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近代革命の社会力学(連載第118回)

2020-06-23 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(5)二月革命:共和革命
 立憲民主党のパーヴェル・ミリュコーフの国会演説により、最初に触発されたのは、労働者階級であった。かれらは大戦中から一種の労働者自治組織である戦時工業委員会を通じて凝集性を示し始めていたが、1917年1月、かれらが企画した民主的な臨時政府の樹立を求めるデモは、政府側の弾圧により不発に終わった。
 しかし、2月23日、女性労働者たちが国際婦人デー(グレゴリオ暦3月8日)に合わせてストライキとデモに入った。女性たちは、折からの食糧難に直面し、敏感になっていた。こうした女性の反乱は帝政にとっても死角であり、これを契機に労働者のゼネストが全国規模で広がっていった。
 こうして、暮らしに敏感な女性たちの「パンをよこせ」という決起が革命の道を開いたのは、18世紀フランス革命の力学と同様であった。異なるのは、フランス革命の口火を切った女性たちが主婦だったのに対し、ロシア革命では労働者であったことである。そのため、ロシア革命では労働者階級が初めから前面に躍り出ることになった。
 しかも、1917年のロシア労働者階級はゼネストに終始せず、1905年立憲革命当時に不十分ながら出現した新たな民衆的会議体ソヴィエトの樹立へと動いた。さしあたりは、当時の首都ペトログラードのソヴィエトが嚆矢となったが、その際に、指導性を発揮したのは、メンシェヴィキ党であった。
 メンシェヴィキの特徴は強力な指導者がなく、集団指導的であることだったが、この時はグルジア(ジョージア)出身で、メンシェヴィキの実質的なスポークスマン役であったニコライ・チヘイゼがペトログラード・ソヴィエトの執行委員長に就任した。
 一方、帝政側もこうした未然革命的な動きに対抗して、国会に臨時委員会を置き、立憲民主党のゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府を設置した。
 臨時政府は権威を失墜したニコライ2世に退位を求め、ニコライは実弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公への譲位を決定するが、彼は固辞した。リヴォフの臨時政府もミハイル大公の帝位継承に否定的であったため、結果的にロマノフ朝はあっけなく崩壊したのである。
 リヴォフの第一次臨時政府は基本的に王党派の政権であったにもかかわらず、帝政が崩壊したのは、大戦と革命という二つの国難に直面する中、もはや王党派もロマノフ朝の存続は断念せざるを得ないとの判断に傾いたからであろう。
 これ以降も、ロシアでは今日まで王政復古は起きていないことから、1917年2月(グレゴリオ暦3月)の革命は、ほぼ恒久的な効果を持つロシアにおける共和革命となった。しかし、共和政体の行方はまだ不透明であり、各派連合的な臨時政府の性格も未確定であった。
 他方、1917年革命におけるソヴィエトは1905年立憲革命当時よりも組織化され、特に労働者と兵士が連合し、強力な基盤を築いたことから、18世紀フランス革命当時の国民公会のような革命議会の様相を呈し、臨時政府との関係でも、二重権力状態となっていた。
 臨時政府にとっての喫緊課題は、戦争政策であった。臨時政府には革命前の進歩ブロックが要求していた戦勝のための政府という趣旨もあったため、戦争継続を目指していた。これに対し、多くの兵士も参加していたペトログラード・ソヴィエトは戦争継続に反対し、臨時政府と対立した。
 両者融和のため、5月に臨時政府が改造され、ソヴィエトからも数人が入閣する挙国一致連立政府となった。この新たな連立政府のもと、ドイツに対して大攻勢をしかけるも、かえって激しい反攻にあい、失敗した。
 この失策に反発した兵士や労働者らは7月に武装蜂起し、前月に第一回全ロシア・ソヴィエト大会で選出されたソヴィエト中央執行委員会の権力掌握を求めた。
 しかし、この時点で社会革命党とメンシェヴィキ党が過半数を握っていたソヴィエトはデモ隊の権力掌握要求に否定的であり、この七月蜂起は数日で臨時政府によって鎮圧され、新たな革命には進展しなかった。しかし、リヴォフ首相は引責辞職、陸海軍相のケレンスキーが新たな首相に就任した。
 この第二次連立政府は、ケレンスキーの属する社会革命党とメンシェヴィキ党が主導するものとなった。結果として、それ以前の立憲民主党その他穏健な自由主義派が主導していた臨時政府の性格が変わり、言わば「ソヴィエト内閣」となったことにより、従来の二重権力状態も止揚され、二月革命の大きな転換点となった。


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