、国内的な弾圧より対外的な反共介入工作に向かったウフェ‐ボワニとは対照的に、国内反体制派への苛烈な弾圧を実行し、30年に及んだ彼の政権下ではおおむね人口1千万人前後で最大2万人近くが殺害されたとする推計も存在する。
 バンダの体制のもう一つの特徴として、経済開発への傾斜がある。彼はアメリカの経済学者ウォルト・ロストウの経済発展段階理論に依拠して、国家主導での資本主義的成長政策を実践しようとしていた。
 そのため、バンダ政権はいくつもの国策企業を設立したが、特に主要な役割を担ったのが、71年に設立された国営の農業発展市場開拓公社である。これはタバコを中心としたマラウィの農産品の海外販路の開拓を通じた農業開発を担う国策企業であった。
 この会社は当初こそ効率のよいビジネスモデルとして評価されていたが、バンダ独裁下で支配層の利権絡みの汚職にまみれていった。80年代には国際的なタバコ価格の下落による打撃を受けたうえ、最終的に世界銀行の借款支援体制の下、機能縮小を余儀なくされた。
 一方、バンダ政権は道路建設をはじめとする都市開発も進めるため、首都開発公社を設立し、人種差別政策を敷く南アフリカをブラックアフリカ諸国中、唯一承認し、外交関係を正式に築いたうえ、その資金援助を受けるといったプラグマティックな政策でも際立っていた。
 こうした開発ファシズム体制は輸入代替産業の構築による経済的な自立を目指す野心的なものではあったが、70年代の石油ショック後の経済危機にはうまく対処できず、一方ではバンダとその取り巻きたちの蓄財のシステムと化していき、87年以降は世銀とIMFの構造調整プログラムの適用を受けることとなった。 
 92年には大規模な食糧難に陥ったことを契機に、ドナー諸国及び国内からの民主化圧力が高まり、複数政党制の移行を認めざるを得なくなった。すでに推定90歳を超えていたと見られるバンダはなおも権力に執着し、94年の大統領選挙に出馬したが、野党候補に大敗し、ついに政界引退に追い込まれたのであった。
 その後のマラウィでは定期的な大統領選挙が実施され、比較的安定した民主主義が定着しつつあるが、経済的には一人当たりGDPが200乃至300ドル台とアフリカ諸国中でも下位にあり、全世界でワースト10に入る低開発国である。その点からすると、バンダ時代のマラウィは開発ファシズム体制としては最も失敗に帰した事例と言えるだろう。

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戦後ファシズム史(連載第32回)

2016-04-25 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐6:コートディボワールの開発ファシズム
 開発ファシズムは戦後に独立した東アジア・東南アジアの後発国に比較的集中した不真正ファシズムの体制であるが、同様の状況にあったアフリカ大陸にも少ないながら開発ファシズムに該当する体制が出現している。
 その一つは西アフリカのコートディボワールで、独立年の1960年から99年まで二代の大統領をまたぎ40年近く存続したコートディボワール民主党‐アフリカ民主大会議(以下、民主党と略す)の支配体制である。
 この党は、初代大統領で「国父」とも称されるフェリックス・ウフェ‐ボワニによって創設された。二重的な党名の後段にあるアフリカ民主大会議は46年の結成から58年の解散までやはりウフェ‐ボワニが代表を務め、当初フランス領西アフリカ及び赤道アフリカに属した各地域の独立運動‐汎アフリカ主義諸政党の連合として結成された超域的民族政党であり、コートディボワール民主党もその加盟政党であった。
 ウフェ‐ボワニ自身はフランス植民地時代の医学校に学んだ医療助手を本職とし、農民運動を基盤とする文民政治家として独立運動に貢献したベテランで、60年の独立と同時に初代大統領となった時にはすでに50歳を越えていた。
 アフリカの多くの独立運動家たちが社会主義者を名乗り、親ソ姿勢を見せる中、ウフェ‐ボワニは彼らと一線を画し、反共主義と旧宗主国フランスを含む親西側の立場を当初から鮮明にしていた。この路線の違いは、アフリカ民主大会議の分裂と解散につながった。
 とはいえ、彼も西欧的な民主主義は峻拒した。自身が起草を主導した憲法は、大統領に強力な権限を付与する一方、議会は単なる法案・予算案の形式的な認証機関に格下げされ、民主党による一党支配制の下、議員はすべて党員中から大統領によって事前に公認された者で固められた。また全成人が自動的に民主党員とされ、民主党は単なる政党を超えた政治動員マシンとして機能した。
 ウフェ‐ボワニは政権発足直後には多数の秘密裁判を実施し、政敵を排除したが、そうした一連の政治裁判が一段落した60年代半ば以降は、抑圧的な政策を緩和する一方で、反共主義の立場からソ連や中国を敵視し、周辺諸国の社会主義政権に対する転覆操作に向かった。
 ウフェ‐ボワニがもう一つ注力したのは、経済開発である。同時代のアフリカとしては珍しく、自由経済を志向し、西側先進諸国からの外国投資を呼び込んだため、政権中期までは高い経済成長を記録し、「イヴォワールの奇跡」と称賛された。
 しかし、農業政策では主産業のカカオとコーヒーに依存したモノカルチャーに偏ったため、80年代にカカオとコーヒーの国際価格が下落すると打撃を受け、対外債務も増大して経済危機に陥る。一方で、経済危機による庶民の生活難を尻目に、ウフェ‐ボワニ自身の故郷の町に遷都し、そこに巨額の国費を投じて大規模な聖堂を建設するなどの濫費や蓄財も批判を浴びた。
 民主化圧力も強まる中、90年、ついに複数政党制の導入に踏み切るが、民主党は独裁党時代に築いた基盤を利用して圧勝、ウフェ‐ボワニも大統領として七選し、政権を維持した。しかし、すでに80歳を越える高齢のうえ、癌が進行していたウフェ‐ボワニは93年、任期半ばにして死去した。
 後任には80年から国会議長の座にあったベテランのアンリ・ベディエが就いた。ベディエは主要野党がボイコットした95年の大統領選に圧勝するが、ウフェ‐ボワニ政権末期に首相を務めたアラサン・ワタラとの政争が激化する中、99年に軍事クーデターで政権を追われ、民主党体制は終焉した。
 以後のコートディボワールでは地域的な民族対立も絡んだ党派抗争が激化し、二度にわたる内戦を経験するなど、政治経済の混乱が続いた。こうした根深い対立はウフェ‐ボワニ存命中には彼の権威によって巧妙に抑止されていたが、その死後、集中的に噴出してきたものと言える。
 結局のところ、「イヴォワールの奇跡」の成果の大半は内戦期を通じて失われ、同国の開発ファシズムは長期的な成功を収めることなく、失敗に帰したと評さざるを得ない。

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避難所格差の不正義

2016-04-23 | 時評

資本主義は「格差」の経済であるとはいえ、災害時の避難所格差は放置できない不正義である。これは、災害時の避難所の中に物資が届く所と届かない所の格差が生じる現象であるが、このような不均衡もまた、日頃は配給に慣れていない市場経済ならではの混乱現象と言える。

ただ、こたびの熊本・大分地震では、こうした「格差」が誤った政策によっていっそう助長されてしまった面も否めない。問題の一端は、東日本大震災後の法改正で導入された「指定避難所」の制度にある。

「指定避難所」とは、「災害の危険性があり避難した住民等を災害の危険性がなくなるまで必要な期間滞在させ、または災害により家に戻れなくなった住民等を一時的に滞在させることを目的とした施設であり、市町村が指定するもの」と定義されている。

このような制度が導入されたのは、内閣府の趣旨説明によれば、「東日本大震災において、多数の被災者が長期にわたる避難所生活を余儀なくされる状況の中、被災者の心身の機能低下や様々な疾患の発生・悪化が見られたこと、多くの要配慮者が避難所のハード面の問題や他の避難者との関係等から自宅での生活を余儀なくされることも少なくなかったことなどが課題となった」点を踏まえ、「災害の発生時における被災者の滞在先となるべき適切な施設の円滑な確保を図るため」だとされる。

このように、避難所を言わば自治体公認のものと住民が自主的に立ち上げた非公認のものとに線引きすれば、当然公認避難所と非公認避難所とで「格差」を生じることは目に見えている。現実の被災時に、住民が指定避難所に全員無事にたどり着けるという保証はないことからして、こうした行政的な指定の制度は、まさしく官僚的な机上論であったのである。

むしろ事前の指定に関しては、施設の老朽化や耐震強度、近隣建造物の危険性等の理由から避難所としての利用に適しない施設を事前に「指定」しておくことのほうが合理的である。その一方で、住民が自主的に立ち上げた避難所は、すべて事後的に避難所として追認することである。

その際、広域被災の場合に域内で無数に現われる自主的な避難所の所在をすべて行政が把握することは困難という言い訳も聞かれるが、自治体内で避難所として利用される可能性のある公共的施設は事前に予想できるはずであり、そのすべてを把握することは決して不可能ではない。

このように「指定避難禁止場所」と「予想避難所」という発想に切り替えれば、配給を苦手とする市場経済といえど、到達の難易度などによる時間的な遅速の差は伴っても、避難所格差という不正義は最低限克服できるはずである。

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災害に強い計画経済

2016-04-22 | 時評

震災のつど繰り返される深刻な問題が、被災地の物資不足である。その理由として、行政的な非効率などの技術的な理由も挙げられるが、より本質的には市場経済そのものの弱点による。つまり、市場経済は災害に弱いということである。

市場経済は元来、事前の全体計画なしに個別資本がそれぞれの商業的な生産計画に従って競合的に商品を生産・流通させるシステムである。そのため平常時の大規模流通は見事であるが、その裏では過剰生産による大量の売れ残り・廃棄を余儀なくされる。

ところが、災害時には被災者が各自で貯蔵した物資を消費できず、店舗に殺到したり、避難所に駆け込んだりするため、たちまち物資不足に陥る。他地域から救援物資を緊急輸送しようにも、道路網が寸断されればそれも困難となる。

このような過剰経済から不足経済への激変現象は、とりわけ人間の胃袋という気まぐれな臓器に左右される食糧品の分野では、まさに天国から地獄へのような暗転現象を引き起こすことになる。

もっとも、災害が一段落すれば物流はいつとは知れず徐々に回復されていくとはいえ、そのような事前の無計画と事後の自然調節は、まさしく資本主義市場経済の放埓な一面を示している。

その点、計画経済であれば、事前の生産計画中に災害時の備蓄に回す余剰生産が含まれるため、地域ごとに少なくとも1か月分、あるいはそれ以上の長期的な備蓄を貯蔵し、災害時にはそれを直ちに供出・配給することも可能である。

ただ、災害時には、集積された物資の分配方法をめぐって困難を生じ、そのために結果として物資不足が生じることも少なくないが、これも平常時は貨幣交換で回っている市場経済にとって非常時の無償供給は不慣れであることによる混乱である。

この点は、計画経済でも流通においては貨幣交換を前提とする「社会主義」計画経済であれば同じ問題が生ずる可能性はあるが、真の計画経済は貨幣交換によらない無償供給経済であるから、平常時と非常時の流通システムは同一であり、非常時の混乱は最小限に抑えられるであろう。

そうすれば、平常時の文明的生活―資本主義の文明化作用―が一つの災害によってたちまち難民生活さながらに暗転してしまうような耐え難い激変事態―資本主義の難民化作用―を防ぐことができる。

こうしてみると、日本のようにいつどこで大地震に見舞われるか予知できず、しかも今後もいくつもの大地震が予測されるような―本来、地質的には人間の永住に適しない―土地柄では、市場経済ではなく、計画経済のほうが適していることを実感できるのである。

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「女」の世界歴史(連載第20回)

2016-04-19 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

⑥両義化される「男色」
 男性同士の同性愛は、古代国家の時代にはそれを禁忌とする意識は薄く、性愛慣習として広く行なわれていたと見られるが、古代国家を過ぎると状況が変わり始める。ことにユダヤ教・キリスト教やイスラーム教のような中東発祥の一神教は、ほぼ一致して男色を宗教的な禁忌とみなすようになったのである。
 中東系一神教がなぜ反同性愛と結びつくのかについて、明確な解答は困難であるが、一つにはこの砂漠地帯独特の遊牧的家父長制が生み出した父性化された唯一神を崇拝する宗教体系が、血縁家族の維持につながらない同性愛行為を忌避するようになったとも考えられる。
 ことに異端者弾圧を積極的に行なうようになるキリスト教では、しばしば男性異端者に「男色家」の烙印を押して弾劾し、男色者に残酷な死罪を科した。ところが、その厳粛なるキリスト教聖職者がしばしば侍童や聖歌隊少年、見習い修道士などと性的関係を持つ習慣はまま見られたようである。
 また同様の関係は騎士と見習い騎士、従者との間にも見られた。一般庶民間の状況は不明であるが、おそらく西欧ではキリスト教化された後も、ギリシャ‐ローマ的な少年愛の慣習がまだ残されていたのであろう。
 今日では最も厳格に反同性愛の立場を取るとみなされているイスラーム世界にあっても、男性同士の性行為は表向き禁忌とされながら、少年愛の慣習が見られたようである。ことにイスラーム世界としては後発のイランやオスマントルコでは男色が盛んに行なわれていたことが確認される。
 全般に中世封建的社会は騎士や武士としての男性が社会を主導する編制を持っており、武芸に秀でた肉体的男性を理想化するマチズムの風潮が強かったが、一方で、騎士や武士の間では宗教的規範に反する隠された慣習としての男色も広く行なわれていた。
 この点で、より興味深いのは日本の場合である。実は日本の神道においても男色は「阿豆那比(あずなひ)」という罪に当たると認識されていたようであるが、これが厳守されていた形跡はない。また最大の外来宗教である仏教は「不淫戒」を掲げるにもかかわらず、日本仏教は戒律の遵守にかけてはルーズと言えるほど消極的であり、「女犯」・妻帯が多発する一方で、僧侶と稚児等の間の男色慣習も見られたようである。
 中世以降には武士と小姓の間の男色が慣習化され、ことに戦国武将の多くが精神的な関係のものも含めて半ば公然たる恋男を持っていた。こうした男色は近世江戸時代には「衆道」の名において性風俗文化にさえなり、町人の間にも広がっていった。
 このようにマッチョな世界にあって男色が習俗化されていた社会に共通するのは、女性が排除された「男社会」の空間で代替的に男色が取り込まれるという関係である。言わば「男社会」における擬似的な男女関係であり、その関係において年少の男性は半女性化されていたのである。
 このようにおおむね中世における男色は、建て前上は宗教規範的に禁忌とされながら、事実上黙許された慣習としてかなり広範囲に行なわれており、言わば両義化されていたと言える。男色の禁忌としての側面の強化は、一見奇妙なことに、近世・近代以降における女性の地位の向上と反比例する形で現象してくるのである。

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「女」の世界歴史(連載第19回)

2016-04-18 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

⑤儒教諸国家と女権
 東アジアでは中国発の儒教が広く伝播し、とりわけ朝鮮と日本では中世以降、仏教と並び、もしくはそれを凌ぐ宗教道徳的な社会規範として定着していくことになる。
 儒教では「家に在りては父に従い、人に適(嫁)ぎては夫に従い、夫死しては子に従う」(三従:『大戴礼記』)に代表される女性の男性従属性を規範とする貞淑論により、女性の地位は厳しく制約される傾向があった。
 その点、中国では、以前に見たように(拙稿参照)、殷から周への体制変動の過程で、女権忌避的な風潮が強まったと見られるが、このような女権忌避は儒教創始者孔子が周時代の社会秩序を範として思想を体系化したことで、儒教にも刻印されたと考えられる。
 そして、ついに漢民族女性は纏足のような物理的拘束を受けるようにまでなる。纏足が始まった理由は定かでないが、足を小さく見せるという美観とともに、結果として逃走や遠出することが困難となることから、女性を家庭の奥に束縛するという活動制限も念慮されていたことは間違いない。
 この風習は北宋時代から広がったと言われるが、興味深いことに、宋は王后による垂簾聴政が盛んに行なわれた王朝であり、北宋第3代皇帝・真宗の没後、第4代仁宗の幼少期から青年期にかけて10年以上にわたり垂簾聴政を行った章献太后劉氏を筆頭に、北宋・南宋を通じて計8人の垂簾聴政者を出すなど、「女人政治」の時代でもあった。
 一方、纏足風習はモンゴル系元の支配を脱した後、明の時代に隆盛化したと言われるが、この過程は漢民族王朝において儒教が国教的な地位を確立していく過程でもあり、明朝では保守的な朱子学が国定学問としても定着した。
 朱子学は同時代の李氏朝鮮王朝にももたらされ、国学となった。そのため、朝鮮でも女権は制約され、女王は輩出されないが、王后による垂簾聴政の事例や王の側室として権勢を張る女性は存在した。
 この時期の朝鮮で注目すべき女性として、申師任堂がいる。彼女は16世紀の著名な朱子学者である李珥の実母でもあるが、自身も儒学の素養を備えた書画家として活躍するとともに、儒教的な良妻賢母の模範として崇敬された。しかし師任堂は号であり、名前が記録されていないのは、当時の中産階級以下の朝鮮女性の地位を物語ってもいる。
 他方、日本では儒教の伝播は飛鳥時代より以前と見られながら、仏教に押されてその定着は遅かった。女性天皇が絶えた平安時代の女性には、紫式部や清少納言のように高い素養を持った女官として文学的な足跡を残す者も少なくなかったが、見方を変えれば、女性は文学方面に追いやられていたとも言える。彼女らもまた、名前が記録されていない。
 日本で儒教が社会規範としても普及するのは、武家時代以降のことである。武家社会は戦士階級の男性の主導性が強い軍事封建社会であり、儒教的な貞淑女性観とは親和的であったのだろう。
 とはいえ、いずれ見るように、武家社会にあっても当主の正室として政治的な実権を持つ女性も見られ、戦国期には事実上の女性城主・大名として足跡を残した者もあったことは、中世日本の特筆すべき特質である。
 こうした状況が変わるのは、日本でも保守的な朱子学が国学化された近世・江戸時代に入ってからのことであるが、そうした時代にあっても、江戸城大奥のように女性たちはしばしば非公式の政治的発言力を示すことがあった。

補説:章献太后―第二の呂武后
 上述した北宋の章献太后劉氏は幼い頃に父を失い、蜀の銀細工職人と幼年婚をし、夫とともに首都・開封に移った後は歌や太鼓の芸人をしていたが、貧困な夫により後に真宗となる皇子・趙恒宅に売られた。そこで趙恒に見初められて、当初は秘密の側室となり、趙恒の即位に伴い皇帝側室、次いで皇后に昇進するという当時としては異例の階級上昇者であった。
 しかし、子どもには恵まれなかったところ、男子がなく世継問題に悩んでいた真宗がまだ側室だった劉氏付きの侍女に産ませた男子(後の仁宗)を皇帝承認のもとに実子として宣言し、養育するというある種の代理母に近い異例の奇策にも関与している。
 中国歴代王朝にあっても、平民出自の皇后は極めて稀有であったが、劉氏は政治にも通じ、真宗在位中から病弱な皇帝に代わり政務を取った。真宗没後は幼少の仁宗に代わり垂簾聴政を行ったが、仁宗が成人後も自らの死没まで政権を返上せずに居座り、ついには皇帝の衣を着用して皇帝霊廟へ赴いたことで、前漢の呂后や唐の皇后から新王朝を建て史上唯一の女帝となった武后になぞらえられるが、章献太后は優れた人材を集めて平穏な統治を行い、「呂武の才があるも、呂武の悪はない」という高評価を残している。

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戦後ファシズム史(連載第31回)

2016-04-13 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐5:ペルーの「フジモリスモ」
 フィリピンのマルコス体制が民衆革命で打倒されて数年後、南米のペルーでマルコスの手法をなぞるような体制が出現する。日系フジモリ大統領が主導した体制である。1990年の民主的な大統領選挙で政権が成立してから、「自己クーデター」と呼ばれる非常措置発動をはさんで10年間続いたこの体制は、言わば「遅れてきた開発ファシズム」であった。
 貧困な農業国だったペルーでは、1968年から75年まで続いた左派軍事政権以来、政治の左傾化が周辺南米諸国と異なる特徴となっており、フジモリが登場する直前も社会民主主義系アメリカ人民革命同盟のガルシア政権であった。
 しかし、ガルシア政権は銀行国有化や対外債務の一方的な帳消しなどの左派的政策が国際的な不信を招き、外国投資の停止にハイパーインフレが重なり、経済は壊滅状態に陥った。そうした中、ガルシア大統領の任期満了に伴う90年大統領選に登場したのが、当時政治経験のなかった農業工学者出身のフジモリであった。
 彼は、貧困層に訴える公約により、当時南米諸国でモードとなっていた新自由主義的な経済改革策を掲げ、知名度では圧倒的に勝る作家のバルガス‐リョサ対立候補を破って当選を果たした。日系人が多い南米でも歴史上初となる日系大統領であった。
 政権発足後のフジモリは公約を大幅に修正し、IMFと協調した経済改革を進め、従来の社会主義的な資源開発規制の撤廃を実現していった。ここまでなら、急進的な新自由主義政権であった。ところが、フジモリは92年、突如非常事態宣言を発し、憲法を停止したうえ、独裁権を掌握したのである。
 その口実とされたことの一つは、マルコスの場合と同様に左翼ゲリラの活動であったが、真の目的は議会で多数派を占める反大統領派を排除して、強権的な国家改造を進めることにあった。この手法は、ちょうどその20年前にフィリピンでマルコスが断行したのと酷似していた。
 この戒厳体制に等しい非常事態政府の下、トゥパク・アマル革命運動とセンデロ·ルミノーソという二大左翼ゲリラ組織の指導者の拘束に成功した。しかし一方で、国軍特殊部隊による一般市民の虐殺事件など後にフジモリ自身も罪に問われる弾圧事件が続発した。
 フジモリは93年に憲法を改正したうえ、95年の大統領選で圧勝し、形式上民主政に復帰した。しかし、実際のところは秘密警察機関(国家諜報局)を通じた盗聴やメディア統制などの全体主義的な統治が行なわれたほか、人口調節を名分とした30万人にも及ぶ先住民女性への強制避妊のような民族浄化政策も断行された。後者には米国や日本の団体も手を貸している。
 このようなフジモリ体制(フジモリスモ)はフジモリ自身が創設した「変革90‐新多数派」なる政党を基盤とするものであったが、この政党は明確なイデオロギーを持たないフジモリの政治マシンの性格が強く、ファシスト政党とは言えない。しかし、フジモリ政権の施策は実質的に経済開発を至上価値とするアジア的な開発ファシズムの性格が濃厚であったと言える。
 フジモリは自身が制定した93年憲法における三選禁止規定をかいくぐって2000年の大統領選にも出馬し、不正投票の疑いから対立候補がボイコットする中、三選を果たした。だが、直後に側近の実質的な諜報機関トップによる野党議員買収が発覚したことを契機に大統領にも疑惑が向けられる中、フジモリは外遊先から日本へ事実上亡命、これを受け、ペルー国会はフジモリを罷免し、フジモリスモは終焉した。
 ペルーでは民衆革命こそ起きなかったが、不正投票による多選狙いから失墜する終わり方も、マルコスの場合と類似していた。大きく異なるのは、フジモリはその後、ペルー司法当局から在任中の組織的人権侵害について刑事責任を問われ、禁錮25年の判決を受けたことである。この点に関しては、南米のいくつかの国で反共擬似ファシズムの軍事独裁政権指導者が2000年代以降に刑事責任を問われた先例が踏襲されたものと言える。
 また大統領側近による武器の不正取引、麻薬取引などの汚職や不正蓄財が発覚し、その一部についてはフジモリ自身も有罪となり、開発ファシズムに伴いがちな政治腐敗の体質も認められた。
 一方で、フジモリ失墜後のフジモリ支持勢力は娘のケイコ・フジモリが率いる保守系野党「人民の力」に再編され、ペルー国会で二大政党の一方を占めており、ケイコ自身が立候補した2011年の大統領選では決選投票まで進み僅差落選するほどの存在感を示した。なお、ケイコは16年大統領選にも再び立候補し、第一回投票で首位につけたが、またも決選投票で僅差落選した。

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戦後ファシズム史(連載第30回)

2016-04-12 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐4:フィリピンのマルコス独裁期
 インドネシアの近隣諸国の中で、インドネシアに続いて開発ファシズムが現われたのはフィリピンであった。フィリピンは戦後の独立後、早くから旧宗主国アメリカの制度にならった大統領共和制が定着し、東南アジアにあっては民主的な体制が整備されていた。
 そうした中、1965年の大統領選挙でフェルディナンド・マルコスが当選した。彼は弁護士出身で、若くして国会議員となった少壮政治家であった。彼は選挙戦で大戦中の日本軍とのゲリラ戦の功績を宣伝して回ったが、その公称経歴の大半は疑わしいものであった。
 とはいえ、民主的政治家として登場した彼は、すでにこうした大衆煽動的手法の片鱗を見せており、69年にはフィリピン史上初めての大統領再選を果たした。当時の憲法では三選は禁止されており、二期目は73年で満了、退任となるはずだった。 
 ところが、マルコスは72年9月、突如戒厳令を布告して憲法を停止し、独裁権力を握った。口実とされたのは、70年代に入って目立っていた左翼学生運動の急進化や貧しい農村に浸透していた毛沢東主義の共産党武装組織・新人民軍のゲリラ活動の活発化であった。
 反共主義者のマルコスはこうした情勢を共産主義者の脅威と宣伝し、国家社会の防衛を名目とした戒厳独裁統治を正当化した。このように、当初は民主的な選挙で政権に就きながら、非常措置を発動して独裁制へ移行させる手法は、ナチスのヒトラーのそれと類似していた。
 戒厳令発動以後のマルコスは、「新社会運動」なる翼賛政党を組織して、政権基盤とした。この政党には国家主義的な色彩も見られたことから、ファシスト政党に近い側面を持っていた。そのため、72年戒厳後のマルコス体制を真正ファシズムと見る余地もあるが、「新社会運動」は明確なイデオロギーを持たず、マルコス独裁体制のマシンとしての役割が大きかったことから、不真正ファシズムに分類しておく。
 一方、マルコスは文民出身ながら、ミンダナオ島のイスラーム分離独立運動も対象に加わった対ゲリラ戦の必要上、軍の増強を進め、その規模は最大20万人に膨れ上がった。さらに警察軍や自警団組織を動員した超法規的処刑などの手法で共産主義者とみなされた者の抹殺を行うなど、組織的な人権侵害が横行した点では、インドネシアと類似する。
 そうした抑圧体制の下、マルコスは表向きは工業化と農村の経済開発に重点を置き、華僑を中心とした伝統的な経済支配層の特権に切り込むポーズを見せたが、その裏では日本をはじめとする開発援助の利権を一族や側近集団がむさぼる汚職が蔓延していた。
 マルクスは81年に戒厳令を解除するが、民主化はなされず、形式的な議会選挙と大統領選挙により、新社会運動を基盤とする事実上の一党支配体制を作出した。体制の性格・実態は変わらず、83年には野党指導者ベニグノ・アキノの暗殺事件が起きている。
 晩年のマルコスは健康問題を抱える中、事実上の終身執権を狙って86年の大統領選にも出馬したが、この時、組織的に行なわれた不正投票によりアキノ未亡人のコラソン・アキノ対立候補を破り、「当選」したことが国防省・軍部の一部の反乱、そしてこれを支持する民衆デモを誘発した。
 事態を収拾できなくなったマルコスは、後ろ盾のアメリカからも引導を渡される形でハワイへ脱出し、代わってアキノが大統領に就任した。こうして、フィリピン開発ファシズムは劇的な民衆革命によって終焉した。インドネシアより10年以上早い幕引きであったが、これはフィリピンに根付いていた民主主義のバネが働いたためであった。
 フィリピンの開発ファシズムは期間の相対的な短さ(72年戒厳令布告以降の14年間)、晩期における大統領の弱体化や極端な縁故政治などの諸事情から、インドネシアとは対照的に、持続的な成功を収めることなく終わったのである。

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戦後ファシズム史(連載第29回)

2016-04-11 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐3:インドネシアの「ゴルカル」体制
 インドネシアは、戦後の独立後、独立運動指導者スカルノ大統領による権威主義的な統治が20年近く続いたが、スカルノは民族主義、イスラーム主義、共産主義の三者を協調させるバランス政策を基調としていた。
 しかし、50年代後半以降、共産党が伸張し始めると、元来左派ナショナリズムの傾向を持っていたスカルノは、非党員ながら、共産党に軸足を置き始めた。結果として、外交政策上も反マレーシア、親東側路線が鮮明となった。
 そうした中、1965年、近代インドネシア史上の転換点となる大事変9・30事件が発生する。この事件の全貌は未だに不明ながら、通説的には共産党を支持する左派少壮軍人らがスカルノの下で革命政権を樹立する目的で企てたクーデター事件とされる。
 この時、軍部側で鎮圧の指揮に当たったのが、当時陸軍戦略予備軍司令官の地位にあったスハルト将軍であった。彼は配下の精鋭部隊を動員してクーデターを迅速に鎮圧するとともに、下克上的に軍内の実権を握った。直後から翌年にかけて、スハルトはクーデターの背後にあると目された共産党に対し、党員やシンパもろとも抹殺する徹底的な壊滅作戦に乗り出し、最大推計100万人に上る犠牲者を出す大虐殺を断行した。
 この一連の強権的な事変処理を主導したスハルトは、容共的なスカルノ大統領にも圧力をかけて徐々に実権を奪い、67年には辞任に追い込み、自ら大統領に就いた。以後、スハルトは98年の民衆デモで自らも辞任に追い込まれるまで、30年に及ぶ独裁体制を固守する。
 スハルト体制は、スハルトの出身母体である軍部を基盤としながらも、社会の末端まで張り巡らされたゴルカルと呼ばれる翼賛政治組織によって下支えされていた。ただ、ゴルカルの綱領的原則は、スカルノ時代の建国理念パンチャシラ(信仰・人道主義・統一・民主主義・社会的公正)に置かれ、真正のファシスト政党ではなかった。
 とはいえ、スハルト体制はスカルノ体制を転換する「新秩序」を掲げつつ、大統領の独裁的指導の下、反共親米路線に沿って政治的安定と経済開発を至上価値とする全体主義体制として、アジア的な開発ファシズムの最も長期的な成功例となった。それを支えたのはスハルトの共産党壊滅作戦にも協力し、最大の後ろ盾となった米国と、経済援助・投資を集中的に注ぎ込んだ日本である。
 こうして、スハルト体制下では恒常的な反体制派・民主化運動への弾圧を伴いつつ、急速な工業化と都市開発が進み、著しい経済発展を遂げることとなった。しかし、その裏ではスハルト一族を含む体制幹部層の不正蓄財・汚職が蔓延していった。
 スハルト大統領は、ゴルカルを通じた翼賛選挙により98年までに六選を重ねたが、前年のアジア通貨危機はインドネシア経済に打撃を与えた。有効な対策が打てない中、鬱積した国民の不満は恐怖支配を乗り越え、大規模な民衆デモに発展した。
 体制内からも辞任圧力が発せられるに及び、スハルトは同年5月、ハビビ副大統領に禅譲する形で大統領を辞任した。事実上の民主化移行政権となったハビビ政権下で、一定の民主化措置が矢継ぎ早に打ち出された結果、99年の総選挙では野党連合が勝利、野党系のワヒド大統領に交代して、ゴルカル体制は正式に終焉した。

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男の議会

2016-04-10 | 時評

日本の女性が参政権を初行使した衆院選から10日で70周年だそうである(気づかず)。しかし現在、日本の衆議院における女性議員は45人(2016年3月28日現在)、10パーセントにも満たない。

政党別に見ても、女性議員の比率が最も高い共産党にしてようやく28.6パーセントという状況はかなり寒い。共産党といえども、“男女共参”には遠いようだ。

列国議会同盟(IPU)が今年2月に発表した、日本の衆議院を含む世界の国会下院における女性議員比率ランキングでは191か国中156位で、経済協力開発機構(OECD)加盟34か国の中では最下位という(2016年4月10日付け東京新聞)。記事は「ミャンマーにも抜かれた」と付け加えている。

比率ランキングの上位にはアフリカや中南米、アジアなどの開発途上国がいくつもランクインしており、女性のエンパワメントに関する限り、日本はもはや「後進国」の分類である。

日本では一票の格差問題が以前から歴史的とも言える懸案であり、こうした地域的不均等も日本の議会制度をいびつなものとしているが、ジェンダー不均等はもっとひどい。有権者の男女比率はほぼ半々であるのに(総人口では女性のほうが多い)、国民代表の男女比が10:1を下回るのでは、男性の著しい過剰代表が生じていることになる。

日本の国会は人口の半分を過剰に代表する「男の議会」である。そのうえに著しい与野党間勢力格差と、いびつにいびつを重ねた不均等議会に仕上がっている。

「民主主義」の看板も下ろしたほうがいい。ともかくも総選挙を定期的に執行しておれば「民主主義」でござる、という形式民主主義の時代はとうに終わっているのだから。

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「女」の世界歴史(連載第18回)

2016-04-05 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

④女性スルターンの受難
 ムハンマド没後のイスラーム教団は預言者ムハンマドの代理人を意味するカリフを首長とする祭政一致共同体として発展をしていくが、初期には選挙で選ばれたカリフの適格条件として、男性であることが前提とされた。
 前回触れたように、ムハンマド存命中のイスラーム教団は女性の活躍・寄与が大きかったにもかかわらず、ムハンマド没後の教団はすみやかに女権排除体制として確立されていったのであった。従って、ウマイヤ朝以降、カリフが事実上の世襲君主化してからも、カリフ体制が続いた間、女性カリフというものは一人も輩出されなかった。
 他方、4代カリフのアリーから分岐したイスラームの第二勢力シーア派では、アリーを初代とするイマームを最高首長と仰ぐが、正統的なイマームはアリーとその妻で預言者ムハンマドの娘ファーティマ(生母はハディージャ)の子孫でなければならないとされる。その限りでファーティマの血統を規準とする母系的な発想をとるが、女性イマームは認めない。
 こうした女権排除体制に小さな風穴が開いたのは、カリフ体制が形骸化し、その下で西欧の皇帝に相当するスルターンが実権を握るようになってからである。特に、主にトルコ系の解放奴隷軍人マムルークが歴代スルターンを務めたマムルーク系王朝は、その実力主義的な風潮から女性スルターンを輩出した。
 その初例は、北インドに興ったデリー・マムルーク朝5代スルターンのラズィーヤである。彼女は、3代スルターンの父イルトゥトゥミシュから実力を認められ、後継指名されていたが、女性に反発する貴族や宗教者らの策動により、1236年の父の死に際し、兄のフィールーズ・シャーに後継の座を奪われた。
 しかし、スルターンとしては暗愚だったフィールーズ・シャーに対して各地で反乱が発生すると、ラズィーヤはこの機会を利用して民衆革命を煽動、1236年中にスルターン位を奪取した。父の指名があったとはいえ、ほぼ実力での即位である。
 ラズィーヤはスルターンの女性形スルターナで呼ばれることを拒否し、イスラーム女性の風紀である顔面の覆いもせず、男装で執務したと言われる。しかし、女性スルターンへの風当たりはなお強く、その治世は政情不安に満ちていた。
 治世末期には大規模な反乱が同時発生し、ラズィーヤ自ら鎮圧に向かうも、鎮圧軍中で反乱が発生し、ラズィーヤが拘束される中、貴族らはラズィーヤを廃位し、ラズィーヤの弟バフラーム・シャーを擁立した。ラズィーヤは反攻に出て、デリーに進軍するも敗れ、敗走途中農民の強盗に襲撃され、殺害された。
 1240年のラズィーヤの死から10年後、エジプトでシャジャル・アッ‐ドゥッルが本格的なマムルーク朝を創始した。バグダッドのアッバース朝カリフの後宮奴隷女官からエジプトに興ったクルド系アイユーブ朝7代スルターン・サーリフの正室に栄進した彼女は、夫の急死後、マムルーク軍団(バフリーヤ)を動員して十字軍を撃退する功績を上げた。
 その後、サーリフを継いだ義理の息子をクーデターにより殺害してアイユーブ朝を滅ぼし、1250年、マムルーク軍部の支持を得て自ら即位、マムルーク朝を樹立したのであった。シャジャル・アッ‐ドゥッルは「ムスリムの女王」を称するなど、ラズィーヤと異なり、自らの女性性を隠すことはしなかったようである。
 彼女は即位後、十字軍との戦後処理を手堅くこなしたが、女性君主に対する男性陣の反発に抗し切れず、マムルーク軍人アイバクと再婚したうえ、夫に譲位したのである。わずか3か月ほどの在位ではあったが、シャジャル・アッ‐ドゥッルはマムルーク朝の支配という中世イスラーム世界の新たな歴史を開いたのであった。
 しかし、再婚相手アイバクとは確執が深く、1257年に夫を暗殺する挙に出たが、直後、アイバク配下のマムルークによって報復、殺害された。
 彼女が夫を暗殺した動機は夫がモースルの領主の娘を妻に迎えようとしていたことを裏切りと感じたことにあるとされるが、一夫多妻制ではあり得ることであり、真の動機は高齢で政治的にも優柔だったアイバクを排除して自ら再登位することにあったのかもしれない。
 こうして、中世イスラーム世界では二人だけの希少な女性スルターンはともに悲劇的な最期を遂げている。ともに男性にひけをとらない政治手腕を備えていたが、実力主義的な風潮の強いマムルーク系王朝ですら、女権排除の策動を免れなかったのである。

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「女」の世界歴史(連載第17回)

2016-04-04 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

③イスラーム教と女性
 今日、女性差別の象徴のようにも受け取られるイスラームであるが、その出発点においては女性の活躍と寄与が見られた。中でも開祖ムハンマドの妻たちである。
 ムハンマドは記録上生涯に13人の妻を持ったが、最初の妻ハディージャはムハンマドよりも10歳以上年長の未亡人であり、夫の遺産を相続して自らラクダ隊商貿易を営むビジネスウーマンでもあった。早くに両親を亡くし、ハディージャの商業代理人として就職していたムハンマドのほうが富裕な妻から経済的に援助される側の「逆玉婚」であった。
 ムハンマドがイスラームを創唱したのも、ハディージャとの結婚後であり、彼女は最初のイスラーム信者となって、当初は迫害も受けた夫の教宣活動を支えたのであった。ムハンマドはこの元雇い主の年上妻には終生頭が上がらず、彼女が存命中は新たな妻を迎えようとしなかった。
 このように、ムハンマドの「逆玉」初婚は現代風の一夫一婦婚であり、一夫多妻が慣習の当時としては異例のものだったに違いない。このような婚姻はムハンマドの宗教活動を可能にする物心両面での基盤となったと同時に、ムハンマドにある種の女性コンプレクスを生じさせたかもしれない。
 その反動からか、ハディージャ没後のムハンマドは一転して多数の妻を持つようになるが、三人目の妻アーイシャはわずか6歳か7歳ほどで50歳を超えていたムハンマドに嫁いだとされる。初婚とは対照的な幼児婚であるが、これも当時のアラブ社会では政略婚の一種としてまま見られたようである。
 成長したアーイシャもムスリムとなり、発展するイスラーム教団を支え、反イスラーム勢力との戦闘に際しては、自らも夫に同行し戦場に出るという女傑的な性格もあった。彼女はムハンマド没後も、教団の精神的な支柱として発言力を保ち、対立する4代カリフのアリーと交戦した656年の「ラクダの戦い」では自らラクダに乗って出陣したとされる。この戦いに敗れたアーイシャは一線を退き、余生はムハンマドの言行を記録するハディースの伝承に努めることで、宗教としてのイスラームの確立にも貢献している。
 このように、初期イスラームにおいては女性の活躍と寄与が他宗教と比べても大きかったにもかかわらず、その後のイスラームが女性差別的な方向へ流れていくのは不可解とも言えるが、それにはいくつかの要因が想定される。
 一つには、イスラーム創唱以前のアラブ社会ではハディージャのように経済的に自立した富裕な女性も存在した一方で、女性を家畜のように相続・交換する慣習もあったとされ、イスラームはそうした悪習を正し、女性を人間として保護しようとしたことである。ムハンマドがハディージャ没後に迎えた多数の妻たちも、幼児婚のアーイシャを除き、寡婦だったと見られることから、彼の多妻婚には寡婦の救済という保護的な側面があったとも考えられる。
 もう一つは、砂漠という苛酷な環境を生活場としてきたアラブ民族における男性優位的な家父長制共同体構造の制約である。このような制約は、アラブ社会から発祥したイスラームも免れることはできなかったのであろう。
 第一の側面と第二の側面が合わさり、家父長制共同体での女性の保護となれば、それは夫への服従と家庭の奥への束縛と引き換えの「保護」という性格を強く帯びたはずである。

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