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近代革命の社会力学(連載第262回)

2021-07-14 | 〆近代革命の社会力学

三十八 アフリカ諸国革命Ⅰ

(4)ウガンダ革命

〈4‐2〉社会主義革命とその挫折
 1963年以降、君主制内包共和国という異例の形に収斂したウガンダであったが、これは前回見たとおり、ムテサ2世を中心とするブガンダ王室及び王党派(カバカ)とオボテ首相のウガンダ人民会議(UPC)の双方の思惑による妥協の結果であったため、初めから分裂含みの脆弱な体制であった。
 特にオボテはウガンダでは少数派のランゴ族出自のうえ、社会主義者でもあり、ブガンダ王室及び王党派とは出自的にもイデオロギー的にも相容れない立場であった。両者の最初の衝突は、新体制発足翌年の1964年に早くも顕在化した。
 この年、当時ブガンダ王国領に属していたウガンダ西部の二つの郡を元の帰属である別の内包王国ブニョロに返還するかどうかをめぐる住民投票が行われた結果、返還支持が多数を占め、両郡の返還が決まった。この住民投票はムテサ2世の意思に反して強行されたことから、カバカとUPCの連立が崩壊した。
 しかし、より決定的な衝突は1966年に勃発する。この年、オボテが当時側近だったイディ・アミン陸軍司令官と共謀して金の密輸に関与しているとの疑惑が持ち上がったのに対し、UPC党内からもオボテへの辞任圧力が強まると、オボテは党内の反オボテ派幹部を拘束したうえ、連邦憲法の停止とムテサ2世に代わり自らの大統領就任を発表した。
 対抗上、ブガンダ王国自治議会は、ウガンダ連邦からの離脱とブガンダ領内に置かれた首都カンパラからの連邦政府の退去要求を議決した。ここに至り、ムテサ2世とオボテの対立は頂点に達したが、オボテはアミンに命じてブガンダ王宮を襲撃させ、ムテサ2世を亡命に追い込んだ。
 この後、翌年の新憲法により、ブガンダをはじめ、内包王国のすべてが廃止され、単一の共和国に再編されることとなった。こうして1966年の政変は共和国の全内包王国の廃止を結果したため、変則的ながら、一種の共和革命の性格を持つことになった。しかし、それだけにとどまらず、この革命は間もなく社会主義革命としての性格も帯びることになる。
 オボテは非常事態下での強権発動により政敵の排除に成功した後、1969年に「大衆憲章」と題された教条文書を公表した。これは「左への運動」というスローガンにまとめられるオボテの社会主義綱領であり、同年に早速立法化された。
 オボテの社会主義政策の核心はウガンダ主要産業の国営化という点にあったが、同時に、それはウガンダ経済を握っていたインド系商人の権益の排除をも示唆していた。実際のところ、オボテの社会主義政策は曖昧な理念によった大雑把な構想にすぎず、具体性を欠き、かえって腐敗を招いた。また、食料不足やインド系商人の迫害も一因となった物価上昇を引き起こし、国民生活は明らかに悪化した。
 一方、外交政策の面で、オボテはアフリカ民族主義を強く打ち出し、人種隔離政策を採る南アフリカ白人支配体制に反対し、同国に武器を輸出する旧宗主国イギリスと対立、また南スーダン民族紛争をめぐっても、当時ウガンダの軍と警察の訓練を担当していたイスラエルの意に反して、南スーダン反政府勢力への支持を撤回するなど、援助国との亀裂が深まっていた。
 そうした中、オボテとアミンの間でも確執が高まる。アミンは共和革命時の功績により一時は全軍の総司令官に昇進していたが、オボテが反対した南スーダン民族紛争への関与などをめぐり不和となっていたところ、アミンが軍資金の横領を理由に検挙されかかると、彼は1971年、オボテの外遊中を狙ってクーデターを起こし、政権を奪取した。
 このクーデターの背後にはイギリスやイスラエルが伏在していたと見られ、当初アミンの軍事政権は西側からも歓迎された。アミンはそうした期待に応えて、オボテが推進していた社会主義政策を取り消したため、社会主義革命は結局、ほとんど具体的な成果を上げることなく、挫折することとなった。
 この後、1979年まで政権を維持したアミンは間もなくそのファシスト的な本性を露にし、虐殺を含む極端な恐怖政治とインド系を中心としたアジア系国民への迫害を展開することになる一方(拙稿参照)、タンザニアへ亡命したオボテは復権を目指して活動を続け、タンザニア軍の侵攻によるアミン政権崩壊後の1980年に復権を果たすことになる。


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