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近代革命の社会力学(連載第324回)

2021-11-05 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(2)同時革命の動因:第二次インドシナ戦争
 インドシナ半島を構成するベトナム、ラオス、カンボジアの三国は、第二次大戦後、それぞれの経緯でフランスから独立を果たし、君主制のラオス、カンボジアに対し、ベトナムは独立・共和革命/戦争が1954年のジュネーブ協定でひとまず終結した後、北は親ソ社会主義、南は親米反共主義の南北分断国家となっていた。*カンボジアは、後述のように、1960年以降、半王政となる。
 インドシナ半島における新たな火種となるのは、ベトナムであった。北ベトナムの支配政党となったベトナム労働党と同党主席兼国家主席(元首)ホー・チ・ミンは、南北分断状況に対して強い不満を抱き、1959年、南ベトナム親米政権の転覆とベトナム統一を目指す方針を明確にした。
 これは単なる理念的な統一目標ではなく、「人民戦争」と銘打った現実の政策として追求されるものとなるが、南ベトナム側でもファシズムの性格を強めるゴ・ディン・ジエム独裁政権に対する党派を超えた反発が強まっていた。
 そのため、独立革命/戦争を担ったベトナム独立同盟会のうち南ベトナムに残留したグループを母体として、新たに南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成され、反共独裁政権に対する革命運動を開始した。
 これにより、冷戦時代特有の国際力学が作動し、フランスに代わって南ベトナム反共政権の新たな後ろ盾となったアメリカを中心とする西側と、NLFを支援する北ベトナム政権及びその支援国であるソ連・中国を中心とする東側の間での代理戦争としての性格を持つ内戦が勃発する。
 最終的にアメリカ及び南ベトナムが実質上敗戦し、南ベトナム首都サイゴンが陥落した後、北ベトナム主導による南北統一が成った1975年まで長期化したこの戦争は「ベトナム戦争」と通称されるが、そこには、今日のベトナム社会主義共和国につながるベトナム統一社会主義革命が内包されていた。
 一方、ラオスとカンボジアは伝統的な君主制国家としてひとまず穏健な独立を果たしていたわけであるが、ラオスでは、王統の対立も絡み、右派・中立派・左派の三派による内乱が1950年代から続き、北ベトナムと結ぶ社会主義の人民革命党の勢力が次第に増大する中、ベトナム戦争に巻き込まれる形で、裏戦場のようになっていた。
 カンボジアでは、1955年に国王をいったん退位したノロドム・シハヌークが1960年以降、国王を空位としつつ、元首として社会主義的政策を推進する特異な半王政を展開していたところ、1970年、シハヌークの親東側の姿勢を懸念する親米保守勢力のクーデターで失権した。
 その後、南ベトナムとアメリカの合同軍がカンボジア、ラオスに相次いで進攻したことで、ベトナム戦争はベトナムを越えてインドシナ半島全域に拡大された。そのため、この戦争は「第二次インドシナ戦争」に進展する。
 第二次インドシナ戦争は、ベトナム戦争を中核としながらも、戦線が拡大されたラオス、カンボジアを含めたインドシナ三国内での社会主義勢力と親米勢力の間での内戦を内包するという複雑な構造を持つ、歴史的にも同時代的にも他に完全な類例を見ないような複合戦争であり、それに伴う筆舌に尽くし難い人的犠牲もまた甚大なものであった。


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