ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第141回)

2020-08-31 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(4)ドイツ‐オーストリア臨時政府の展開
 社会民主労働者党を中心とする革命勢力は、ドイツ革命に先立つ1918年10月30日、従前の国家評議会を正式に臨時政府に格上げした。首班は、社労党のカール・レンナーであった。引き続き、カトリック保守主義のキリスト教社会党との大連立であったから、この時点では、さしあたりブルジョワ民主化を推進することが目指された。
 一方、皇帝カール1世側も、11月3日に取り急ぎ連合国との休戦協定の締結に動きつつ、同日には前回見た連邦国家への移行を宣言して、帝国の解体を阻止しようと躍起になっていた。しかし、休戦協定を契機に帝国軍が解体を始め、これに代わって、労働者から動員された人民防衛軍が組織され、臨時政府の武力組織となりつつあった。
 皇帝にとって致命的な出来事は、外部で生じた。それは、11月9日、隣国ドイツにおける革命の結果として、皇帝ヴィルヘルム2世が退位したことである。これを機に、社労党がカールにも退位を要求、本来は王党派であった連立相手キリスト教社会党も、これに同調したのである。
 カールは曖昧な文言でしたためられた「国事不関与」の声明文に署名したものの、退位は拒否していたところ、1919年1月、レンナー首相から「国外避難」を要求され、イギリスの介入的仲介もあり、3月末にようやく最初の亡命先スイスへ向け、出国した。最後まで退位を明言しなかったカールに対し、臨時政府はハプスブルグ家の資産を没収する法律(ハプスブルグ法)で応じた。
 こうして、オーストリア革命は、全体として無血平和革命でありながら、カールの王権への執着の強さゆえに、帝政打倒・共和革命という点では、隣国ドイツよりも厳しいものとなり、ハプスブルグ家の支配が経済的にも完全に排除される結果となった。
 これに先立ち、臨時政府は、カールの国政不関与声明を受け、暫定憲法を発布していたが、この暫定憲法には、ドイツ系オーストリア(ドイツ‐オーストリア)を新生ドイツ共和国に合併するという統合構想が含まれていた。
 これが実現していれば、オーストリア革命とドイツ革命は合流・収斂し、オーストリアを包摂した統一ドイツ共和国が誕生したはずだが、大ドイツの出現につながるこの統合構想は連合国が拒絶し、ドイツ側もこの構想に消極的だったため、最終的には頓挫する。
 他方、1919年に入ると、隣国ドイツでの急進派の蜂起に触発され、オーストリアでも労働者評議会(レーテ)の運動が活発化してきた。これに対し、同年2月の制憲議会選挙で第一党の座を得て臨時政府を主導する社労党は、穏健なキリスト教社会党との連立関係を維持しつつ、レーテを体制内に取り込む微妙なかじ取りを迫られた。
 その点、「議会制の下での社会主義」を掲げる社労党が採用した目玉政策が、民営企業を国民所有へ移行する「社会化」である。この目的のために社会化準備法を制定し、同法に基づく社会化委員会を設置、委員長にはレンナーと並ぶ社労党の理論的指導者でもあった外相オットー・バウアーが就いた。
 かくして、ドイツ‐オーストリア共和国臨時政府はドイツとの統合を視野に入れつつ、さしあたり、社会化政策を独自に追求することになる。このような展開は、ロシア革命ともドイツ革命とも異なる、まさにオーストリア革命独自のものであり、その成否は、武装革命に代わる平和革命の方法としても、大いに注目されるところであった。

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戦犯亡霊政権の約8年

2020-08-30 | 時評

史上最長記録を更新した安倍政権が、―とりあえず―終了する運びとなった。思えば、政権が塗り替えた前の最長記録保持者は、安倍氏の大叔父に当たる1964年‐72年の佐藤栄作首相であったが、佐藤政権と言えば、その時代に進展した「高度経済成長」と「沖縄返還」がキーワードである。

では、新記録達成の安倍政権のキーワードは? 政権が悲願としていた改憲は未実現であったし、その余の具体的な実績もすぐには浮かんでこない。そのため、安倍政権は長いだけで何も成果がないという辛辣評価も見られる。しかし、この政権の歴史的な意義は、成果よりもまさに長さにあったと言える。

周知のとおり、安倍氏はかつて第二次大戦のA級戦犯容疑者(不起訴)だった岸信介の孫に当たる。岸は公職復帰した戦後、第56代及び57代首相として、日米安保条約改定を断行して現行の従米保守体制の基礎を築き、“昭和の妖怪”の異名を取った人物である。同時に、侵略戦争を擁護し、東京裁判の意義を否定していた岸は当然にも改憲に熱心で、逆走の戦後史を象徴する人物でもあった。

大戦の戦犯容疑者が戦後、首相に登るということも、諸国に例を見ない異常事だったが、そのような人物を敬愛し、遺志を継ぐ孫が国民の安定的な支持を得て史上最長期政権の主となったということも、心ある者にとってはある種の衝撃である。安倍政権は、その長さによって、戦後の復古主義の一時代を作ったと言えるのである。戦犯の亡霊が徘徊した約8年━。 

それにしても、歴代短命政権が多い日本で、何故にかくも長く安倍政権が持続したのかという問題は、それ自体相応の頁数を要する考察に値するだろうが、仮説的要因としては、自民党が結党以来初めて総選挙で惨敗、下野した後の奪回政権であったこと、また如上のような復古主義政権ゆえに、ある種のカルト的支持基盤を持つ政権であったことなどが考えられる。

政権応援団の復古主義者らにとっては、夢の8年だったろう。数か月前までは永遠に続くかの勢いだったのに、外から持ち込まれたウイルス禍のせいで心労から首相の健康状態が悪化したとして、突然終了したのは、さぞ無念に相違ない。しかも、約8年をもってしても、宿願の改憲は未着手、いわゆる北方領土や拉致といった外交懸案も未解決、花道のはずだった東京五輪はパンデミックで延期・・・と散々である。

にもかかわらず、安倍政権の約8年が、逆走の戦後史を確定させたことは確実である。今や、逆走に明確に反対する勢力も個人も風前の灯火、いずれ絶滅するだろう。見えない圧力によるメディア統制も常態化し、無難な話題ばかりを追い、政権の外交基軸でもある「制韓」政策に沿う情報満載のニュース報道・論説は、検閲された国営メディアのそれと大差ない。

次期政権が外観上復古色を薄めたとしても、復古主義の基本線は変わらないだろう。それどころか、長期政権の後に短命政権が続くという古今東西の政治的経験則からすると、後継政権が短命に終わり、体調を回復した安倍氏が来年以降、首相に再度復帰することもあり得るだろう。

近い将来の「第三回安倍政権」の可能性を想定すれば、戦犯亡霊政権は終焉したのではなく、復活待機状態に入ったにすぎないと受け止めなければなるまい。この国の逆走は、悲願の改憲が成るまで続くだろう。そのためにも、改憲派野党に近い人物が暫定的な後継者となるに違いない。


[付記]
本稿の論旨から外れるため、本文での詳論は避けたが、祖父(岸)、大叔父(佐藤)、孫(安倍)の同族三者がそろって首相経験者などという“民主主義”が何処にあろう。このような貴族政に近い同族門閥政治の風習は、日本人の多くが信じている民主主義が包装だけのものに過ぎないことを裏書きする。

[追記]
安倍後継菅内閣の防衛大臣に、安倍氏実弟の岸信夫氏(衆議院議員)の就任が決まった。同族政治極まれりである。

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為政者と健康情報

2020-08-29 | 時評

権力政治における為政者は様々な秘密を抱えているが、中でも最も秘匿したいのは健康情報である。もちろん、壮健さではなく、病気に関わる情報である。とりわけ、生命に関わる病気をひた隠すことが多いのは、そうした情報が発覚すれば、直ちに政敵や対立勢力が蠕動を始めるからである。

そのため、権力政治家にとっての健康情報は単なる個人情報を越えて、事実上の国家機密とみなされる。為政者が病気で執務不能となったり、果ては死亡しても、その事実を秘匿して代行権者が代理したり、影武者を使って健在を偽装するという古典的手法もある。

しかし、こうした健康情報の秘匿は、権力政治の術策ではあっても、民主的とは言い難い。反面、為政者の健康情報がどの程度開示されるかは、民主主義のバロメーターの一つに数えてよいかもしれない。その点、先日、辞意を表明した安倍首相は、かねてより自身が難病を抱えていることを公表してきた限りでは評価できる部分がなくはない。

とはいえ、この人の場合、十数年前の第一回政権当時から、政権継続の意を表明/示唆した直後に突然辞意表明するというやり方を繰り返している。これは意図的な戦術なのか、それとも突然気が変わるのか、あるいは本人には留任の意思がありながら、第三者の介入で辞意表明させられているのか、外部からは窺い知れない。

戦術とすれば、いったんは留任すると思わせて突然辞任すれば、次期党首の座を狙う党内ライバルや政権奪回を目指す野党にとっては不意打ちとなり、選挙対策等が準備不足となることから、自身の「意中」の後継者を立てやすくなるというメリットを得られる。

安倍氏がそのような戦術として自身の難病情報を利用しているとすれば、かなりの策士ということになるだろう。本来なら政治的弱点となるはずのマイナス情報を逆手利用して、権力政治を有利に乗り切ろうとしていることになるからである。

ここでは憶測による断定は避けるが、為政者の健康情報というものは、秘匿するにせよ、逆手利用するにせよ、これを権力政治の道具とすることは非民主的であり、為政者の健康情報が適正な形で開示されることは民主主義の要諦である。

その点、アメリカには大統領医務官(Physician to the President)という公式の役職がある。大統領医務官は、大統領府医務室(White House Medical Unit)の長でもあり、大統領の健康管理全般を担い、大統領の健康状態について適宜に会見をし、公表する役割も担っている。

もちろん、大統領医務官も私的な主治医ではなく、大統領府の一員であるからには政治性を免れず、すべての情報を正確に開示するとは限らないが、公式の医務職であるから、彼/彼女が正当に職務を果たす限り、大統領の健康情報が透明化される意義は大きいであろう。

君主に近い国家元首であるがゆえに宮廷侍医に匹敵する専属医務官を擁するアメリカ大統領と、政府首班ではあれ、天皇に任命される行政府の長にすぎない日本の内閣総理大臣では立場が異なるだろうが、最高位為政者の健康情報の透明化という点では、参照に値する制度と思われる。

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近代革命の社会力学(連載第140回)

2020-08-28 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(3)多民族帝国の解体
 オーストリア帝国を解体する革命の開始契機は、第一次大戦渦中における労働者の大規模なゼネストであった。参加者数50万人超とされたこのゼネストは当時欧州最大規模であり、まさにローザ・ルクセンブルクが待望したように、自然発生的なゼネストによる革命の始動であった。
 従前のオーストリア帝国は、1914年に当時のフランツ‐フェルディナンド皇太子がサラエボで暗殺された事件を直接の引き金としていたことからしても、まさに大戦の最重要当事国の立場にあって、隣国ドイツ帝国とともに同盟国側で参戦していた。
 そのため、戦時中は議会も停止し、皇帝大権による戦時専制という極端な戦時総動員体制が採られていた。この「戦時専制」の下では、社会民主労働者党も戦争協力方針を採り、国内は一致団結しているように見えた。
 しかし、戦況は同盟国側に不利となる一方、総力戦による経済の疲弊と生活の窮乏が深刻化し、国民の我慢が限界に達したことが空前のゼネストとなって噴出したのであった。このような展開は、ほぼ同時代のロシア、ドイツの革命とも同様の経過である。
 オーストリアにおける革命の展開が他と異なっていたのは、人工的な多民族帝国というオーストリアの特殊変数を反映して、ゼネストが、ハンガリー人をはじめ、支配下諸民族の分離独立運動の触媒となったことである。
 その点、帝国の維持を前提に、民族自治体に立脚した連邦国家という構想を提示していたオーストリア社会民主労働者党が方針を急転し、帝国の解体とドイツ系を含む主要民族の独立を勧奨する方針を採択したことは、革命の正式な合図となった。
 これを受けて、1918年10月21日には、ドイツ系議員が社労党とカトリック保守主義のキリスト教社会党が大同団結する形で国家評議会をウィーンにて樹立した。この時点では、皇帝と帝国政府はいまだ存続していたため、評議会は革命的対抗政府の形態であった。
 これを皮切りに、10月28日から末日にかけて、同君連合を組むハンガリーが帝国から離脱していった(アスター革命)のに続き、チェコ、ポーランド、南スラブ(クロアチア・スロヴェニア)も独立し、帝国はあっけなく解体したのである。
 この間、大戦中の1916年に即位したばかりの若い皇帝カール1世も、手をこまねいていたわけではなかった。1918年10月12日には、支配下全民族の議員から成る「諸民族内閣」の発足を命じたが、特に帝国への不満の強かったチェコ人や南スラブ人などスラブ系からは参加を拒否され、あえなく挫折した。
 続いて、カールは「全民族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家」への移行を宣言する。これは、かねて社労党が提唱していた新国家構想に遅ればせながら合流する新方針であったが、もはや遅きに失しており、帝国解体の流れを食い止められない段階に来ていたばかりか、自身の帝位すらも危うくなっていたのである。

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近代革命の社会力学(連載第139回)

2020-08-26 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(2)オーストリア社労党の独自路線 
 オーストリア革命において中心的な役割を果たしたのは、オーストリア社会民主労働者党(以下、「オーストリア社労党」または単に「社労党」という)であった。オーストリア社労党は、ドイツの社会主義労働者党の影響の下、19世紀末に結成されたオーストリアにおける社会主義政党の先駆けである。
 そのため、結党時からドイツのラッサ―ルの影響が強く、議会への進出を優先する穏健な傾向性を帯びていた。実際、1897年の選挙で帝国議会に初めて議席を獲得して以来、20世紀初頭には議会で躍進し、全国政党として確立されていった点で、ドイツのカウンターパートとなる社会民主党と同様の軌跡をたどった。
 しかし、イデオロギー面で、オーストリア社労党はドイツ社民党とも異なる独自路線を採った。それは、1899年に党が採択した「ブリュン綱領」に表れている。同綱領は、一名「ブリュン民族綱領」とも称されるように、オーストリア帝国において機微な問題であった民族問題に関する党の路線を示したものである。
 それは、オーストリアを民族自治に立脚した多民族連邦国家へ変革することを要求するもので、具体的には、ドイツ人・ハンガリー人・チェコ人・ポーランド人・イタリア人・南スラブ人という主要六民族の自治のうえに、諸民族の連邦国家を築くという構想であった。
 このように、労働者階級政党として発足したオーストリア社労党が、労働問題の前に民族問題を置くという路線に赴いたのも、党自身が民族別に構成された連合政党の性格を持っており、党内の民族対立という問題を抱えていたことが反映されている。実際、1911年に、かねてより独立性の強かった党内チェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として自立するに至ったことは、来る帝国それ自体の民族別解体を予示するような事態であった。
 オーストリア社労党のイデオロギー面での独自路線を支えていたのは、「オーストロ・マルクス主義」と総称されるオーストリア独自の思潮であった。この思潮は、ドイツ社民党が傾斜していた穏健な改革主義路線とロシアのボリシェヴィキが体現する急進的革命主義の狭間に立って、民族問題というオーストリア固有の問題に取り組む見地から、議会制度の下での社会主義の実現という新しい方向性を示した。
 この思潮の理論的指導者の中でも、カール・レンナーは政治家としても手腕を発揮し、革命直後の第一共和国初代首相(後に、第二次大戦後の臨時首相・第二共和国初代大統領)として、革命政権を主導したことで、「オーストロ・マルクス主義」はオーストリア革命の中心的な理念となった。
 「オーストロ・マルクス主義」内部にも理論的な対立がないわけではなかったが、ロシアやドイツのカウンターパートのように、党が完全に分裂するほどの対立関係はなく、比較的急進的で労働者評議会を指導したフリードリヒ・アドラーのような人物も、ドイツのスパルタクス団→共産党のような革命的蜂起を志向することはなかった。
 ちなみに、オーストリアでもロシアのボリシェヴィキに呼応する共産党が結党され、革命直後の1918年11月にクーデターを起こしたが、これは準備不足かつボリシェヴィキの承認と支援も受けない拙速な蜂起であったため、いとも簡単に鎮圧され、その後も共産党が影響力を持つことはなかった。

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近代革命の社会力学(連載第138回)

2020-08-24 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(1)概観
 第一次世界大戦は、欧州のいくつかの大帝国に革命の波を引き起こしたが、ハプスブルク家が支配していたオーストリア‐ハンガリー帝国(以下、単にオーストリア帝国という)における革命も、前回まで見たドイツ革命と並び、その重要な一つである。
 ドイツとオーストリアにおける隣国同士の革命はほぼ共時的に発生・進行し、ドイツへの統合構想を通じて交差関係にあったことから、その展開にも共通点は多く、両者は双生関係にある事象と言ってもよい。特に穏健な社会民主党(オーストリア社会民主労働者党)が革命過程を主導し、急進派が前面に出ることがなかった点は重要な共通項である。
 とはいえ、オーストリア社会民主労働者党は「議会制の下での社会主義の実現」というテーゼを掲げ、実際、議会制の枠内で企業の国民的所有への移管を含む「社会化」を推進しようとするなど、ドイツのカウンターパートである社会民主党よりも、野心的であった。
 一方、オーストリア革命の過程でも急進的なレーテ、すなわち兵士評議会や労働者評議会が現れたが、ドイツのそれに比べれば穏当かつ非対抗的であり、社会民主労働者党とは緊密な協調関係にあった。
 しかし、不幸な共通点もある。それは、上掲の「社会化」に失敗した社会民主労働者党が早期に政権を離脱すると、革命過程は収束し、以後は保守的転回が起こることである。最終的には、ナチスドイツの第三帝国に併合され、ナチスの支配に下ることとなった。
 一方、ドイツ革命とは、相違点も多い。まず、オーストリア帝国は皇室ハプルブルク家を頂点にドイツ系を支配層としながらも、支配下にハンガリー人をはじめ、多数の非ドイツ系諸民族を従属させていたことから、帝国における革命は諸民族の分離独立の契機となり、最終的に帝国の分解に帰着したことである。その点、ドイツ系小邦だけで構成されていたドイツが、革命後も連邦共和制の下に統一を維持したのとは大きく異なる。
 さらに、帝国分解の過程で、同君連合を形成していたハンガリーでは共産党による二次革命が勃発し、短命ながら、革命体制としてハンガリー・ソヴィエト共和国が樹立されたことである。このハンガリー革命については、オーストリア革命の副次的革命として、後に分岐章を設けて見ることにする。
 オーストリア革命のもう一つの特徴として、それはロシア革命はもちろん、ドイツ革命に比してもはるかに穏当な展開を見せ、平和革命の事例に数えられることである。平和革命を可能にした要因として、元来、オーストリア帝国が人工的に作られた多民族国家だったこともあろう。
 そうした特殊性を踏まえても、オーストリア革命は君主制を打倒する共和革命の歴史において新たなページを開いたと言ってよく、また革命全体の歴史においても、非暴力平和革命の先例として参照すべき特徴を備えていると言える。

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比較:影の警察国家(連載第9回)

2020-08-23 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐2‐2:税関・入国警備庁と移民・関税執行庁

 9.11事件を契機に新設された国土保安省の最大任務はテロリズム対策、中でも海外からのテロ攻撃の防止に置かれている。そのために、入国管理に関わる業務に最大の重点が置かれている。そうした中核業務を担うのが、合衆国税関・入国警備庁(United States Customs and Border Protection)と合衆国移民・関税執行庁(United States Immigration and Customs Enforcement)である。
 税関・入国警備庁は、まさに物と人の出入りを規制する窓口となる部門であり、人員規模では国土保安省における最大部門である。その人員の三分の一は、管轄下にある2万人規模の合衆国国境警備隊(United States Border Patrol)が占めている。国境警備隊は言わば国境警察であり、その人員の大半は南のメキシコ国境に配置されている。
 国境警備隊は、その任務の特性からも軍隊並みの装備を擁するため、軍警察的な性格を持ち、しばしば過剰な武力の行使による死傷事案など、人権侵害案件も多い(一方で、隊員の殉職者も多い)。メキシコ国境では、麻薬の密輸阻止も重要任務であるため、麻薬警察的な役割も一部担っている。
 これに対し、移民・関税執行庁は、入国した移民の管理を主任務とする部門であり、人員規模では税関・入国警備庁には及ばないが、国土保安省における中核的な捜査・諜報機関である。
 元来、移民に関する業務は司法省の移民・帰化局が統括していたが、その機能を国土保安省に移管した経緯がある。このような新政策は元来、法権利の問題と考えられ、それゆえに司法省が扱っていた移民問題が国家保安問題に包括されたことを意味しており、アメリカの警察国家化を象徴するものと言えるだろう。
 ICEの略称で知られる移民・関税執行庁の中心業務は、いわゆる不法滞在者(未登録移民)の摘発と強制送還である。ICEの不法滞在者摘発業務はその性質上、周辺者の密告によることも多いため、秘密警察的な性格を帯びることとなり、未登録移民にとって、ICEはナチスの秘密国家警察ゲシュタポにも似た恐怖を呼び起こす警察機関である。
 その点、2009年発足のオバマ政権は、その任期中、どの歴代政権よりも多い300万人の移民を強制送還したため、批判者からは「最高強制送還者」(Deporter-In-Chief)と揶揄されたほどであった。続くトランプ政権下は移民制限政策をより徹底したため、ICEの執行は強権性を増しており、国境地帯で移民申請者の親から幼児を引きはがして拘禁する方法が強い批判を浴びた。
 一方、ICEには国土保安捜査局(Homeland Security Investigations:HSI)も設置されている。HSIは1万人を超える職員(特別捜査官7000人超)と海外拠点をも擁し、現時点ではFBIに次ぐ連邦法執行機関に成長している。
 その捜査範囲はアメリカの国土保安にかかわる400以上の米国法違反に及び、FBI等の既存連邦法執行機関の権限とかなり重複する広域にわたっており、国土保安省固有の捜査部門と言ってよいものである。言わば、第二のFBIの出現であり、これにより、アメリカの連邦レベルでの警察国家化が進行している。
 いずれにせよ、入国管理に関わる税関・入国警備庁と移民・関税執行庁は、オバマ→トランプ政権の下、国土保安省の設立趣旨であるテロリズム防止という特定目的から離れ、全般的な保安を任務とするようになり、その点で、影の警察国家化の主役の一つとなっている。

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近代革命の社会力学(連載第137回)

2020-08-21 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(7)ワイマール共和国の保守的転回
 1918年11月に発したドイツ革命は、翌19年5月、バイエルン革命が鎮圧された時点でひとまず収斂し、エーベルト初代大統領を中心とする新体制が正式に始動するが、その後も革命の余波は続いていく。
 「ワイマール共和国」と通称される新体制(正式国名・ドイツ国)は、一般にはリベラルな民主共和政の先例とされているが、実際は、見たように、民兵組織・義勇軍を使った白色テロの流血と屍の上に成立した体制であった。
 革命の進展が暴力的に阻止されたために、帝政は廃されたとはいえ、ドイツ帝国時代の地主貴族ユンカーや独占資本家らは温存され、「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。」という社会権を保障する憲法の規定にもかかわらず、労働者階級の地位は向上しなかった。
 そのうえ、穏健な社民党主導でスタートしたため、イデオロギー的にも中道主義的となり、保守反動派からは「左翼」とみなされ、急進革命派からは「右翼」とみなされるという中途半端さがあり、体制に反発する両派の挟撃を常に受けた。
 社民党もすぐに幻滅され、1920年6月総選挙では比較第一党を維持しながらも、大幅に議席を減らし、下野した。代わって、まさしく中道政党である中央党が政権党として登場し、エーベルト大統領が在任中死去した1925年を越えて27年まで、中央党中心の政権が続くが、この間、政情は常に不穏であった。
 右派はワイマール共和国が1919年6月に締結したベルサイユ条約を国辱とみなし、攻撃していた。実際、条約で課せられた海外領土放棄と高額の戦時賠償金がドイツの国力を低下させていたことはたしかであった。右派からは、そうした国辱の責任をユダヤ人に帰せしめようとする論調が強まり、元来からくすぶっていた反ユダヤ主義の風潮を助長した。
 この潮流からは、後に体制化するナチス党(民族社会主義労働者党)が現れる。もっとも、1919年に結党されたばかりの同党はまだ議会外の泡沫政党にすぎなかったが、1923年、かれらは「ドイツ闘争連盟」の名でミュンヘンにて一揆を起こした。この拙劣な蜂起は直ちに鎮圧され、ヒトラーら一揆参加者は投獄されるも、ナチス党の存在を世に示す最初の宣伝効果は果たした。
 一方、ドイツ共産党は20年6月選挙で4議席を獲得したものの、議会では少数政党にすぎなかった。共産党も「反帝国主義」という観点からベルサイユ条約に反対しつつ、武装蜂起に消極的なパウル・レヴィを追放し、コミンテルンを通じてソ連と連携しながら、21年3月と23年10月に武装蜂起を計画したが、いずれも失敗に終わった。
 エーベルトの没後、代行者をはさんで正式に二代目大統領となったのは、第一次大戦の英雄で参謀総長も務めたユンカー貴族出自の老軍人パウル・フォン・ヒンデンブルクであった。ワイマール共和国のトップにユンカー貴族が就いたことで、共和国の革命性はほぼ消失し、以後は保守的転回を遂げることになる。
 ちなみに、最終的にワイマール共和国に引導を渡し、ヒトラー率いるナチスの「第三帝国」の出現を許したのも、首相に任命したヒトラーの要請で大統領緊急権を発動し、憲法を停止したヒンデンブルクであった。

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近代革命の社会力学(連載第136回)

2020-08-19 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(6)バイエルン革命とその挫折
 連邦国家ドイツ帝国では、全国一律ではなく、帝国構成邦ごとに革命が連続的に継起する形で革命が進展していったのであるが、中でも南部の大邦バイエルン(ヴィッテルスバッハ朝バイエルン王国)では独自の革命的展開が見られた。
 当地では、帝国中心邦プロイセンよりも一足早く1918年11月7日に革命的蜂起が始まり、翌日には独立社会民主党のクルト・アイスナーを首班とする臨時政府が樹立された。アイスナーは社民党とは異なり、レーテに好意的であり、レーテとの協調を重視していた。
 とはいえ、アイスナーの政治理念は決して急進的なものではなく、ロシアのボリシェヴィキのような革命的独裁には反対していたため、穏健社民党の立場と実質的に大差ないものであった。そのため、急進派からは支持されなかった。そのうえ、1919年1月の総選挙では、カトリック保守派のバイエルン人民党が勝利し、独立社民党は惨敗した。
 この選挙結果は、元来保守的なバイエルンの政治風土の表れであった。そのうえ、アイスナーは、同年2月、首相辞職表明のため議会へ登院する途上、王政復古主義者のテロリストの凶弾に倒れた。
 バイエルン首相は、総選挙後、第二党の社民党から出たヨハネス・ホフマンが継いでいたが、この政権は脆弱であり、1919年4月には独立社民党と一部のアナーキストが連携した革命が発生、ホフマン政権に代わり、レーテ政権が樹立された。これにより、改めてバイエルン・レーテ共和国が誕生した。このように、バイエルンでは社民党が脆弱であったことが、より急進的なレーテ革命を招来した。
 ところが、この第一次レーテ共和国は共産党を排除して成立していたため、共産党がクーデターによりレーテ共和国を奪取した。これを率いたのは、ロシア出身の共産党指導者オイゲン・レヴィーネであった。レヴィーネはロシアのボリシェヴィキともコンタクトがあり、この共産党クーデターはボリシェヴィキとも連携した計画のうえに実行されていた。
 ロシアのレーニン政権としては、前月にハンガリー革命の結果成立したハンガリー・ソヴィエト政権と並び、共産党系バイエルン・レーテ政権を革命の輸出先として重視し、世界革命の潮流を作り出そうとしていたが、これは虚しい期待に終わった。すでにベルリンでの急進派蜂起を武力鎮圧することに成功していた社民党中央政府がバイエルン・レーテ政権を打倒するべく、迅速な行動を起こしたからである。
 レヴィーンらはバイエルン独自の武装勢力として赤軍の結成を準備していたが、間に合わなかった。一方、中央政府は5月、ベルリン一月蜂起でも鎮圧作戦でフル稼働したドイツ義勇軍を投入して効果的な掃討作戦を展開、数日でレーテ政権を打倒した。
 その後、中央政府はバイエルンを事実上の軍政下に置いたうえで、革命派の大量処刑を断行した。レヴィーネも捕らえられ、7月に反逆のかどで処刑されている。こうして、独自の展開を見せたバイエルン革命も、社民党中央政府により粉砕され、挫折に終わった。
 ちなみに、オーストリア移民のアドルフ・ヒトラーもミュンヘンのレーテに参加しており、共産党クーデター後に行われたレーテの選挙では代議員に選出されている。ヒトラーにとって初めての政治経験が革命的レーテであったという事実は、興味深い。
 しかし、彼にとっては信念に基づかない日和見参加であり、バイエルン革命挫折後、ワイマール共和国下で共産主義者を調査する公安要員として任用された彼は、これをきっかけに軍の諜報部に加わるのである。奇妙にも、いずれワイマール共和国を解体するヒトラーを育てたのは、ワイマール共和国自身なのであった。

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近代革命の社会力学(連載第135回)

2020-08-17 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(5)急進派の蜂起と敗北
 いったん和議が成立した1918年末の人民海軍分隊事件は、年明けまで尾を引いた。正規軍との衝突で海軍分隊側に死者が出たことに対して反発する民衆の抗議が活発化したほか、独立社会民主党系の警察長官が突然罷免されたことに対する労働者が武装蜂起する事態となった。
 この動きの背後には、社民党から分派した急進的なマルクス主義系の政治団体スパルタクス団の存在があった。スパルタクス団は、1918年末に共産党が結党された際に主導的な役割を果たし、少なくとも結党初期のドイツ共産党=スパルタクス団と言ってもよかった。
 スパルタクス団の結成は第一次世界大戦中の1915年に遡り、当初は社民党主流派の参戦支持方針に反対した反戦派の集団であった。そこから急進的な革命集団へと発展していった点では、ロシアのボリシェヴィキに匹敵するが、ボリシェヴィキを率いたレーニンの少数精鋭による革命的前衛理論とは対立し、労働者階級によるゼネストを通じた自然発生的な革命を待望するローザ・ルクセンブルクの理論に基づいていた。―レーニンとローザの理論的な対立関係については、拙稿参照。
 実際、1919年1月7日以降の労働者大衆による大規模なゼネストは、スパルタクス団の理論が試される好機ともなった。共産党と独立社民党は革命委員会を立ち上げてゼネストを後押ししたが、問題はこの革命委員会はロシア十月革命当時の軍事革命委員会と赤軍のような権力掌握のための戦略と武力を備えていないことであった。
 一方、対する社民党の臨時政府・人民委員会議側は、すばやい戦略的な動きを見せた。首班エーベルトは、レーテ革命当時、ミイラ取りがミイラになった立役者から今や臨時政府国防相となったグスタフ・ノスケに武力鎮圧を命じた。ノスケは、復員・除隊した旧帝国軍兵士らが結成した民兵組織・ドイツ義勇軍を援助し、束ねていたからである。
 急進派の蜂起に対しては、このドイツ義勇軍がフル稼働した。正規軍に近い装備を持つ義勇軍がほぼ丸腰の労働者を鎮圧することは容易であった。掃討作戦は一週間ほどで完了し、共産党の共同指導者であったローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトも捕らえられ、残酷に殺害された。
 こうして、急進派による1919年1月の蜂起はあっさり鎮圧され、同年2月にはエーベルトが初代大統領に就任した。その後、同年3月にベルリンで再びゼネストと人民海軍分隊による蜂起があったが、これも義勇軍によって潰された。
 共産党は新たな指導者パウル・レヴィの下で武装蜂起に反対していたが、少なからぬ党員が蜂起に参加し、党の足並みは乱れた。その後、党内反議会主義派が共産主義労働者党として分離するなど、ドイツ共産党はロシアのそれのように統一勢力とはならなかった。
 このように、ドイツ革命では急進派が敗北し、白色テロを阻止することはできなかった。その要因として、スパルタクス団のような急進派の戦略の欠如とともに、急進派自体が統一されていなかったこともある。
 実際、知識人中心のスパルタクス団に対して、労働運動から出たより戦略的で秘密主義的な革命代表団(革命オプロイテ)があったが、両者は互いを非難し合う対立関係にあり、最後まで統合されることはなかった。

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終戦75周年に寄せて

2020-08-15 | 時評

終戦75周年という歳月を「まだ」と見るか、「もう」と見るか、微妙な歳月である。75周年と言えば、「もう」三つの四半世紀をまたいだことになる。終戦時20歳の若者も御年95歳。しかし、「まだ」一世紀=100年は経過していない。

「まだ」と見るなら、世界大戦は完全に過去のものとなっておらず、いつでも再発の恐れがあるから、大戦の惨禍を語り継ぎ、銘記しなければならないことになる。実際、兵士として第二次大戦に参加した人も少ないながら世界中に存命しているから、「まだ」という面は否定できない。

一方で、「もう」という面も年々強くなっている。実際、大国同士が国力を総動員して総力戦を展開する世界大戦の危険性は、この75年でゼロとはいかないまでも、かなり低下している。

その秘訣として、現在の国際連合を中心とする国際秩序がまさに国連という第二次世界大戦の戦勝国主導で作られた戦争抑止機構によって支えられており、この枠組みが次第に脆弱化、外交儀礼化しながらも持続しているおかげで、世界大戦を抑止し得ていることは否定できない。

とはいえ、こちらも75周年を迎える国連は、旧連合国時代に共闘し、核兵器保有特権を持つ米英仏露中の五大国が、米英‐仏vs中‐露に大きく二分しつつ、核で威嚇牽制し合うことで大戦を抑止している状態である。その点、「現実主義者」が常套句としている「核の抑止力」も、あながち虚構ではない。

もう一つの「もう」として、戦争の仕方が大きく変容したことである。徴兵された兵士が地上で撃ち合って戦うという戦法はもはや過去のものであり、現代の戦争の中心はミサイル攻撃や無人標的攻撃を含む空中戦である。徴兵制を持つ諸国はまだ少なくないが、空中戦では大量の素人兵は必要なく、訓練された精鋭の職業的兵士で足りる。

その結果、戦争を徴兵される立場で我が事として実感することが困難になり、他人事となりつつある。戦争が、兵士として参加するものから視聴者として観覧するものへと変化しているのである。加えて、遊興の戦闘ゲームの影響からか、戦後世代の間では、戦争をゲーム感覚でとらえるような見方もなくはない。

あと四半世紀進めば、戦後100周年。その時まで国際連合がいくらかなりとも実効性ある形で維持されているかどうかは予測できない。100周年には、第二次大戦参加者も死に絶えているだろう。

その暁には、大戦の記憶はすっかり風化し、再び大戦が勃発するのか。それとも、全く新しい恒久平和の機構が出現しているだろうか。後者を待望するが、楽観はしていない。一つ確実なことは、戦後100周年には筆者も当ブログも存在していないだろうということだけである。

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比較:影の警察国家(連載第8回)

2020-08-14 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐2‐1:国土保安省の出現

 アメリカの連邦警察集合体の中核は長らく司法省傘下にまとめられており、その限りでは連邦司法警察の性格が強かったが、2001年の9.11事件後、当時のブッシュ政権下での省庁再編がこの構造を大きく変えた。その焦点が国土保安省の設置である。
 国土保安省とは、英語ではUnited States Department of Homeland Security(DHS)と呼ばれる新しい連邦官庁である。日本語では「国土安全保障省」と訳すのが定訳となっている。
 しかし、「安全保障」は通常の用語では「国防」とほぼ同義であるところ、DHSは国防ではなく、テロリズムや自然災害からhomeland(国土)を守ることを任務とする機関であって、「安全保障」よりも「保安」の方が適訳と考えるので、本連載をはじめ、当ブログ上ではこの私訳によっている。
 その点、アメリカは「自由主義」を国是としてきた関係上、そもそも統一的な連邦警察はもちろん、連邦保安機関を持たないことが党派を超えて歴代政権の一貫した施政方針であったが、史上初めてアメリカ中枢部が外部から同時テロ攻撃を受け、多数の犠牲者を出した9.11事件がこの国是に重大な修正を加えさせたのである。
 とはいえ、国土保安省は例えば旧ソ連の強力な秘密警察機関(兼対外諜報機関)であった国家保安委員会(KGB)とは異なり、統一的・体系的な保安機関というよりは、従来複数の省庁に散らばっていた機能を統合・調整するような総合官庁の性格が強い点で、アメリカ国是の「自由主義」への配慮はなお捨てていないとも言える。
 そうした性格から、国土保安省の構制はかなり寄せ集めの印象も受けるが、中核的な部門は税関・国境警備庁と移民・関税執行庁、さらに海上警察の役割を担う沿岸警備隊である。いずれも国への人と物の出入りをチェックする役割を持つことからも、国土保安省がテロリズムの水際対策に最重点を置いていることが窺える。
 中でも移民・関税執行庁は、国土保安省独自の捜査・諜報部門に当たる。2017年に発足したトランプ政権は不法移民の徹底した流入阻止と摘発・強制送還を公約の柱に掲げる関係上、国境警備隊を所管する税関・国境警備庁とともに、移民・関税執行庁の重要性が高まり、その活動が著しく強権化している。
 その他、上述した沿岸警備隊(有事は海軍指揮下編入)や、民間航空をはじめとする公共交通機関の警備に当たる運輸保安庁も所管する国土保安省は一庁で広範な権限と20万人以上の職員とを擁する連邦省庁である。まさに反アメリカ的とも言うべき特異な機関であり、アメリカにおける影の警察国家の象徴である。

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近代革命の社会力学(連載第134回)

2020-08-12 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(4)レーテと社民党のせめぎ合い
 レーテ革命の結果、帝国政府が瓦解した中央では、今や中心政党となった社会民主党のフリードリヒ・エーベルト党首を首班とする臨時政府・人民委員会議が設置された。労働組合幹部出身のエーベルトは穏健派の代表格であり、元来レーテに対して否定的で、レーテの武力鎮圧を企てたこともある人物であった。
 そのため、急進派は人民委員会議とは別に、レーテを中心とする革命政権を構築すべく、レーテ中央組織としてレーテ執行評議会を樹立し、これを最高機関と位置づけ、地方組織も整備していった。ただし、レーテも一枚岩ではなく、穏健派と急進派とに分裂していた。
 レーテ執行評議会は、主に独立社会民主党急進派の一派である革命代表団(革命オプロイテ)が主体となって結成されたものであるが、元来、第一次大戦反戦派が分派した独立社民党自体が分裂し、主流派は社民党とともに人民委員会議に参加するなど、股裂きになっていた。
 一方、レーテ運動が水兵反乱に発した経緯から、海軍省に設置された海軍53人委員会と呼ばれる独立分派的な水兵レーテが強い発言力を持って海軍軍令部を統制し、作戦遂行にも関与する権能を持つに至っていたが、兵士の間にはこうした水兵の優位に対する反発もあった。
 これに対して、人民委員会議側も革命の急進化を阻止すべく、レーテに対抗しようとしていた。1918年11月の段階で、労組と財界の間の労使協調を目的とする中央労働共同体の協定を締結したほか、正規軍との間でも旧帝国軍組織の温存と秩序回復への協力を約する協定を結んだ。
 こうして、革命によりとりあえず人民委員会議とレーテの二重権力体制が出現した構図は十月革命後のロシアとも類似するが、大きな違いは、ドイツの人民委員会議は穏健派社民党が全権を握っており、各地のレーテ内でも同党の影響力が強かったことである。
 そのため、1918年12月16日に開催された初のレーテ全国大会では、国民議会が開設されるまでの間、最高権力を人民委員会議に委ねることや、海軍53人委員会の権限を縮小することなど、社民党寄りの決議が採択され、改めてレーテ中央機関として、共和国中央評議会が設置された。
 しかし、独立社民党はこれを不服として、中央評議会への不参加を決めたため、中央評議会は社民党系で固められる結果となった。さらに、同党は年明けの1919年1月19日に国民議会選挙を前倒しで実施するという大会決議にも反対して人民委員会議を離脱、党内急進派が改めてドイツ共産党を結党し、年明け総選挙のボイコット方針を決めた。
 大会決議によれば、共和国中央評議会は人民委員会議を監督する議会的な権限を持つことになっていたが、レーテに否定的なエーベルトは中央評議会の存在を軽視したため、すでに内部分裂をきたしていたレーテの権力は急速に形骸化していった。
 唯一レーテに譲歩せざるを得なかったのは、兵士から提出されていた軍内階級制の廃止要求であったが、この急進的な組織改革策は先の協定に反するため、軍上層部の反対により、要求事項の実現は延期となった。
 こうした革命権力をめぐるレーテと社民党のせめぎ合いは、1918年のクリスマスイブ、人民海軍分隊を名乗る急進的な兵士集団と正規軍部隊の武力衝突事件に発展する。双方に死者を出したこの事件は、いったん正規軍が撤収し、和議が成立したが、事件の処理をめぐり、年明けに革命の帰趨を決する大規模な騒乱が発生することになる。

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近代革命の社会力学(連載第133回)

2020-08-10 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(3)水兵反乱からレーテ革命へ
 前回指摘したように、ドイツ革命の導火線となったのは水兵の反乱であった。1918年10月、当時のドイツ海軍当局は、敗色濃厚な中、精鋭の大洋艦隊に出撃を命じたが、これに対し、約1000人の水兵が命令不服従のストライキで応じた。海軍は、これらの不服従者を命令違反のかどでバルト海に面したキール軍港に送還、拘束した。
 11月に入ると、拘束された水兵らに同乗した別部隊の水兵らが釈放を求めて決起したのに呼応して、労働者やその他の市民も加わった大規模なデモ行動に発展した。この動きはデモに終始せず、兵士と労働者から成る労兵評議会(レーテ)の結成に進展した。
 レーテはロシア革命におけるソヴィエトにならった民衆会議的な革命的会議体であり、レーテの結成によリ、水兵反乱は革命的な動きに向かった。この時、当時のバーデン帝国宰相は、事態鎮静化のため、連立政権に加わっていた社会民主党の有力議員グスタフ・ノスケを交渉役として派遣した。
 ところが、自身も労働者階級出自だったノスケは「ミイラ取りがミイラになる」の譬えどおり、レーテ側に寝返り、レーテ代表者に選出されてしまった。これにより、キール・レーテは影響力を増し、全国にレーテ結成の動きが急速に広がる。
 実際のところ、レーテは1918年夏には各地の兵士らがストライキの拠点として結成し始めていたのであるが、散発的な動きにとどまっていたところ、キールでは労働者の共感を得て、4万人規模に展開したことで、革命的な様相を呈したのである。
 こうした経緯から、ドイツのレーテはロシアのソヴィエトに比べて、兵士の主導性が高いことに特徴があり、短期のうちにキールから、全国各地に兵士レーテの設立が拡散していった。各帝国構成邦の当局側はこの動きを阻止できず、各地でレーテの正統性が承認されていった。
 こうして、レーテが一つの未然革命段階の対抗権力となっていくが、その流れが帝都ベルリンにまで及んだ時、ドイツ帝国はあっけなく終焉したのであった。11月9日、バーデン宰相は大規模なデモに直面する中、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を発表したうえ、社会民主党を主体とする人民委員会議に政権を譲った。
 帝都での革命過程は、無血にうちに進行した。これを契機に、帝国構成邦の君主が続々と退位していき、レーテを主体とする革命的共和制に置換されていったことから、「レーテ共和国」と呼ばれることもある。
 レーテ革命がこれほどあっさり成功を収めた背景として、歴史の浅い連邦国家であるドイツ帝国そのものの構造的な脆弱さがあった。その点は、集権制の帝政ロシアと異なり、皇帝はプロイセン王兼務、当時のバーデン帝国宰相自身も帝国を構成する小邦バーデンの大公家出身という状況であり、一貫性を持った王党派勢力が存在しなかった。

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比較:影の警察国家(連載第7回)

2020-08-09 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐1‐4:合衆国保安官の伝統と再編

 合衆国保安官(United States Marshal)は、すべての連邦警察機関の中でも最も歴史が古く、初代ワシントン大統領時代の1789年にまで遡る。ワシントンが大統領に就任して最初に行ったことの一つが連邦裁判制度の整備であり、その一環として、連邦を構成した旧13植民地をそれぞれ管轄区域とする13名の保安官を任命した。
 かれらの主任務は連邦裁判所の廷吏業務と令状の執行業務であったが、同時に地域の騒乱の鎮圧にも当たる暴動対処も任務とされており、連邦警察機関を持たない伝統の中で、合衆国保安官は小規模ながら連邦警察に近い複合的な任務を帯びた独任制の法執行及び警備機関であった。
 それからおよそ90年近くを経て、1870年に合衆国司法省が創設された際、合衆国保安官も司法省の管轄下に入り、さらに約100年を経て、全米及び海外領土を含む連邦裁判所ごとに任命されるようになった合衆国保安官を統括するため、1969年に現在の合衆国保安官局(United States Marshals Service)が創設された。
 こうした経緯からも、合衆国保安官は一介の廷吏や執行官ではなく、連邦裁判官などと同様に、大統領が任命し、上院で承認審査を受ける高位の連邦公務員である。そのため、前線実務は合衆国保安官の指揮監督下に、保安官代理(Deputy Marshal)が担っている。
 合衆国保安官の業務の基本は、創設以来、連邦司法制度の物理的な保障という点にある。ただ、現在では、伝統的な廷吏業務や執行業務に、逃亡犯罪人追跡や被疑者の航空護送、連邦証人保護プログラムの運用といった現代的な任務が加わっている。
 また、そうした任務のより武装化された延長として、特殊作戦団が置かれている。1971年に創設されたこの部署は、連邦レベルでの特殊武装戦略部隊(SWAT)の先駆けであり、1960年代以降、自治体警察から始まっていた警察の準軍事化という新たな潮流に掉さすものであった。
 また、最新の注目すべき権限拡大として、人身売買における被害者救出作戦の任務が追加されている。これは、伝統的な合衆国保安官の任務から離れた捜査機関としての特殊作戦任務である。
 さらに、合衆国保安官局は、警護業務部の創設により、近年警備警察としての機能も拡大しつつあり、連邦最高裁判所判事をはじめとする連邦の上級公務員の警護任務も担っている。こうした警護任務の拡大に伴い、後述する国土保安省系の主要な警護機関である合衆国機務局との連携を通じて、連邦警備警察体系にも組み込まれている。

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