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近代革命の社会力学(連載第24回)

2019-10-01 | 〆近代革命の社会力学

四 18世紀フランス革命

(5)君主一家処断への力学  
 18世紀フランス革命では、17世紀英国革命(清教徒革命)と同様、君主処刑というプロセスが発現したが、英国では時の君主チャールズ1世一人の処刑にとどまり、王妃や王子は訴追もされなかった。清教徒革命では国王と議会勢力の長い内戦が先行したため、その時期に王の家族はフランスへ亡命できたという事情もある。  
 フランス革命の場合は、国王側が武力鎮圧をためらい、内戦に進展せず、ルイ16世と家族は国内にとどまったまま、革命の波に呑まれる結果となった。先述したように、一家は「ベルサイユ行進」の後、別邸のテュイルリー宮殿に軟禁されていたが、1791年6月、一家は王妃マリー‐アントワネットの故郷オーストリアへの亡命を企てた。
 この亡命計画は、王妃主導で立てられた。テュイルリー宮殿での生活は監視下にあったとはいえ、緩やかな軟禁であったから、監視の目を盗み、変装して宮殿を脱出することに成功したものの、北東部の町ヴァレンヌに到着したところで発覚し、パリへ連れ戻された。  
 当時、高級貴族たちはすでに続々と海外へ亡命していたが、国王一家の亡命は貴族の亡命と同列とは受け取られず、反革命的策動として強く非難された。これにより、ルイ16世の威信は地に堕ちたとされる。しかし、この時点では国王の訴追と裁判を求める声はまだ主流化していなかった。
  しかし、いわゆるヴァレンヌ事件は革命をさらに深化させる契機となり、以後、立法議会の設置、さらに王権停止と共和制樹立、国民公会への移行という次なるプロセスが短期間に進行していく。国民公会で最初の主要議題となったのが、国王裁判であった。  
 これをめぐって、消極的なジロンド派と積極的な山岳派の対立が生じたことは前回述べたが、後者が台頭するに当たっては、ロベスピエールの右腕的存在だった議員サン‐ジュストの演説が効果的だったとされる。彼は、革命的共和制下では君主制そのものが罪であるから、国王個人でなく、君主制を裁くべきであると弁じて、支持を受けたのである。  
 この論でいけば、国王裁判は国王一人にとどまらず、君主制の要素である王族全体、少なくとも王妃や王子まで裁判にかけられるべきことになる。事実、王に続いて王妃マリー‐アントワネットも訴追されることになった。  
 ルイ16世に対する裁判は、実際のところ、「裁判」というよりは、国民公会による弾劾に近いものであった。その点、いちおう裁判官による裁判が行なわれた英国革命時のチャールズ1世裁判とは異質のものであった。ルイに対する有罪死刑判決は、国民公会の議決の形で示され、上訴も認めず、即時執行という不公正なものであった。  
 王妃に対する裁判は、いっそう疑わしいものであった。王妃は優柔不断な王を操縦する立場にあったが、国民公会側は提示された罪状を全面的に否認する王妃に対して立証することができず、拘束中の王太子に近親相姦被害の証言を強要するありさまであった。しかし、山岳派にとっては王妃も王と同罪であり、結局、王妃も死刑判決を受け、処刑された。  
 よりいっそう問題があったのは、王太子ルイの処遇であった。さすがに当時10歳に満たない王太子を裁判にかけることはできず、ルイに対しては裁判なしにタンプル塔に拘禁する状況が続いた。その間、恐怖政治の時期には山岳派内強硬派エベールによる虐待を伴う苛烈な革命的洗脳教育を受けて衰弱したルイは1795年、10歳で夭折した。  
 結果として、王太子も刑死(獄死)したに等しい結果となり、「君主制そのもの」を処罰するというサン‐ジュストの演説趣旨は達成されたとも言える。しかし、このような旧体制支配層に対する不公正かつ非人道的な報復的処断は、恐怖政治期の大粛清ともども、革命に悪のイメージを植えつける悪しき先例となっただろう。


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