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近代革命の社会力学(連載第133回)

2020-08-10 | 〆近代革命の社会力学

十八 ドイツ革命

(3)水兵反乱からレーテ革命へ
 前回指摘したように、ドイツ革命の導火線となったのは水兵の反乱であった。1918年10月、当時のドイツ海軍当局は、敗色濃厚な中、精鋭の大洋艦隊に出撃を命じたが、これに対し、約1000人の水兵が命令不服従のストライキで応じた。海軍は、これらの不服従者を命令違反のかどでバルト海に面したキール軍港に送還、拘束した。
 11月に入ると、拘束された水兵らに同乗した別部隊の水兵らが釈放を求めて決起したのに呼応して、労働者やその他の市民も加わった大規模なデモ行動に発展した。この動きはデモに終始せず、兵士と労働者から成る労兵評議会(レーテ)の結成に進展した。
 レーテはロシア革命におけるソヴィエトにならった民衆会議的な革命的会議体であり、レーテの結成によリ、水兵反乱は革命的な動きに向かった。この時、当時のバーデン帝国宰相は、事態鎮静化のため、連立政権に加わっていた社会民主党の有力議員グスタフ・ノスケを交渉役として派遣した。
 ところが、自身も労働者階級出自だったノスケは「ミイラ取りがミイラになる」の譬えどおり、レーテ側に寝返り、レーテ代表者に選出されてしまった。これにより、キール・レーテは影響力を増し、全国にレーテ結成の動きが急速に広がる。
 実際のところ、レーテは1918年夏には各地の兵士らがストライキの拠点として結成し始めていたのであるが、散発的な動きにとどまっていたところ、キールでは労働者の共感を得て、4万人規模に展開したことで、革命的な様相を呈したのである。
 こうした経緯から、ドイツのレーテはロシアのソヴィエトに比べて、兵士の主導性が高いことに特徴があり、短期のうちにキールから、全国各地に兵士レーテの設立が拡散していった。各帝国構成邦の当局側はこの動きを阻止できず、各地でレーテの正統性が承認されていった。
 こうして、レーテが一つの未然革命段階の対抗権力となっていくが、その流れが帝都ベルリンにまで及んだ時、ドイツ帝国はあっけなく終焉したのであった。11月9日、バーデン宰相は大規模なデモに直面する中、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を発表したうえ、社会民主党を主体とする人民委員会議に政権を譲った。
 帝都での革命過程は、無血にうちに進行した。これを契機に、帝国構成邦の君主が続々と退位していき、レーテを主体とする革命的共和制に置換されていったことから、「レーテ共和国」と呼ばれることもある。
 レーテ革命がこれほどあっさり成功を収めた背景として、歴史の浅い連邦国家であるドイツ帝国そのものの構造的な脆弱さがあった。その点は、集権制の帝政ロシアと異なり、皇帝はプロイセン王兼務、当時のバーデン帝国宰相自身も帝国を構成する小邦バーデンの大公家出身という状況であり、一貫性を持った王党派勢力が存在しなかった。


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