ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

農民の世界歴史(連載第33回)

2017-02-28 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(6)人民公社と農村生活

 抗日戦争と国共内戦を乗り切った中国共産党は1949年、毛沢東の指導下に中国大陸本土を制圧し、全国的な政権樹立に成功した。そこまでの経緯は本稿の論外となるため省略するとして、共産党政権樹立後の農業政策と農村生活を見ることとする。
 中国共産党もその綱領の基本線はソ連にならっていたため、農業集団化が農政の柱とされた。その目玉は人民公社である。人民公社とは人民コミューンとも訳し得る制度で、ソ連のコルホーズに範を取ったものであるが、コルホーズとは異なり、農村の経済活動全般に加え、行政・軍事まで包括された農村統治機構として編制されたことに特徴があった。
 その点、中国では国民政府時代から農協に近い合作社と呼ばれる組合制度が存在したが、人民公社はこの制度を基礎としながらも、より徹底した農村共産主義を目指す野心的かつ理想主義的な新制度として構想されていた。
 この場合、農地は人民公社に属する農民の集団所有とされ、農業設備等の基本的生産手段は公社、機械等の生産用具は生産大隊、生産・分配計画は生産隊に帰属するといういささか形式的な階層構造が採られた。公社は基本的に自給自足の自治制度でもあり、まさにコミューンであった。
 とはいえ、中央政府は実質上共産党の一党支配体制であって、人民公社もその下部機構にすぎず、自治といっても多分にして建て前であった。その一方で、農村生活は自給自足とされ、農民は国レベルの社会保障を享受することもできず、都市からは切り離され、言わば放牧状態であった。
 こうした中国式農業集団化は、ソ連の場合以上に極めて急ピッチで事実上の強制下に行なわれたため、開始年度である1958年中に早くも9割以上の農民が人民公社に帰属することとなったが、その実態は制度も充分に理解されないままの見切り発車であった。その結果として、一部の模範的公社を除けば、多くの人民公社は生産効率も上がらず、貧困状態に陥っていった。
 60年代に発動されたいわゆる文化大革命(文革)の時代になると、農村は「上山下郷運動」と呼ばれる人口移動計画により、都市部から送られてくる青少年や文革で失墜した党幹部などの「下放」の場ともなった。
 この政策は表向きは、都市と農村の格差解消をスローガンとしつつ、都市から農村への人口移動を促す農村振興策のように見せていたが、実態は文革期に突出した思想的再教育の性格が強いものであり、毛の没後、文革の終焉とともに終わりを告げた。文革の終焉は、人民公社制度そのものの終焉をももたらした。
 結局のところ、「農村から都市を包囲する」中国共産党のユニークな革命戦略は、革命の成功後、「農村を都市から分離する」結果に終わったとも言える。このことが、ポスト文革時代の共産党支配体制そのものを揺るがす後遺症として発現してくるのであるが、この件については改めて後述する。

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農民の世界歴史(連載第32回)

2017-02-27 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(5)中国共産党と農民

 ロシア革命の結果誕生した共産党はレーニン主義的な「労農革命論」を基調としているとはいえ、労働者政党の性格が強いことは明白であり、農民中心の組織構成ではないことはもちろん、農民層の利益を充分に反映しているとも言い難かった。それに対して、中国共産党は様相を異にしている。
 中国では辛亥革命によって満州族系の清朝が倒され、漢民族が主導権を取り、ひとまず近代ブルジョワ民主政治への潮流が作られたが、国民政府中華民国は当然にも地主階級の利益を擁護する立場にあり、中国で膨大な数を占めていた貧農は軽視されていた。
 そうした中で、当初はソ連共産党主導のコミンテルンの影響下で結党された中国共産党は毛沢東という異色的な指導者の下で、ソ連共産党とは異なる道へ舵を切る。毛自身は地主階級の生まれで、自身は教師という知識中産階級に出自するが、中国においてはロシア以上に大きな割合を占める貧農を重視する思想を抱いていた。
 毛がそうした思想を抱いた契機は不明だが、早くも1926年の段階で農民運動に関心を示していた形跡がある。毛の思想はやがて「農民に依拠し、農村を革命根拠地に都市を包囲する」という革命戦略へ結実していく。
 これは単なるスローガンではなく、実際、毛は農民への情宣活動を活発化し、農民に地主の土地を横領するようにさせたため、農民は土地から追放され、共産党に合流し、革命運動に参加するようになった。毛はこうした農民兵を中核的な戦力とする強力なゲリラ軍を作り上げた。
 毛はそうした独自の手法をもって、江西省井崗山を皮切りに各地に農村革命根拠地を築いていき、そこでは富農を含む地主から土地を没収して農民に分配するという「土地革命」を実施していった。このようなやり方は綱領倒れに終わった19世紀の太平天国の社会主義的バージョンアップとも言うべきものであった。
 しかし、こうした農村根拠地戦略は当時の中国共産党指導部の総意ではなかった。毛は31年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」を樹立する勢いを見せたが、これに対する国民党軍の猛攻への対抗戦略をめぐる対立から、親ソ派党指導部により毛は指揮権を奪われ、土地革命も中止に追い込まれるのである。
 これに続く国共内戦、抗日戦争の経過やその過程での毛の復権については本稿の論外であるため、省略するが、農村に依拠する毛の革命戦略は同様に多くの貧農を抱える南/東南アジアや南米の革命運動に多大の影響を及ぼし、毛沢東主義(マオイズム)の思潮を生み出すことになる。

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不具者の世界歴史(連載第3回)

2017-02-22 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

神話の中の障碍者
 古代における障碍者は、神話の中に文学的な形でその存在性が記録されている。例えばギリシャ神話には様々な障碍を持つ人物が登場するが、中でも興味深いのは炎と鍛冶の神ヘーパイストスである。ヘーパイストスは最高神ゼウスと後妻ヘーラーの子だが、両足に先天障碍を持って生まれたため、天から海に捨てられたとされる。
 この逸話からは、古代ギリシャでは先天性障碍児を捨て子にする習慣があったとも推測できるが、類似の例は日本神話にも見られる。すなわち国産み神であるイザナギとイザナミの夫婦神の第一子(または第二子)ヒルコは障碍児であったため、葦舟に乗せて海に流してしまったとされる。
 もっとも、ギリシャ神話のヘーパイストスは海の女神に救われ、養育された後、天に帰ったとされるから、ここからは障碍児を引き取って養育するような習慣の存在も推測できるところである。成長したヘーパイストスは武器製造者となったことで、炎や鍛冶の神とされた。
 ちなみに、鍛冶や鋳物の神々はヘーパイストスに限らず、ドイツのフォルンド、フィンランドのワンナモイネンなど多くは身体障碍を持っているが、これは古拙な鍛冶技術の限界から労災により障碍者となりやすかったことを象徴しているのかもしれない。
 日本の天目一箇神(あまのまひとつめのかみ)も、鍛冶職人が鉄色で温度を計測するのに片目をつぶることからとする説のほかに、片目を失明する職業病を象徴するとする説があるが、後者とすれば視覚障碍者を象徴する神であろう。
 一方、北欧神話やケルト神話には隻腕の神が登場するが、これは戦争の多発による傷痍者が多かったことを象徴するものであろう。特にケルト神話に登場するヌアザ神は戦闘で片腕を失ったため、身体欠損者を王位不適格とするケルトの掟により王位に就けなかったとされるが、ここには身体障碍者を欠格者とみなすある種の差別政策の芽生えを読み取ることもできる。
 もっとも、ヌアザ神は医神ディアン・ケヒトの製作した義手を得て、最終的にはディアン・ケヒトの子神ミアハの治療で腕が復活し(!)、王位に就けたとされる。これは医療的なリハビリテーションの萌芽とも言える神話的記述である。
 全般に、諸民族の神話中の障碍者は必ずしも忌むべき者としては描かれておらず、むしろ特別な存在として位置づけられ、神秘化されていると見ることもできるであろう。

醜女と醜男
 ところで、日本神話には、醜女(しこめ)と醜男(しこお)という対関係の特徴的な神名が登場する。前者は正式には黄泉醜女(よもつしこめ)といい、黄泉国に住む鬼女とされる。イザナギが亡きイザナミの後を追い、黄泉国まで赴いた時、約束を違えて腐敗したイザナミの姿を見てしまったため、イザナミが黄泉醜女らに逃げるイザナギを追跡させたという。
 醜女とは文字どおりに取れば、容姿の醜い女という趣意で、現代語としては女性に対する容姿差別的表現としてほぼ死語に近い。しかし神話の中の黄泉醜女は単に醜いのではなく、実際に鬼の形相をした鬼女であり、かつ一飛びで千里走れるという俊足の持ち主ともされる。
 他方、醜男のほうは出雲神の大国主の多数ある別名の一つとして、葦原醜男(あしはらのしこお)として登場する。葦原とは高天原と黄泉国との中間の世界、すなわち日本の国土を指し、この場合の醜男とは勇者を意味する。直訳すれば、「日本の勇者」という趣意で、大国主に対する一種の英雄称号である。
 「醜男」という文字にかかわらず、勇者を意味することから、別途「色許男」と真逆的とも言える表記をされることもある。実は、「醜女」も9代開化天皇の皇后とされる伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)のように「色許売」と表記される場合がある。
 伊迦賀色許売命は、この年代の天皇と同様に実在性を確証できない伝説的な人物ではあるが、正史上は8代孝元天皇の側室の一人であるとともに、開化天皇との間に御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる10代崇神天皇を産んだとされ、皇統上は重要な人物である。おそらく「色許売」にも、勇者に相応する女傑のような含意があるのだろう。
 このように、文字どおりなら容姿の醜悪さを示す悪名と思われる醜女/醜男が同時にポジティブな含意の別表記に置換されることもあるという事実は、醜形を単に劣等視するのでなく、むしろ強さやそこから湧出するある種の神秘的な色気(?)のような側面を両義的に表現しているようにも読み取れるのである。

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不具者の世界歴史(連載第2回)

2017-02-21 | 〆不具者の世界歴史

Ⅰ 神秘化の時代

先史人類と障碍者
 先史時代の人類が不具者をどのように待遇していたのかについては文字史料に欠けるため、決定的な確証はおそらく永久に得られないだろうが、出土した古人骨にかすかな手がかりが残されている。
 例えば絶滅種であるネアンデルタール人の人骨から介助を受けなければ生活できないほど重症の身体障碍を持ったものが発見されているが、かれらには死者を埋葬し、供花する慣習も認められ、ごく初歩的な宗教的意識が芽生えていたと考えられる。宗教的意識は人道主義の有力な発生源でもあるから、ネアンデルタール人は障碍を負った同胞を介護するような習慣を持っていたのではないかと推測することも可能である。
 現生人類についても、同種の事例がアメリカ大陸から中東、欧州、日本と世界の広い範囲で散見されている。想定される症例も、下半身麻痺から脊椎障碍、小人症まで多様である。またポリオ(急性灰白髄炎)が広く見られたようで、中東や日本の縄文時代前期の人骨の中からもポリオが疑われる事例が発見されているという。ポリオはウイルス性の脊髄・延髄疾患であり、後遺症として重篤な運動障碍を引き起こすことから、後天的に身体障碍者となり得る。
 全般に医療行為が存在しないか、存在しても呪術の域を出なかった先史時代には、病気の後遺症としての障碍は少なくなかったはずで、先史時代には障碍者は普通に存在していたとも推測できるところである。
 もちろん、そこから介護のような行為慣習の存在を直ちに想定できるわけではないが、多くの人骨が障碍を抱えたまま相当年数生きていたことが証明できることを考えると、何らかの介助を親族や同胞から受けていたと推測することは必ずしも飛躍的ではないだろう。
 少なくとも、障碍者に対する思いやりのような素朴な感情の芽生えは、歴史が始まる以前の相当早い段階から現生人類に生じていたと見られる。それは、歴史の黎明期には神話の中に形象化されていっただろう。

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不具者の世界歴史(連載第1回)

2017-02-20 | 〆不具者の世界歴史

序文 

 これまで通常の歴史叙述では脇役として付随的に言及されるにすぎないカテゴリーに属する「女」と「農民」を主役に据えた連載をものしてきたところであるが、その第三弾として「不具者」を取り上げるのが本連載である。
 「障碍者の歴史」といった類の書籍やウェブサイトであれば、近年散見されるが、当連載がいささか不穏当に「不具者の歴史」と銘打つことには、理由がある。
 ここに「不具者」とは、狭義の心身障碍者のみならず、容姿醜形者を含めた広い意味で、心身の機能や外形に欠陥ありとまなざされる者すべてを包括した最広義の総称概念である。とはいえ、「不具」という用語自体、すでに死語に近いものであり、不用意な言及は差別的とみなされかねない際どい単語であるが(差別語と断じる向きもあろう)、本連載ではあえてこの語をタイトルでも本文でも用いる。
 その理由として、本連載ではそうした被差別者を主人公とする世界歴史をできるだけありのままに描きたいからである。不具者は歴史の中で差別される存在であったことはたしかであるが、一方で神秘化されたり、不具者でありながら為政者となった例もあるなど、歴史の中におけるその存在性は複雑に両義的である。
 そのような複雑で両義的な不具者の歴史を俯瞰するうえでは、用語の矯正的な言い換えはあえてせず、現代的な言語慣習上は差別的とみなされかねない用語をあえて用いたほうがふさわしいと判断したのである。従って、如上のような特徴を持つ人々を差別する意図で叙述されるものではない。
 それにしても、容姿醜形のような曖昧で感覚的な概念まで拡張することには危うさも伴うが、拙連載『〈反差別〉練習帳』でも論じたように、あらゆる差別の出発点に容姿差別がある。人間は視覚的印象に頼る割合が極めて高い動物であるがゆえの悲しむべき帰結である(拙稿参照)。
 ただ、障碍とは異なり、容姿の評価尺度には文化的な差異もあるため、全世界的・歴史通貫的な共通基準は立てられないこともたしかであるが、それぞれの文化圏における尺度に基づいて判別された醜形はある種の外見的欠陥とみなされ、明らかな醜形者は不具者に準じた扱いをされるという点においては、全世界共通である。
 実際、歴史上の人物にも容姿醜悪と記録されたり、言い伝えられたりしている者は存在しているが、通常の歴史叙述では単なる付録的なトリビアとして等閑視されているにすぎない。しかし、本連載ではあえてそれを掘り起こして正面から取り上げていく。
 こうして、本連載は他にあまり類を見ないものとなるであろうが、これを通じて不具者の歴史的な存在性を明らかにし、ひいては差別を克服していく新しい歴史を切り拓くことにつなげることを究極の目的としている。

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異様な「蜜月」三角形

2017-02-12 | 時評

建国記念日なるものに格別の意味づけをする立場にはないが、いちおう法律上建国記念日として設定された日に国を代表する施政者はアメリカで大統領とゴルフ三昧。そんな国はおそらく日本以外になかろうが、それもほとんど問題とされないところに、日本と米国の本当の関係が投影されている。

現在、安倍政権はトランプ政権との蜜月関係構築に躍起となっており、そのことが戦後歴代首相の中でも最も愛国者を自認する(はずの)首相をして建国記念日に渡米ゴルフの決断をさせたのであろう。

周知のとおり、トランプ政権は人権無視の差別的入禁政策で内外の批判を浴びている状態であるが、それについては黙して、トランプ政権と蜜月関係を結びたがる日本は、国際社会からトランプ政権と同類の排外主義の国とみなされてもやむを得ないだろう。

そればかりではない。安倍政権は「麻薬犯罪者殺害政策」を掲げるフィリピンのドゥテルテ政権―果たしてトランプからも「評価」された―とも蜜月関係を結び、中国と競い合うようにして援助を拡大してみせた。「麻薬犯罪者殺害政策」を幇助するも同然であり、国際社会の視線はトランプ蜜月以上に厳しいものとなるだろう。

トランプといい、「フィリピンのトランプ」たるドゥテルテといい、21世紀的価値観からはかけ離れた人権無視の奇矯な政策を掲げて物議を醸す両首脳と安倍を結ぶ「蜜月」三角形は、日米同盟堅持とか歴史的な日比友好などの大義名分を立てたとしても、異様である。

しかし、国内ではこれを異様と見る人は少数でしかないようだ。深読みすれば、やはり日本国民の大方は人権感覚に乏しく、トランプやドゥテルテの同類ないしはシンパなのだろうか。そうは思いたくないのだが。

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農民の世界歴史(連載第31回)

2017-02-07 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(4)農業集団化と農村生活

 レーニン亡き後のソ連を継承したスターリン政権がネップ体制に代えて打ち出したのが、歴史上悪名高い農業集団化政策であった。その契機となったのは、1928年に生じた大規模な穀物流通の停滞であった。原因は農民たちの売り渋りにあった。
 政権は29年から30年にかけて全面的集団化と銘打った大々的な強権発動により、農地の接収と農業協同集団コルホーズへの強制加入が「自発性」の形を取った実質的な強制により断行された。当然にも、この迷惑千万な新政策に対して農民層は反発し、サボタージュで抵抗した。
 これに対して、政権は抵抗農民を反革命分子たる富農(クラーク)とみなし、「富農階級の絶滅」を大義名分にシベリア流刑や死刑を含む厳罰で臨んだ。こうした政策強行の結果、コルホーズ農場からの穀物調達量は漸次増加していったが、反面、農村は食糧難となり、30年代にはウクライナの穀倉地帯を中心に最大推定1000万人を越える犠牲を出した大飢饉が発生するなど、政策的副作用は反人道的な域に達していた。
 こうして抵抗の体力も奪われた農民にとって最後の手段はかつての農奴にならった集団逃亡であったが、これに対して政権はコルホーズ農民の移動の自由を制限する国内旅券制度で対抗した。これはまさに帝政ロシアが敷いていた農奴逃亡禁止策の社会主義版と言うべきものであった。
 こうして短期間で創設されたコルホーズでは厳しい作業ノルマが課せられ、生産物の自家消費や販売が禁止される代わりに、住宅付属地ではそれらが解禁されるという形で、ほとんど西洋中世の封建農地さながらの様相を呈した。
 このようにコルホーズを協同農場と付属地に分けて、付属地では税負担(農業税)を伴う市場取引を容認するという形で中途半端にネップ的な市場経済を存置したため、コルホーズの生産総力は伸び悩む一方、付属地でも重い税負担を回避して農民の生産意欲が減退するという二重の限界をさらした。
 他方、コルホーズとは別途、より大規模な国営農場ソフホーズも創設されたが、ソフホーズ農民は一個の労働者として各種年金が保障され、移動の自由も有しており、優遇されていた。しかしスターリン時代の農業集団化は取り急ぎコルホーズ中心に行なわれたため、ソフホーズは例外的であった。
 この構造が変化するのは、ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれた第二次大戦後の1960年代である。コルホーズ制度の限界に直面していた当時のフルシチョフ政権は新たな農地開拓と機械化に対応するため、農業集団化政策の比重をソフホーズに移したのであった。その結果、ソフホーズの割合が増大し、ソ連末期の1990年には集団農場の半分近くがソフホーズで占められるに至っていた。
 他方、コルホーズ農民にも年金が保障され、移動の自由も解禁されるようになり、総体として農民の労働者化が進んだ。最低限度の生活保障はなされ、かつてのような飢饉の不安は解消されたとはいえ、農村の生活は都市部ほどに豊かでなく、農民の離農・都市部への移住の波が起き、農業生産は新たな限界に直面した。
 こうしてコルホーズ/ソフホーズは生産効率が低いまま、社会保障をまかなうためにも国庫からの融資や補助金で維持されたため、財政無規律の元凶としてソ連体制を構造的に蝕んでいった。
 今日では、旧ソ連の農業集団化政策は歴史的誤りとして否定されているが、それでも、コルホーズ/ソフホーズは経営規模の小さな家族農に依存した農業の限界を超え、かつ食糧農業資本による資本主義的集約化とも異なる大規模営農の実験的試みとしての意義はあったと言える。しかしその最終帰結は、言わば国家を主体とする大土地所有制に近いものであった。

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農民の世界歴史(連載第30回)

2017-02-06 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(3)ロシア革命と農民

 帝政ロシア末期の革命運動体は農民に基盤を置こうとする社会革命党(ナロードニキ)と都市部の労働者に基盤を置く社会民主労働者党(後の共産党)の二大グループに収斂されていくが、後者の指導者として台頭するのが、レーニンである。
 レーニンは近代ロシアの革命家の中で、ナロードニキを経由することのなかった最初の世代と言われる(レーニンの兄はナロードニキ系活動家として皇帝暗殺謀議に関与したとされ、処刑されている)。とはいえ、当時なおロシア民衆の大多数を占めていた農民の存在を無視しての社会革命はあり得ない情勢であった。
 そこで、レーニンも早くから貧農を労働者とともに革命主体に加える「労農同盟」テーゼを打ち出し、貧農への情宣にも力を入れていた。しかし、これは草創期のナロードニキのように「民衆の中へ」入り込んでいくのではなく、外部からの呼びかけにより、いまだ資本主義的工業化が不十分なロシアにあって、早期のプロレタリア革命を実現しようというレーニン独自の革命戦略にほかならなかった。
 一方、当の農民たちもかつてのように一揆的な抗議行動を繰り出すばかりにはとどまっていなかった。帝政が打倒された1917年2月革命後は、多くの覚醒した農民がソヴィエト(民衆会議)に参加し、土地改革に消極的なブルジョワ革命政府を突き上げ、一部は地主館を襲撃し、地主所有地の自主的な分配という革命的な直接行動にも出ていた。
 実際、レーニンが政権を掌握した1917年10月革命は農民蜂起を内包しており、農民も大いに下支えしていたのだが、農民とレーニン政権との関係は微妙かつ警戒的なものであった。その点を意識してか、初期のレーニン政権は本来の綱領である土地国有化を棚上げし、当面は地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を指示している。
 しかし、まがりなりにも農民を代表していた社会革命党が排除され、反革命派の蜂起と外国の干渉による内戦・干渉戦が勃発すると、レーニンは農村に戦時穀物徴発令を発した。これを機に、農民層は反革命に転ずる。かれらは再び、帝政時代のように一揆的な抗議行動で徴発政策に反発した。
 1922年まで続いたロシア内/干渉戦は、ロシア農村に容易に修復し難い打撃を与えた。耕地面積は戦前の60パーセント程度まで減少・荒廃し、農業生産高も同40パーセントを割り込む有様であった。これに対し、レーニン政権は復興政策として「新経済政策」(ネップ)を打ち出し、農民に現物税を課しつつ、市場での穀物取引を認めた。
 これはレーニン自身「国家資本主義」と規定したように、国家が管理統制する市場経済であり、最大の狙いは農産物の供給不足を回復することにあったが、自身の食糧にも事欠く農民は安価で穀物を市場に流すはずはなく、所期の成果は上がらなかった。
 結局、農民とソ連共産党政権は良好な関係を築けないまま、レーニンは1924年に早世する。後を継いだのが古参幹部のヨシフ・スターリンであった。スターリン治下で農村生活は激変することになるが、その新局面については節を改めて見ることにする。

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