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近代革命の社会力学(連載第33回)

2019-10-28 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(4)フランス革命への呼応と暫定自治  
 ハイチ独立革命の初動では、黒人奴隷の間に定着したハイチ・ブードゥー教が大きな役割を果たしたわけであるが、実際に革命のプロセスが開始されると、ブードゥー教は背後に退き、本国フランス革命に触発された別の流れが生じる。  
 実際のところ、このような流れは1791年の武装蜂起の前から、中間層のムラートたちによって開始されていた。かれらはフランス革命後、本国革命政府に対し、まずは白人の血も引くムラートに白人と同等の権利を認めるよう求めたが、植民地当局はこれを拒否し、ムラートの権利要求を弾圧した。  
 このことも、91年の武装蜂起を誘発する一因となった。この頃に台頭したのが、有識奴隷のトゥーサン・ルーヴェルチュールである。彼は当初こそ白人農園主に従順な立場にいたが、反乱の拡大を見てこれに加わると、すぐに頭角を現し、かなり粗野だった奴隷反乱軍に訓練を施して革命軍に鍛え上げた。  
 トゥーサンは組織力にも優れ、ムラートや一部進歩派の白人とも連携しながら、北部一帯を制圧することに成功した。しかし、南部はムラートが陣取り、沿岸部は英国が横槍を入れる形で軍事介入し、占領していた。一方で、イスパニオラ島東部を植民地として持つスペインも波及を恐れて介入するという複雑な情勢下にあった。
 そうした中、92年に新たに着任したジロンド派のソントナ弁務官(総督)は、革命軍の軍事的勝利を条件に、奴隷制廃止を認めた。これを受けて、トゥーサンを事実上の指導者とする革命軍は、英国やスペインを撃退した。  
 とはいえ、南部にはアンドレ・リゴーを指導者とするムラートが半独立状態にあった。トゥーサンは1799年の軍事作戦により、この南部ムラート勢力を破り、サン‐ドマング全域の支配をようやく確立した。  
 しかし、トゥーサンをトップとするハイチ革命政府の立場はまだ不安定で、流動的であった。フランスも完全にサン‐ドマングから手を引いたわけではなく、フランスでの革命が現在進行中という情勢不安の中、サン‐ドマングの地位も宙吊りになっていたのだ。
 そうした中、トゥーサンは外交手腕も発揮する。流動的なフランスは脇に置き、英米との貿易協定という経済的利益を優先したのである。幸い、独立したばかりのアメリカはサン‐ドマングの革命に好意的で、特にハミルトン財務長官は後ろ盾のようになっていた。  
 トゥーサンは生まれたばかりのサン‐ドマング革命体制の経済基盤として、プランテーションの再建は必須と考えたため、逃亡し、または追放されていた白人農園主を呼び戻し、革命軍の黒人兵士たちを労働者として雇い入れることを認めた。  
 こうして内政外交面で一定の区切りがつくと、トゥーサンは東部のスペイン植民地(サントドミンゴ)に侵攻してこれを征服、ついにイスパニオラ島全島の支配権を確立した。こうして、世紀の変わった1801年、トゥーサンは初の自治憲法を制定する。
 しかし、この憲法ではトゥーサンを終身総督としたうえで、後継者(5年任期)を自ら指名でき、自由選挙による議会制度も容認しないなどの権威主義的な側面は、後のハイチ憲法にも影響を残した。  
 もちろん奴隷制は廃止されるも、プランテーション制を維持するため、奴隷に代わる小作農の移動の自由を制限するといった封建的な要素を残し、人権面でも先進的とは言い難く、カトリックを事実上の国教とした点も含め、フランス革命下の憲法より保守的・後退的な内容となった。  
 政体としても、いまだフランスの自治領という地位を脱しておらず、この1801年憲法体制は暫定的な性格が強いものであった。総体的に見て、ハイチ革命は立憲革命という点では弱さがあり、このことが完全な独立国家となった後も、ハイチの生来的な宿弊として付いて回ることになる。


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