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近代革命の社会力学(連載第225回)

2021-04-21 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト革命

(5)スエズ危機の超克とアラブ社会主義の潮流
 ナーセル政権がスエズ運河国有化措置を打ち出すまでには、複雑な国際的力学も働いている。ナーセルは当初、革命が成立して間もない中国やインドネシアなどの新興アジア諸国とも連携して、東西冷戦構造の中、非同盟諸国運動の指導者として国際社会に台頭しようとした。
 しかし、シナイ半島にイスラエルが隣接する地政学的事情から、軍備強化のため、当時親ソ東側陣営にあった社会主義のチェコスロヴァキアから兵器を購入し、ソ連とも交渉を開始したことが西側の逆鱗に触れ、特に経済開発の柱と位置づけていた世界銀行によるアスワン・ハイ・ダムの建設資金の融資計画が英米の画策により撤回されたことは打撃となった。
 そこで、ナーセル政権は1956年7月、電撃的にスエズ運河の国有化計画を発表した。この事前交渉なしの一方的な宣言は、革命に際して介入を控え、これを黙認していたイギリスを反発させた。そこで、イギリスは運河の実質的な共同管理者であるフランスにも働きかけ、戦争準備を開始する。
 当時、1952年に始まった北アフリカにおけるフランス最大の植民地アルジェリアの独立運動(革命)のスポンサーをナーセル政権とみなしていたフランスは、これを政権打倒の好機と打算して賛同した。
 他方、英仏は、革命に乗じてエジプトを攻撃したことへの報復として当時ナーセル政権によって海上封鎖措置を発動され、経済的な苦境にあったイスラエルを勧誘する形で、対エジプト攻撃の三国共同態勢を作った。こうして、イスラエルが当事国となったことで、スエズ危機は単なる危機から中東戦争へと進展することになった。
 この戦争は1948年のイスラエル建国をめぐる第一次中東戦争以来の第二次中東戦争と位置づけられているが、その後も60年代及び70年代と節目ごとに第四次まで打ち続く中東戦争の中で、唯一、英仏の列強が直接参戦した戦争であった。
 同時に、ナーセル政権の打倒をも目標としていた点において、第二次中東戦争は時間的に遅れてきた反革命干渉戦争の性格をも帯びていた。むしろ、アラブ諸国対イスラエルの構図を軸とする中東戦争としてはいささか変則的であり、スエズ運河国有化にまで進んだエジプト革命を挫折させる反革命干渉戦争としての性格の方が濃厚であったと言えるかもしれない。
 56年10月のイスラエル軍部隊によるエジプト侵攻をもって開始された戦争は、英仏イスラエル三国が圧倒的に優勢であった。エジプトは11月には制空権を失い、英仏軍の上陸作戦も開始され、エジプトの敗戦は時間の問題と見られたが、ナーセル政権を擁護するソ連が軍事介入を示唆した。
 この際どいタイミングで米ソ両大国が歩み寄り、英仏の拒否権行使を押し切って、国際連合総会が停戦決議を採択した。冷戦真っ只中で対立する両大国が歩み寄ったのは、スエズ危機を引き金に第三次世界大戦が誘発されることを共に恐れたためでもあっただろう。同様の歩み寄りは、後年、キューバ革命後のキューバ危機に際しても、より緊迫した状況下で見られたところである。
 国連の歴史上も、同じ西側陣営内で英仏と米が明確に対立したのは、これが唯一のことであった。こうして、頼みのアメリカからはしごを外された英仏は停戦決議を受諾せざるを得なくなり、単独で戦争を続行するほどの余力のないイスラエルもこれに続いた。
 こうして、ナーセル政権は米ソ両大国の歩み寄りという状況を得て、軍事的な敗北目前で政治的には勝利し、念願のスエズ運河国有化も実現する運びとなった。東西の歩み寄りを引き出したこの結末は、非同盟諸国運動の趣旨に沿うとともに、アラブ社会主義の勝利の象徴でもあった。
 以後、アラブ民族主義とも深く結びついたアラブ社会主義は、独立戦争が進行中のアルジェリアを含めた北アフリカ諸地域から中東にかけてのアラブ世界全域に拡散し、1960年代にかけて、時代的な潮流を作ったと言える。ナーセルは、そのカリスマ的な象徴となった。


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