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近代革命の社会力学(連載第85回)

2020-03-24 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐1〉革命集団の台頭
 ロシアでは、第一次欧州連続革命の間接的な余波とも言える1825年のデカブリストの乱が拙劣な失敗に終わった後、大きな革命的動向は途絶えた。しかし、1861年に農奴解放を実行したアレクサンドル2世は歴代ロマノフ朝皇帝の中では最も改革的であり、限定的ながらも上からのリベラルな改革を断行した。
 そうして生まれた限定的な自由の風潮の中で、革命集団が形成された。最初に現れたのは、ナロードニキと呼ばれる農村社会主義的な革命集団であった。かれらは、農奴解放後も、貧農として地主貴族に搾取される農民大衆の中に飛び込み、貧農を扇動し、革命によって「土地と自由」という標語かつ結社名にも反映された農村共同体を基盤とする社会主義社会を建設することを夢想していた。
 しかし、夢想的知識人階級主体のナロードニキと、依然として皇帝崇拝が強く、ただよりよい暮らしを望むだけの農民階級の意識的ギャップは著しく、革命は進展しなかった。それでも、1877年にはナロードニキに感化された農民らと革命的な反乱を起こしたが、この拙劣な蜂起は直ちに鎮圧された。
 帝政側による弾圧が強まる中、より先鋭化したナロードニキ急進派は新たに「人民の意志」を結成した。この団体は、直接闘争と銘打って要人暗殺などテロ行動を通じて革命を遂行するという秘密結社の性格を持っていた。とりわけ、皇帝暗殺という壮大な陰謀を企てていた。
 この陰謀は、1881年、実際にアレクサンドル2世暗殺を成功させたのだったが、比較的リベラルで改革志向だった皇帝を排除したことは、かえって状況を悪くした。父帝を継いだアレクサンドル3世は、一転して抑圧的な専制政治に復帰したからである。「人民の意志」メンバーも検挙され、解体に追い込まれた。
 この後、1880年代以降、20世紀初頭にかけて、ロシアでも遅れて産業革命が勃興し、資本主義的工業化が進展すると、都市に労働者階級が誕生した。こうした社会の構造変化に合わせて、労働者階級を主体とする社会変革を構想する新しい知識人層の集団が出現する。1898年に結成された社会主義労働者党はその代表例であった。
 この党は西欧で浸透し始めていたマルクス主義を綱領とするロシア最初の社会主義政党であり、そこには後に1917年の革命で主役となる若きレーニンも参加していた。しかし、歴史の浅い小政党であり、しかも結党直後に当局の弾圧を受け、活動不能となるなど、結党時点では革命集団とは言えないものであったが、後の革命集団の萌芽ではあった。
 他方、ナロードニキの流れを汲むグループも、1901年に改めて社会革命党を結党した。この党は近代的な政党の形態を取っていたが、党内政党とも言える急進派の社会革命党戦闘団は、旧「人民の意志」の路線を継承し、再び要人暗殺のようなテロ活動を展開した。
 こうして、ロシア第一次革命前夜にはナロードニキ系の社会革命党が革命集団の前衛として派手な立ち回りを演じており、マルクス主義系の社会民主労働者党はまだ言論活動を中心とした思想運動団体の域を出ない状態であった。そして、帝政側も強大な秘密警察組織を保持し、革命運動の監視と抑圧に努めていた。


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