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近代革命の社会力学(連載第41回)

2019-11-13 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(6)余波としての周辺革命・二次革命  
 第一次欧州連続革命は、1820年のスペイン立憲革命に始まり、ポルトガル立憲革命・内戦をはさみ、30年のフランス七月革命をもって終了すると一応言えるが、フランス七月革命の成功は、その後、いくつかの周辺国における革命を呼び起こした。これらの周辺革命も、広い意味では連続革命の余波とみなすことができる。
 その点、1820年から30年までの中間期に当たる1825年12月に帝政ロシアで発生したいわゆるデカブリストの乱は、必ずしも第一次欧州連続革命と連動するものではなく、ロシア独自の動向であり、しかも未然革命的段階で鎮圧されたが、立憲派将校が主体となった点、スペイン立憲革命との共通性もあり、間接的には連続革命の余波に数え得るだろう。  
 シャルボンヌリー党が重要な役割を果たしたフランス七月革命は、本家イタリアのカルボナリ党を再び触発し、息を吹き返したカルボナリ党は31年から翌年にかけて中部イタリアで蜂起した。しかし、またしてもオーストリア軍の介入を受け、失敗に終わった。  
 このカルボナリ党第二次革命の失敗は党の最終的な解体契機となったが、党員の中からは後にイタリア統一運動の指導者として名を残すことになるジュゼッペ・マッツィーニが輩出した。彼はイタリア統一を目的とする新団体「青年イタリア」を結成し、多くの旧カルボネリ党員を吸収した。
 一方、1830年8月には、当時ネーデルラント連合王国(オランダ)の南部地域(南ネーデルラント)の中心都市ブリュッセルで民衆蜂起が発生した。この民衆蜂起は立憲革命というよりは、ベルギー独立革命としての性格が強かった。南ネーデルラントはカトリックが優勢な地域であり、プロテスタント優勢の連合王国からの分離独立を宿願としていたからである。  
 この動きに対し、連合王国は武力鎮圧を図るも失敗し、ウィーン体制下の同盟諸国もベルギー独立を黙認するに至った。こうして独立したベルギーでは、当時の自由主義的な立憲君主制の範例となる先進的な憲法が成立したため、結果的には立憲革命としての意義を持つことにもなった。  
 このベルギー独立革命の反響は中東欧にも広がり、当時帝政ロシアの支配下にあったポーランド‐リトアニアで、1830年11月蜂起を誘発した。これは、士官学校生の決起を契機に、社会各層が参加するロシアからの独立革命に発展したものである。  
 この革命は、ポーランドのベテラン貴族政治家アダム・チャルトリスキを首班とする臨時国民政府の樹立を導き、いったんは成功したかに見えたが、当時、フランス七月革命やベルギー独立革命に武力干渉する構えすら見せていた帝政ロシアがポーランド独立を容赦するはずもなく、徹底した武力鎮圧で臨んだ。  
 その結果、翌年31年にかけてポーランド‐ロシア戦争が勃発するが、ポーランドはロシアの軍事力の前に敗北し、革命は失敗に終わった。この後、チャルトリスキを含め、大量のポーランド人がフランスへ亡命した。  
 さらに、フランスでも1832年6月に共和主義者の蜂起があった。これは七月革命で成立したルイ‐フィリップ王政のブルジョワ指向に対して不満を強めた共和主義勢力が、第二次革命を目指して蜂起したものであった。  
 その中心となったのはもはやシャルボンヌリー党ではなく、人権協会のような新興の共和主義団体であった。この団体はその名称にもかかわらず、シャルボンヌリー党を衣替えした後継団体のような地位にあり、思想的には18世紀フランス革命のジャコバン派の流れも汲んでいた。
 しかし、ルイ‐フィリップ王政の成立からまだ二年という時期での第二次蜂起は尚早であり、革命的な規模に拡大することなく暴動化し、政府側の武力鎮圧をもって収束した。この時期には、民衆も新たな動乱よりは安定を望んでいたのである。  
 こうして、第一次欧州連続革命はフランス七月革命とベルギー独立革命を除き、すべて未遂に終わった。その要因としては、革命を成功させるに当たり求心力のある理念を備えた革命遂行組織が未発達であったこと、一方では、オーストリアとロシアの軍事力に支えられたウィーン会議体制の反革命的作用が依然強力だったことが想定できる。


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