ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第60回)

2020-01-14 | 〆近代革命の社会力学

八 フランス・コミューン革命

(5)パリ・コミューンの権力構造と施策
 1871年の革命によって設立された革命的自治体パリ・コミューンは、近代革命史上でもユニークな構造を持っていた。それは、マルクスの要約によれば、「議会制ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた統治体」であった。つまり、コミューンは立法府と行政府を分離する立憲君主制やアメリカ的な権力分立の体制とは異なる構造のものであった。
 ただ、実際のところ、憲法に相当する基本法令も未定であり、コミューンの構造は流動的であったが、とりあえず執行委員会の下に執行、財務、軍事、司法、保安、食糧供給、労働・工業・交換、外務、公共事業、教育といった実務機関が設置され、それら行政各部を選挙で選ばれた代議員自身が主導する体制であった。
 大統領のような職は正式に設置されなかったが、名誉職的なコミューン総裁職には当時まだ獄中にあったルイ・オーギュスト・ブランキが選出された。コミューンはベルサイユに撤収したティエール中央政府と交渉し、ブランキの釈放を実現させたが、ブランキは政治活動を制限されたため、コミューンで実質的な役割を果たすことはなかった。
 結果として、コミューンは単独の指導者を欠き、集団指導制の強い合議体となり、このような権力構造は遠く半世紀後のロシア革命において、民衆の革命的代議機関として現れたソヴィエトの構想にも影響を及ぼした。
 なお、筆者の年来の提唱にかかる「民衆会議」も、立法と行政(さらに司法)を統合する総合的統治機関として、パリ・コミューンを一つの参照項として創案したものである。
 そうした意味で、パリ・コミューン自体は地方自治体の域にとどまったとはいえ、統治モデルとしては、君主を民選大統領に置き換えたようなアメリカ型の大統領共和制に対して、合議的な共和制という新しいモデルを示したとも言える。
 政策の面でも、信用と交換の組織、労働者の結社、無償の世俗的教育、集会と結社の権利、言論の絶対的な自由、女性参政権、自治体警察の創設、常備軍の廃止、その他地方自治組織の整備など、先行するどの革命よりも先進的な政策が包括的に打ち出された。
 問題は、コミューン内部が様々な党派の雑居状態にあることであった。その構成は前回見たが、第一インター派内部でさえ、老べレーのようなプルードン派と当時はまだマイナーだったマルクス派に分かれている状況であった。全体としてプルードン派が主導的であったが、中央政府との内戦が熾烈化するにつれ、行動主義的なブランキ派が台頭した。
 他方で、ベルサイユに陣取るティエール中央政府によるコミューン鎮圧作戦が開始され、内戦の様相を見せる中、執行権の強化を図るべく、補充選挙を経て新たに9の委員会がまとめられ、閣僚職が置かれた。さらには、検閲の導入など、当初の政策綱領に反する施策も戦時下で導入される。
 中央政府と対峙するうえで革命的独裁制の導入も検討され、ブランキ派の提案により18世紀フランス革命時のような公安委員会が設置された。けれども、恐怖政治の再現を恐れる第一インター派などの反対を押して設置された公安委員会は機能せず、所期の成果は得られないまま、コミューン内部の不和をさらけ出すことになった。
 一方、パリ奪取に際して重要な役割を担った国民衛兵団は、その位置づけや指揮命令系統も不明確なまま、中央政府との戦闘が不可避となる中、兵員増強か即時決戦かをめぐり対立が起き、一部強硬派によるクーデタ計画が露見するなど、コミューンは一気に政情不安に陥っていくのであった。
 革命政権内で政情不安が生じた場合の常として、内外敵に対する抑圧策が登場する。パリ・コミューンでも保安委員会の活動が強化され、改めて内部統制機関としての公安委員会が始動し、「内部の敵」に対する恣意的な検挙が多発する一方、「外部の敵」たる中央政府側人質に対する超法規的処刑のような恐怖政治の傾向が発現してくるのである。


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