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近代革命の社会力学(連載補遺22)

2022-09-29 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(1)概観
 東アジアでは日本の近代化革命である明治維新の直接的な余波事象はしばらく見られなかったが、朝鮮は1876年の日朝修好条規の締結以来、開国外圧となった日本との関わりが強化される中、長く続いてきた中国王朝(清朝)への封建的服属関係を維持するか、これを清算して独自の近代化を図るかで国論を二分する状況が生じた。
 この論争は、清朝との関係護持を主張する事大党と、清朝からの自立を図る独立党の党争として顕現してくるが、ここで言う「党」とは近代的な意味での政党ではなく、政見に基づいた政治的派閥を意味している。
 後者の独立党は日本遊学経験を持つ科挙官僚・金玉均に指導された両班階級の若手知識人を主体とする集団であり、この集団が日本軍の一部将兵の支援を受けつつ、事大党を排除して新体制を樹立するべく決起したのが1884年の甲申事変である。
 この決起は清朝軍の迅速な鎮圧により完全な失敗に終わったため、通称においては「革命」と称されず、単に「事変」(または「政変」)と称されているが、その内実は明治維新に範を取った革命(甲申維新)となるはずのものであった。そのため、ここでは未遂革命の事例として扱う。
 そのような視点で甲申事変を捉え直すと、それは君主制を打倒する共和革命ではなく、あくまでも君主制枠内での近代的開化を目指す革命であったと同時に、清朝への服属状態を脱することを目指す自立化革命としての性格を帯びたものであった。
 その点、君主制枠内での近代化革命という性格では明治維新の志向と共通するものがあるが、後者の自立化革命という性格は当時の朝鮮の地政学事情独自のものであり、「鎖国」政策下で独立を長く保持していた日本の明治維新には見られなかったものである。そのため、朝鮮の自立を恐れた清朝による軍事介入を招き、失敗に終わったのである。
 とはいえ、事変後、清朝の内政干渉が強まる中でも、朝鮮王朝はある程度の開化政策を導入していくが、国内での権力闘争の激化に加え、清国と日本、さらに極東進出を図るロシアなど欧州列強の思惑も絡み、朝鮮の自立的な近代化の過程は大きく制約され、最終的には、帝国化した日本への併合と植民地化という道へ収斂していくことになる。


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