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近代革命の社会力学(連載第457回)

2022-07-12 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(2)アラブ社会主義体制の転向あるいは変質
 アラブ連続民衆革命における中核5か国は、1952年のエジプト共和革命を初動として、アラブ連続社会主義革命、さらにその派生型としてのバアス党革命によって、1960年代にかけて順次社会主義体制が樹立された諸国であった。
 これらのアラブ社会主義体制はしかし、1970年代以降になると、それぞれの仕方で転向ないし変質を始める。初動となったエジプトの場合、共和革命の指導者ナーセル大統領の1970年の急死が一大転機となる。
 ナーセルの死を受けて、副大統領から政権を継いだサーダートは共和革命時から行動を共にした盟友ながらナーセルの路線を大きく修正し、事実上これを没却していった。
 すなわち社会主義政策を転換し、資本主義市場経済に適応化する経済改革を志向するとともに、反米・反イスラエル政策をも転換、アメリカの仲介により、アラブ世界で最初にイスラエルを承認するキャンプデービッド合意の当事者となった。
 これ以降、1981年のサーダート暗殺を受け副大統領から昇格したムバーラク大統領の約30年に及ぶ長期政権下でも、サーダートによる転向路線は基本的に継承されていった。
 一方、アラブ社会主義全体の指導者でもあったナーセルの急死は、エジプト以外のアラブ社会主義諸国にも波及的な影響を及ぼすことになる。カリスマ的人物の病死という自然現象が地政学的な変動要因となった例である。
 連続社会主義革命の中で社会主義化したチュニジアとリビアの場合、チュニジアでは独立以来の指導者ブルギバ自ら1970年代以降に社会主義政策を撤回したうえで長期政権を維持、リビアでは独特の直接民主主義理論を掲げる最高指導者ガダーフィによる事実上の個人崇拝型長期独裁への変質が生じた。
 バアス党革命により独自の社会主義体制となったシリアでも、1970年に党内クーデターで政権を掌握したアサドは「革命の矯正」として社会主義を緩和する政策を追求するとともに、個人崇拝型独裁を強化し、長期政権を固めた。
 イエメンは、南北分断国家という特殊状況の中、1978年に北イエメンの大統領に就いたサーレハが80年代以降、社会主義色を薄めて独裁体制を固めつつ、冷戦終結後の90年には南北イエメンの統一を導き、改めて統一イエメン大統領として長期政権を継続した。
 こうしたアラブ社会主義体制の転向あるいは変質は、いずれもナーセル没後の状況下で「現実主義」の力学から生じており、その過程で社会主義的なイデオロギーは後退または消失するとともに、安定を優先するワンマン体制が現前してきたものと言える。


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