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近代革命の社会力学(連載第250回)

2021-06-18 | 〆近代革命の社会力学

三十六 キューバ社会主義革命

(7)革命の余波
 1959年のキューバ社会主義革命は、1949年の中国大陸革命に続く第三世界において持続的に成功した社会主義革命として、思想的な面では各地の革命的社会運動を鼓舞するも、キューバ固有の事象としての性格が強く、それを契機とした周辺ラテンアメリカ諸国への直接的な波及現象は見られなかった。
 ここには、キューバと周辺諸国の歴史的な相違が影響している。独立が20世紀にずれこんだキューバと異なり、周辺ラテンアメリカ諸国では19世紀中に独立を果たし、独立運動に功労のあった土着白人クリオーリョ富裕層の寡頭支配が強固に確立されており、革命的な構造変革を阻んでいたからである。
 とはいえ、時間差を置いて間接的な形での波及効果とみなすことのできる事象は1960年代にいくつか見られる。一つは、地理的にも比較的近いドミニカ共和国での1965年の未遂革命である。
 ここでは、1930年代から長期の親米独裁支配を確立していたラファエル・トルヒーヨが1961年に暗殺された後(トルヒーヨを見限ったアメリカが背後で関与したとされる)、民主的な大統領選挙を経て当選した左派のボシュ大統領が革新的な新憲法を制定し、社会改革に乗り出すと、1963年、旧体制と結託した軍部がクーデターを起こし、政権を転覆した。
 これに対し、1965年、フランシスコ・カーマニョ大佐が主導する中堅将校団による革命が勃発した。これは社会主義革命というよりは1963年憲法の回復を求める立憲革命であったが、膠着し、内戦に発展する兆しを見せたことから、キューバの二の舞を恐れたアメリカのジョンソン政権が本格的な軍事侵攻作戦で臨み、革命軍を粉砕した。
 その後、カーマニョはキューバに逃れて革命運動を継続、1973年には武装集団を結成してキューバからドミニカへ上陸し、数週間ゲリラ戦を展開したが、政府軍により鎮圧された。カーマニョも捕らえられ、略式処刑された。
 これはカストロの武装革命にならっての冒険的蜂起であったが、カストロと異なり、エリート軍人出身のカーマニョはドミニカ国内で広い支持を得られず、なおかつキューバのカストロ政権の援助も得られなかったことが、敗因となった。
 もう一つの間接的波及例としては、南米ペルーにおける1960年代の革命運動及び疑似革命が挙げられる。ペルーでは、キューバ革命に触発されたマルクス主義のグループが革命的左翼運動を結成し、蜂起するが、1965年に政府軍により鎮圧された。
 しかし、ほどなくして1968年、軍部内のフアン・ベラスコ将軍が主導するクーデターが成功し、以後、軍主導で社会主義的な諸政策が実行された。
 通常は反社会主義に傾斜しやすい軍部が自ら社会主義を主導することは極めてまれであるが、ベラスコ政権は銅会社の国有化や米系石油会社の資産没収のほか、当時ラテンアメリカではキューバに次ぐ最大規模の農地改革により大土地所有制の解体に進んだ。さらには、大衆の政治参加組織として国民社会動員支援制度を創設するなど、革新的な政策を進めた。
 ベラスコ政権は「軍革命政府」を名乗ったが、その事績はあくまでも軍事政権の枠組み内で断行された諸改革であって、真の革命ではなく、言わば疑似革命であった。1972年にはキューバとも国交を樹立し、友好関係を保ったが、キューバからの直接的な支援はなく、経済失策から1975年、軍部内保守派のクーデターを招き、軍革命政府は崩壊した。
 また、ペルーの68年クーデターの数日後、中米パナマでも、国家警備隊(国軍相当組織)のクーデターで、オマル・トリホス中佐が権力を掌握した。左派ナショナリストの彼は大統領の地位には就かないまま、文民大統領を傀儡化した最高実力者(将軍)として、キューバに接近しつつも、ペルーのベラスコ政権に類似した革新政策を進めた。
 トリホスの歴史的功績として、アメリカと交渉し、1977年の条約によって平和裏にパナマ運河のパナマ政府移管を実現させたことがある(実際の移管日は1999年末日)。
 トリホスのクーデターも革命を標榜した疑似革命の一種であり、1981年の飛行機事故による死まで続いた彼の体制は形式上民政の形を取った個人崇拝型の軍事独裁支配であったが、アメリカの圧力による限定的な民主化に動いた晩年に創設した民主革命党は、現在までパナマの主要政党として存続している。
 カストロ政権は第三世界での革命支援には意識的に取り組み、その支援は遠くアフリカにも及んだが、成功例は少なく、近場のラテンアメリカでは、1979年に革命に成功したニカラグアのサンディニスタ国民解放戦線への支援くらいである。
 アフリカでは、同時進行中のアルジェリア独立戦争で民族解放戦線に武器援助をしたほか、アンゴラの独立運動でもアンゴラ解放人民運動を支援し、最大6万人ものキューバ軍を派遣して独立達成に貢献した。エチオピア革命後、エチオピア社会主義政権と隣国ソマリアとの国境戦争に際し、エチオピア側でキューバ軍を派遣したのも、形を変えた革命輸出政策と言える。


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