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近代革命の社会力学(連載第34回)

2019-10-29 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(5)帝政とその崩壊  
 ハイチ革命は、本国のフランス革命と完全に連動していたわけではなかったが、刻々と揺れ動くフランス革命のプロセスの影響は受けざるを得なかった。特にナポレオンの権力掌握とその反動化政策は、ハイチ革命にとっても大きな分岐点となる。  革命を収束させてハイチ暫定自治体制の総督に就任していたトゥーサン・ルーヴェルチュールは、当初ナポレオンに忠誠を誓い、ナポレオンもいったんはトゥーサンの地位を承認したのであるが、ナポレオンは奴隷制の復活を目論み、元来収益力が高かった海外植民地サン‐ドマングの奪回を計画した。  
 そこで、ナポレオンは1801年、妹の夫である軍人シャルル・ルクレールを司令官とする遠征軍を送り込み、サン‐ドマング占領作戦を開始した。これに対して、自治政府側は対抗できず、トゥーサンは奴隷制廃止の維持を条件に引退を申し出るが、懐疑的なルクレールはトゥーサンを捕らえ、フランスに送還した。  
 ジュラ山脈の要塞監獄に投獄されたトゥーサンは、すでに60歳を超えていたと見られる年齢に加え、寒冷な気候と拷問により獄死してしまう。こうして、ハイチ革命はナポレオンの反動政策のために、再び振り出しに戻ってしまった。  
 この危機を救ったのは、黒人奴隷出自でトゥーサン配下の将軍だったジャン‐ジャック・デサリーヌである。デサリーヌは革命が生み出した複雑な人物であり、その立場を情勢によって変更する機会主義者でもあった。
 彼は当初トゥーサンの指導する革命軍で名将として頭角を現したが、フランス遠征軍が侵攻してくると、フランス軍が連携していたムラート勢力に寝返ってしまった。このことがトゥーサンの暫定自治政府崩壊につながった。  
 しかし、フランスが奴隷制復活の動きを見せると、デサリーヌがムラートと共同の革命軍を再組織てフランス軍に対して反撃し、1803年末までにフランス軍を打ち破り、自治を回復したのである。そればかりでなく、新指導者デサリーヌのもとで今度は完全な独立を宣言した。ハイチ(アイティ)の国名も、この時に付せられた。
 問題は、独立ハイチの政体である。デサリーヌは当初、トゥーサンにならい終身総督を名乗ったが、野心家の彼はこれに満足せず、ナポレオンを真似て皇帝即位を宣言し、帝政を導入した。こうして、ハイチ革命は完全な共和制を経ることなく、帝政に収斂したのである。  
 1805年の帝政憲法は、奴隷制復活を阻止するため、白人の土地所有を禁止するのみならず、人種差別を終わらせるため、帝国民を黒人に限り、白人の公民権を原則的に認めないという強硬な内容であった。例外はナポレオンの遠征軍に編入・派遣されながら、黒人の革命軍に共感して寝返り、永住を望んだポーランド兵たちであった。  
 そうした「革命功労白人」という稀有の例外はあったものの、デサリーヌ帝政は、総体として、白人やムラートへの差別という「逆差別」を生み出す矛盾を抱え込んだのである。  
 憲法的排除に先立ち、皇帝即位前のデサリーヌは、白人を大量処刑する民族浄化政策をも実行していた。これはロベスピエールのように内部の敵を粛清することは異なり、旧支配層への報復という形ではあるが、やはり恐怖政治の一種であった。  
 社会経済政策的には、奴隷制を廃止しつつ、新生独立国家の経済的土台を支えるため、プランテーションの再編を試み、一般の黒人たちに兵士か農業労働者のいずれかの選択を迫る農業軍国主義と評される新政策を推進した。この施策は、奴隷制とは異なるが、農業労働者の境遇は奴隷に近く、別の形での奴隷制の復活に等しい面もあった。
 しかし、こうしたジャック1世の強権的な統治には、不満が高まる。特に逆差別的な黒人至上主義には、彼の権力掌握に協力したムラート層が反発した。この反発エネルギーは1806年、ジャック1世暗殺の陰謀に結実した。彼の死により、帝政はわずか二年で崩壊する。


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