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近代革命の社会力学(連載補遺30)

2022-10-11 | 〆近代革命の社会力学

十六ノ二 モンゴル/チベット独立革命

(4)モンゴル独立革命とその帰趨
 晩期の清朝は、極東進出を活発化させる帝政ロシア対策としても、モンゴル遊牧民保護のために禁じていた漢人のモンゴル入植を解禁したため、中原に接する内モンゴル地域ではモンゴル人の遊牧地が削減されたことに対するモンゴル人の反発が高じた。
 一方では、急激に人口を殖やした漢人入植者の側にも反モンゴル感情が生じ、1891年には金丹道と呼ばれる内モンゴル漢人系の秘密結社が蜂起、最大推計50万人ともされるモンゴル人を殺戮する非人道的な民族浄化事件も発生した。
 こうした漢人勢力の攻勢に対抗して武装ゲリラ活動を開始するモンゴル人も存在したが、一方で、独立運動に赴く者も現れた。こうしてモンゴル独立革命の蠕動はまず内モンゴルに始まるが、その革命の動きはいまだ漢人の入植にさらされていなかった外モンゴルにも波及した。
 そうした内外モンゴルの運動をつないだのは、内モンゴルのモンゴル人官僚バヤントメリン・ハイサンであった。これに呼応して、外モンゴルでもダ・ラム・ツェレンチミドやトグス‐オチリン・ナムナンスレンらの王侯貴族が独立運動に乗り出した。
 こうした外モンゴルの独立運動は帝政ロシアに資金援助を依頼したことから、ロシアという外力が加わることになり、以後、帝政ロシアを打倒したロシア革命後も含めて、モンゴルとロシア(ソヴィエト)の関係が緊密となる契機が作り出された。
 そうした中で辛亥革命が勃発すると、これを機に外モンゴル諸侯が決起したのであるが、その際に君主ボグド・ハーンとして推戴したのが、モンゴルにおける最高宗教権威であった活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世であった。
 辛亥革命とは異なり、共和制でなく君主制が志向されたのは、当時、内外モンゴルをまたいでモンゴル諸部族を結集できるのは、旧モンゴル帝国皇家であったチンギス・ハーン裔がすでに衰微した時代にあって、活仏をおいて他になかったからであった。とはいえ、活仏は言わば象徴的な君主であり、実権は首相に就任したナムナンスレンが掌握した。
 こうして成立したのが数百年ぶりに独立を回復したモンゴルのボグド・ハーン政権であるが、この政権は独立運動の支援国であった帝政ロシアを後ろ盾としており、事実上ロシアの保護国に近い状況にあった。
 同時にまた、如上独立運動の経緯から、この政権は外モンゴルに権力重心があったところ、革命翌年の1912年には内モンゴル有力者らもボグド・ハーン政権に帰順したため、1913年には軍を派遣して内モンゴルの支配を開始した。
 さらに、政権は一歩遅れて独立革命が成立したチベットと協調し、相互承認条約を締結した。この条約は相互防衛義務も規定した安全保障条約でもあって、両国が未だ帰趨の定まらない不安定な独立状態を協調して防衛していくための同盟であった。
 しかし、この後の経過がチベットと大きく分かれていくのは、モンゴルがロシアを後ろ盾としたことに要因がある。ロシアは辛亥革命で成立した中華民国との関係構築を目指すため、中華民国の国益に配慮し、すでに漢人人口が上回っていた内モンゴルを含めた独立に異を唱えた。
 そのため、ボグド・ハーン政権は内モンゴルから軍を撤退させざるを得なくなり、事実上は外モンゴルのみの独立となったばかりか、1915年に帝政ロシアと中華民国、モンゴルの間で締結されたキャフタ条約では、モンゴルに対する中華民国の宗主権が承認された。
 その結果、外モンゴルは中華民国宗主下の自治国家という地位に後退し、自立的な外交権を喪失した。こうして、モンゴル独立革命は所期の成果を見ず、実質上は挫折することとなり、真の独立はロシア革命後の地政学的変化を待たねばならなかった。


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