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近代革命の社会力学(連載第455回)

2022-07-08 | 〆近代革命の社会力学

六十五 キルギス民主化革命

(4)地域間/民族紛争の惹起
 2010年革命はキルギスにおける南北間対立をも投影しており、バキエフ政権が南部を最大基盤としていたのに対し、革命側は、政権首班のオトゥンバエワは南部出身ながら、基調として北部に基盤があった。こうしたことから、革命後の移行プロセスは技術的には順調に進むも、その過程で暴力的な地域間/民族紛争を惹起し、国を南北分裂危機に立たせた。
 この危機は南北の政治的な対立と民族間の対立の双方を二重に内包していたが、前者は当初辞職を拒否したバキエフが首都を脱出して南部に逃れ、反攻の機を窺ったことで助長された。最終的に、バキエフが辞職に同意し、海外亡命した後も、5月から6月にかけて、南部では暫定政権主導の憲法改正に反対する反政府暴動が発生した。
 もう一つの対立軸である民族紛争は、全国の人口割合で15パーセント程度の少数民族ウズベク人が南部に集住しており、経済的に優勢な勢力として地域経済を握っていることで、キルギス人の間に反ウズベク感情が鬱積していたことが要因となっている。
 この民族紛争の芽はソヴィエト時代にまで遡り、人工的な境界線のもとに現キルギスの前身となるキルギス・ソヴィエト社会主義共和国を連邦構成国として作出したことから発生したもので、ソ連邦からの独立過程で1990年にも民族衝突が発生している。
 その点、2005年の革命で失権したアカエフはウズベク系を抑圧していたが、革命で誕生したバキエフは一転して、南部の支持基盤を固めるべく、親ウズベク政策を採ったため、ウズベク人はバキエフの支持者となっていた。そうしたことから、そのバキエフが追われた2010年の革命に対して多くのウズベク人は否定的であった。
 革命過程の2010年6月に頂点に達した南部での民族衝突の直接的要因については諸説あるが、カジノでの些細な喧嘩が引き金となったとされる。この大規模衝突ではウズベク人を中心に900人近くが死亡、10万人を超える難民が発生し、鎮静化後の当局による恣意的逮捕や拷問も革命政権の汚点となった。
 その後、2010年10月の総選挙では、バキエフの復権を訴える親バキエフ派の祖国党が革命政権の主軸である社会民主党をしのぎ、比較第一党となったことにも、南部勢力の根強さが示されている。南部勢力は、その後も政党の目まぐるしい離合集散の中で形を変えて力を保持しており、経済格差を伴う南北間対立は民主化により緩和されつつも解消はされていない。


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