ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第366回)

2022-01-18 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(2)ライベリア革命

〈2‐2〉下士官革命から内戦へ
 前回見たように、1970年代のトルバート政権下では、先住諸部族の権利向上が建国以来最も進んだとはいえ、ライベリアの先住諸部族は、西アフリカでは一般的なように、多岐に分かれて統一性を欠いており、連合して革命運動に乗り出す用意は出来ていなかった。
 70年代後半から野党として台頭してきたライベリア進歩連盟(PAL)も、基本的にはアメリコ・ライベリアン内部からの青年知識層による反作用を反映した政党であったうえ、革命ではなく、穏健な政治運動を志向していた。
 それが一気に革命へ急転するに当たっては、トルバート政権による農業政策の失敗が契機となった。1979年、政権は農民の収入増のためとして、米価引き上げを発表した。これに対し、野党勢力はトルバート一族もその一人である裕福な米作農家への利益誘導であるとして、平和的な抗議デモを組織したが、これがリベリア史上最悪の暴動に発展し、多大な経済的な損害を生じさせる事態となった。
 この「米騒動」はトルバート政権の威信は大きく低下させたとはいえ、政権は翌年、 PALを非合法化し、幹部らを検挙する弾圧に踏み切ったため、革命を抑止したかに見えたが、意外な死角から革命が突発することとなった。
  PAL弾圧の翌月、1980年4月、当時28歳のサミュエル・ドウ曹長に率いられた下士官グループが決起し、大統領府に進撃してトルバート大統領を殺害したうえ、人民救済評議会を立ち上げ、政権を掌握した。
 この電撃的な政変は形式上は軍事クーデターであったが、ドウをはじめ決起した下士官は皆、先住部族の出身であり、彼らは明確にアメリコ・ライベリアンの支配を終わらせることを目的とし、そのクーデターは貧しい民衆からも歓迎されたため、革命的な意義を持ったのである。
 人民救済評議会(People's Redemption Council)政権は、キリスト教で「贖い」や「救い」を意味するredemptionという革命事象には珍しい単語を冠していたが、その意味するところは、人民の救済と旧体制の贖罪の両義であったようである。
 ただ、初動段階では「贖罪」に重心があり、トルバート前政権の閣僚の大半を逮捕し、略式裁判で死刑を宣告、公開処刑するという強硬策によって旧体制の一掃を演出した。ちなみに、この時、処刑を免れ、海外に脱出した前閣僚の中には、後年、アフリカ大陸初の民選女性大統領として、内戦終結後の国家再建を主導することになるエレン・ジョンソン・サーリーフ前財務相(拙稿)もいた。
 この下士官革命はドウら先住部族系下士官が独自に実行したもので、野党勢力と直接のつながりはなかったが、前出 PALの創設者でもあるガブリエル・バッカス・マシューズはドウ政権の外相として入閣した。しかし、すぐにドウと決裂して一年で辞職、 PALをベースとした統一人民党を結成し、ドウ政権下の有力な野党政治家となった。
 下士官の革命政権は当初は暫定的と見られたが、ドウは意外にプラグマティックな政治能力を発揮し、10年間政権を維持した。その秘訣としては、親米・親西側の外交姿勢を一貫させ、タックスヘブン化により、西側の投資を呼び込んだことがある。
 1985年には自身の翼賛政党・ライベリア国民民主党を基盤に大統領選挙を実施して当選、いちおう民主的な体裁を整えたが、この選挙は一部の野党しか参加が許されず、かつ不正投票が組織的に行われるなど、正当とは言えないものであった。
 とはいえ、いちおう民選大統領に納まったドウであるが、元来、政権が支持基盤とする先住部族勢力は一枚岩でなく、政権内部での部族対立が表面化した。特に85年の選挙直後に元革命同志によるクーデター未遂事件が発生すると、ドウは報復としてクーデターに関与した部族に対する虐殺を行なった。
 こうして流血で始まったドウ政権の後半期は、人権抑圧と政治腐敗に満ちたものとなった。これに対して、抑圧された部族勢力などが中心となって反政府武装組織が結成され、89年末以降、ドウ政権転覆を目指して進撃を開始する。
 特に、革命直後のドウ政権で調達庁長官を務めたチャールズ・テイラーを中心に結成されたライベリア愛国戦線(NPFL)は89年以降、反体制部族を糾合してドウ政権の打倒を目指し、強力な武装活動を開始した。こうして内戦が勃発し、翌年1990年までに死者1万5千人と大量の難民を出す事態となる。
 そうした中、革命当時は軍でドウの上官だったプリンス・ジョンソンがNPFLから分派して結成したライベリア独立国民愛国戦線(INPFL)が抜け駆け的に首都に進撃、和平交渉を装いドウを誘い出したうえ、ビデオ撮影下で残虐に拷問・殺害するという異常な挙に出た。
 これによりドウ政権は崩壊、野党を中心とする暫定政権が発足したものの、内戦は終結せず、テーラー派にジョンソン派、さらにイスラーム系ほか多数の武装勢力が相対立する凄惨な内戦(第一次内戦)が、国際監視下の選挙でテーラーが大統領に当選する96年まで続くことになる。―その後の第二次内戦については、先行別連載の拙稿参照(当時は「リベリア」と表記)。
 こうして、ライベリア革命は最終的に国を破綻へと追いやる内戦の動因となり果てたが、これはドウらの下士官グループが統一的なイデオロギー的軸を示す知的力量を欠いたまま、アメリコ・ライベリアンに代わり急遽体制側となった先住諸部族の対立関係を止揚できなかったことによるところが大きい。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 近代革命の社会力学(連載第... »

コメントを投稿