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近代革命の社会力学(連載第195回)

2021-01-30 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(3)アルバニア・レジスタンス革命

〈3‐1〉レジスタンス組織の結成
 アルバニアは、長くオスマン・トルコ帝国の支配を受けた後、1912年に独立を果たしたが、ドイツ人の君主を招聘した君主制(公国)が失敗し、無政府状態が続いた末、1925年に有力な地主貴族出身の政治家アフメド・ゾグーが大統領となり、共和体制を樹立した。
 ゾグーは28年、自ら国王ゾグー1世を称し即位して王国を建て、専制により伝統的な氏族社会を転換する近代化と安定をもたらすも、1939年、「地中海帝国」(我らの海)の野望を抱くイタリアのムッソリーニ・ファシスト政権の侵攻を受けて瓦解、ゾグーは海外亡命し、イタリアの占領下に置かれた。
 ここから先の展開はユーゴスラヴィアと類似し、共産系と反共系の二つのレジスタンス組織が立ち上がった。いずれもユーゴのパルティザンの結成と同年1942年のことであるが、アルバニアではイタリアの占領から三年が過ぎていた。
 共産系レジスタンスは、アルバニア共産党を主体とする民族反ファシスト解放運動(LANÇ)である。アルバニア共産党の結党はユーゴより遅れ、レジスタンス結成前年の1941年であったが、共産党及びLANÇはユーゴのパルティザンの支援を受け、高い戦闘能力と士気を維持した。
 その指導者は教師出身のエンヴェル・ホジャとスペイン内戦に参加した経験を持つメフメット・シェフーの両者であり、最終的に、この二人がレジスタンス革命成功後、新たな社会主義体制のそれぞれナンバー1とナンバー2の地位に就くことになる。
 一方、反共系レジスタンスは民族戦線を名乗り、こちらはアリ・ケルチラとミドハト・フラシェリという二人のベテラン保守政治家に率いられていた。このレジスタンスはアルバニア民族主義を掲げ、ファシズムとコミュニズム双方に反対する比較的リベラルなグループであり、地主階級と農民階級の支持を受けていた。
 このように、アルバニアはユーゴのような多民族社会ではないため、民族ではなく、イデオロギーによってレジスタンス組織が分岐した点では、フランスと類似している。
 しかし、反共系の民族戦線は一時的にLANÇと共闘しながら、最後までレジスタンスを貫けず、ナチスドイツの傀儡政権・枢軸勢力に協力し、LANÇと敵対するようになった点では、ユーゴのセルビア民族主義系レジスタンス組織チェトニクと同様の道を辿ったのである。


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