ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

サラエボ事件とW杯

2014-06-28 | 時評

第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件から、今日で100年。この100年で人類は何を学んだであろうか。

故国のオーストリア併合に反対するボスニアのセルビア人国粋主義者にオーストリア‐ハンガリー帝国の皇太子夫妻が射殺された同事件は、民族主義的な暴力の最も象徴的な表出であった。そこから派生した凄惨な世界戦争はナショナリズムの暴力性を教えたはずであった。

しかし、世界恐慌を経験した人類は大戦の教訓を生かせず、第二次世界大戦を防げなかった。しかし、第一次よりいっそう凄惨な第二次大戦の後、ようやく国際連合という平和保証体制を構築し、「冷戦」という危機はあったが、第三次世界大戦はどうにかここまで抑止してきた。

しかし、この間も局地的な民族戦争は防げなかった。まさにサラエボ事件舞台のボスニアは1990年代のユーゴスラビア内戦の最も凄惨な戦場となった。その後も、各地で民族紛争が続き、いわゆる先進国でも国粋的な潮流が頭をもたげている。東アジアは愛国主義の角突き合いの場となっている。国連の結束も、乱れがちである。

逆説的なことに、世界を一つにするインターネットが、ナショナリズム言説の拡散に大きく寄与し、20世紀後半期には一時盛んだったインターナショナリズムの思想や実践を脇に押しやっている。

人類は小さな集団ごとに分裂・抗争する性向を持つだけに、インターナショナリズムへのたゆまぬ努力が必要である。世界を一つにするために。

そこで、サラエボ事件とW杯である。二つの大戦の戦間期に創設されたサッカーW杯は国別対抗方式であるだけに、否が応でもお国びいき、ナショナリズムの熱気を煽り、たかがゲームとはいえ、ある種の世界大戦的雰囲気を作り出す。 

一方で、内戦終結後、初めてボスニア‐ヘルツェゴヴィナが民族混成チームでW杯初出場を果たし、民族和解に一役買ったように、国際スポーツ大会が民族主義の克服につながることもある。

そういう両面性を考慮し、W杯のような国際スポーツ大会をスポーツの「世界大戦」にせず、インターナショナリズムと結びつける何らかの改革策も考えるべき時であろう。 

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旧ソ連憲法評注(連載第5回)

2014-06-28 | 〆旧ソ連憲法評注

第十三条

1 勤労所得がソ連市民の個人的所有の基礎である。個人財産となることができるものは、家庭用品、個人的な必要品および便益品、家庭副業用品、住宅ならびに勤労による貯金である。市民の個人財産およびその相続権は、国家の保護をうける。

2 市民は、法律の定める手続きにより、副業経営(家畜および家禽の飼育をふくむ)、園芸および野菜栽培をいとなむため、ならびに個人住宅の建設のために供与される土地を利用できる。市民は供与された土地を合理的に利用する義務をおう。国家およびコルホーズは、市民が副業経営をいとなむことを援助する。

3 市民は個人的に所有または利用する財産を不労所得をえることに使い、これを利用して社会に存在をあたえてはならない。

 本条は、個人財産制度に関する規定である。第一項にあるように、勤労所得と住宅その他の日常生活に必要な生活財は、社会主義経済の下でも個人に帰属し、相続も認められていた。そのため、次条に見られる応能・成果給制度とあいまって、資本主義と同様の所得・資産格差を生じさせていた。第二項で副業の権利をわざわざ憲法上認めて、生活の足しにすることを推奨せざるを得なかったゆえんである。
 第三項は、例えば所有する住宅を個人的に賃貸するなどして不労所得で生活することを許さない規定であり、第一項とセットで、稼得労働を基礎とする社会主義的な個人財産のあり方を示している。

第十四条

1 社会の富の増大ならびに人民および一人ひとりのソヴィエト人の福祉の向上の源泉は、ソヴィエト人の、搾取から自由な労働である。

2 「各人はその能力におうじて、各人へはその働きにおうじて」という社会主義の原則にしたがい、国家は、労働および消費の尺度を規制する。国家は課税される所得の税率を定める。

3 社会的有用労働とその結果が、社会における人間の地位を決める。国家は、物質的刺激と道徳的刺激とを結合し、仕事にたいする革新と創造的取組みを奨励し、労働が一人ひとりのソヴィエト人の生活の第一的な欲求に転化することを促進する。

 本条は、個人的所有の基礎が勤労所得にあるとする前条に引き続いて、労働が社会的発展と福祉の向上の源泉であることを宣言する。その労働と消費は第二項にあるように、能力・成果によって評価されることから、結果として資本家が羨望する搾取的な応能・成果給制度を導き出した。それによって働く意欲が低下しかねないことを、第三項第二文にあるように、国家による政策的な労働意欲の促進―労働規律強化―で補おうという趣旨である。
 第二項で「社会主義の原則」とされている「各人はその能力におうじて(働き)、各人へはその働きにおうじて(分配する)」は、「各人はその能力におうじて(働き)、各人へはその必要におうじて(分配する)」という共産主義的な労働・消費原則の後半部分を都合よくすりかえたもので、要するに労働時間の外延的延長で搾取する資本主義に対して、成果主義と規律強化による労働時間の内包的延長で搾取するのがソ連式社会主義労働であり、両者の相違は搾取の方法論の差にすぎない。第二項第二文が規定する所得税制度も、所得格差を前提とした資本主義的な税制である。
 なお、第三項第一文で、社会的有用労働とその結果を人間の社会的評価の尺度としているのは、稼得労働とは別に政治活動に従事する共産党員の優越的地位を滲ませる暗示規定である。

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旧ソ連憲法評注(連載第4回)

2014-06-27 | 〆旧ソ連憲法評注

第二章 経済システム

 政治システムに関する第一章に続く本章は、ソ連共産党を頂点に置く政治構造の土台となる社会主義的な経済構造について定めている。その内容は大きく分けて、所有制度、個人財産・労働・消費、生産方式の三部から成り、ソ連型社会主義経済の全体構造が俯瞰されている。

第十条

1 ソ連の経済システムの基礎は、国有(全人民的)財産およびコルホーズ・協同組合の財産の形態をとる生産手段の社会主義的所有である。

2 労働組合その他の社会団体の、その規約の定める任務の実現に必要な財産も、社会主義的財産である。

3 国家は、社会主義的財産を保護し、その増大の条件をつくる。

4 いかなる者も、個人的利得その他の私欲のために社会主義的財産を利用する権利をもたない。

 本条は、社会主義経済の法的基礎となる社会主義的所有の諸原則を定めている。このように実質的な生産方式より法的な所有権規定が先行するのは、いささかブルジョワ憲法的な構成と言える。
 第一項及び第二項にあるように、社会主義的所有は、国家・協同組合・社会諸団体の各レベルで多元的に認められていたが、それら社会主義的財産の保護責任という形での管理権限は、第三項にあるように国家に与えられていた。
 第四項は、社会主義的財産の私的流用を禁止する条項であるが、このような条項があえて付加されているということは、党や企業幹部らによる社会主義的財産の横領事犯が跡を絶たなかったことを裏書きしている。

第十一条

1 国有財産は、全ソヴィエト人民の共同の資産であり、社会主義的所有の基本的形態である。

2 国家だけが、土地、地下資源、水資源および森林を所有する。国家は、工業、建設および農業における基本的生産手段、運輸手段、通信手段、銀行、国家の組織した商業企業、公益企業およびその他の企業の財産、都市の基本的住宅資産ならびに国家の任務の遂行のために必要なその他の財産を所有する。

 前条で総覧された社会主義的所有形態の中でも、最も主要な国家的所有の具体的な規定である。第二項第一文にあるように、土地をはじめとする広い意味での天然資源は、国家に専有されていた。さらに、第二文では、いわゆる基幹産業の国有化が規定されている。注目すべきは、国家は商業企業をも組織化するということである。こうして国家を総資本家の地位に置くことが(国家中心社会主義)、ソ連型社会主義体制であった。

第十二条

1 コルホーズその他の協同組合およびその統合体は、その定款の定める任務の実現に必要な生産手段その他の財産を所有する。

2 コルホーズは、その占有する土地の無料、無制限の利用を保証される。

3 国家は、コルホーズ・協同組合的所有の発展およびその国家的所有への接近を促進する。

4 コルホーズその他の土地利用者は、土地を効果的に利用し、それを大切にとりあつかい、その肥沃度をたかめる義務をおう。

 本条は、社会主義的所有の中で、国家的所有に次ぐ協同組合的所有について規定している。協同組合の中でも特に中心を成したコルホーズ(農協)は、第四項で課せられる土地の効果的利用等の義務と引き換えに、第二項で国が所有する土地(農地)の無償・無制限の利用権を保証されていた。
 第三項は、協同組合的所有の国家的所有への吸収を目指す規定であり、多元的所有といいながらも、国家的所有の優位性が前提にあったことの証左であり、ここにも国家中心社会主義の特質が滲み出ている。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(2)

2014-06-26 | 〆リベラリストとの対話

0:序説的対論(下)

リベラリスト:「自由な共産主義」という概念で気になるのは、「共産主義」という用語がどうしても旧ソ連やその旧同盟諸国で起きていたこと、そして現在共産党が支配している諸国で起きていることを連想させるため、「自由な」という形容詞と不調和になってしまうことです。

コミュニスト:私もその点を考慮して、それらの共産党支配体制が掲げる共産主義は真の共産主義ではないことを強調しつつ、そうした自称共産主義体制の政策とは非常にかけ離れた政策を提示したつもりです。

リベラリスト:それは理解します。ですが、一度染み付いたイメージはなかなか拭い切れないもので、「共産主義」と聞いてしまうと、それだけで耳を塞ぐ米国人も存在するでしょう。用語でも、普及させるためには、ある種のイメージ戦略は必要だと思いますね。

コミュニスト:実のところ、私も「共産主義」という言葉を使うべきかどうか、迷いました。この点、漢字の同音異字を生かして、「協産主義」という造語も検討したのですが、英訳しようとすると、適語が見当たらず、結局断念したのです。

リベラリスト:そうでしたか。私の見るところ、「自由な共産主義」はマルクス主義よりアナーキズムの影響のほうが強いように思えるので、はっきりアナーキズムを名乗ることも一考に値するように思うのですが。

コミュニスト:お言葉ですが、それはできません。アナーキズムは政治思想の側面が強く、生産様式に関してはあいまいにされているからです。やはり社会の軸となる生産様式の問題に踏み込むためには、「共産」の文字はいかにイメージが悪かろうと、落とせないように思います。

リベラリスト:前回も指摘したことですが、「自由な共産主義」はアメリカインディアンの思想に近いことに着目して、「インディアン主義」とでも名乗ってみては。

コミュニスト:興味深いご指摘ではありますが、アメリカインディアンの思想に共産主義的な要素があるとしても、それは原始共産主義に近いものだと思います。「自由な共産主義」はあくまでも、工業化・情報化という近代の所産を基盤に成り立つものですから、現代的共産主義でなければなりません。その点で、インディアン思想と直結させることには、抵抗を覚えます。

リベラリスト:貨幣も国家も否定するのに、「現代的」というのも、逆説的なアイロニーに聞こえます。

コミュニスト:近代的な所産を全否定するという単純で狂信的な思想ではなく、それを乗り超えていくというポストモダン的な共産主義と言えば、必ずしも逆説ではないと思います。

リベラリスト:そう言えば、「自由な共産主義」には一昔前のポストモダン理論からの影響も感じられますね。ということは、近代的な資本主義や議会制民主主義も全否定はしないということですね。

コミュニスト:そうです。資本主義のプラス面は認めますし、議会制民主主義の歴史的な貢献も認めたうえで、それらを乗り超えて次の段階に進もうという趣旨なのです。

リベラリスト:私としては、共産主義について対論する前に、資本主義のプラス面や議会制民主主義の歴史的な貢献について、もっと聞かせて欲しいですね。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(1)

2014-06-26 | 〆リベラリストとの対話

0:序説的対論(上)

コミュニスト:リベラリストさん、今回はお忙しいところ、拙論『共産論』をめぐる対談のため、お相手となっていただき、ありがとうございます。米国人と共産主義について語り合うめったにない機会を与えていただき、光栄です。

リベラリスト:私も、今回対談相手に選んでいただき、光栄です。あなたの『共産論』の中で「自由な共産主義」とか「アメリカ共産主義革命」といった概念を非常に興味深く思っており、対談を楽しみにしております。

コミュニスト:早速ですが、「自由な共産主義」というものに対する率直なご感想を。

リベラリスト:「自由な共産主義」という概念は、共産主義に対する一般の米国人の常識を破る非常に興味深いものだと思いますが、それだけにこの概念を本当に理解することに、一般の米国人は苦労するでしょう。私もここで言う「自由」の意味が今一つ理解できていないのです。

コミュニスト:ここで言う自由とは、単に好き勝手なことができるという意味ではなく、「・・・がない」というような意味です。英語のfreeには、こうした用法がありますよね。「自由な共産主義(=free communism)」のfreeは、特に貨幣と国家がないことを暗示しています。つまり、共産主義社会では人は貨幣と国家から解放され、自由になるのです。

リベラリスト:なるほど。しかし、そうなると、かえって不自由もあるのではないでしょうか。特に貨幣経済がなくなり、計画経済となることで、経済活動は大きく制約されます。このことは、建国以来自由経済に慣れた米国人にはむしろ「不自由」と映るでしょうね。

コミュニスト:計画経済といっても、旧ソ連のように国家の行政機関が計画して指令するというものではなくて、生産企業体自身が共同的に計画して実行する経済ですから、その点ではいわゆる「統制経済」とは本質的に異なるものです。ある意味では、「自由な計画経済」とも言えます。

リベラリスト:なるほど。それは、言わば経済界全体で生産調整をするようなものですね。資本主義経済の下でも、極めて重大な経済危機に瀕した時には、そうした全体調整をすることも例外的にはあり得ますが、そのような例外状況を日常化してしまおうという大胆な発想と思われます。

コミュニスト:計画経済というのは、単なる「調整」ではなく、「計画」ですから、規範性を持つ経済計画に基づいて生産活動が実行されるのですが、たしかに比喩としてはおっしゃるとおりかもしれません。

リベラリスト:規範性というと、そこにはやはり統制的な要素もあるということですよね。

コミュニスト:しかし、法律のような固い規範ではなく、随時修正可能な柔軟な規範です。

リベラリスト:おそらく、米国人にとっては、貨幣より国家から解放されるという話のほうがポジティブに受け取れるでしょう。米国人は建国以来、政府の役割をあまり重視しません。政府は必要悪としか考えないので、なくて済むならないほうが良いという考えです。

コミュニスト:そうですか。ただ、ここで言う国家なき社会運営とは民衆会議という会議体を通じた統治のことですから、単なる無政府主義=アナーキズムとは異なることにご注意ください。

リベラリスト:わかりました。ふと思ったのですが、あなたの構想は、「土地は無主物」という理論といい、民衆会議による直接統治論といい、アメリカインディアンの伝統思想に近いような気がするのですが。

コミュニスト:直接参照したわけではなかったのですが、結果としておっしゃるとおりであることに気がつきました。

リベラリスト:言わば、「インディアン共産主義」といったところですか。それも興味深いですね。この対談がますます楽しみになってきました。

※本記事は架空の対談によって構成されています。

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世界共産党史(連載第13回)

2014-06-24 | 〆世界共産党史

第6章 アジア諸国共産党の功罪

3:文化大革命とカンボジア大虐殺
 共産党が成功を収めたアジアでは、それゆえに共産党が犯した歴史的な誤りも見られた。その一つは、60年代後半から70年代半ばの中国社会を混乱に陥れた「文化大革命」(文革)であった。
 これは毛沢東の晩年期に早くも資本主義への接近を示す改革派が中国共産党の実権を握ったことに端を発し、毛やその側近の保守派がこれら改革派排除を狙って仕掛けた大規模な粛清キャンペーンであり、スターリン時代のソ連で起きたような、言わば中国版大粛清であった。
 しかし、その社会的な広がりが尋常でなかった。スターリンの大粛清とは異なり、文革はその名に象徴されるとおり、単なる党内粛清ではなく、文化を根こそぎ変革するという趣旨で、一般民衆をも動員する大衆運動としても展開されたため、社会総体を巻き込んでいった。この時期には毛親衛隊として結成された紅衛兵が跋扈、横暴を極め、教育制度を含む社会的諸制度の多くが正常な機能を停止した。
 この戦後中国にとっての歴史的なトラウマを形成する大粛清は、76年の毛の死去後、党内クーデターにより毛側近「四人組」が逮捕されてようやく終息に向かったが、その全容はいまだ解明されておらず、1000万人以上とも言われる正確な粛清犠牲者数もなお不明である。
 こうした文革をよりいっそう狂信的な形で組織的に実行したのが、カンボジアで75年から79年まで政権を握ったクメール・ルージュ(カンプチア共産党)であった。クメール・ルージュが政権に就いたのは、後で述べる近隣のベトナム、ラオスでも発生したインドシナ連続革命の一環であったが、ポル・ポトに指導されたクメール・ルージュは毛沢東主義に強く傾斜していた。
 かれらは、資本主義と言わず、西洋文明そのものを否定し去り、農業を軸とした原始共産主義社会の建設というイデオロギーを奉じ、実際に都市文明を破壊し、知識人を大量殺戮した。また都市住民を農村に送り、過酷な農作業に従事させるなどし、大量の死者を出した。これはもはや大粛清にとどまらない、大虐殺の域に達していた。
 こうした極端な農本主義政策の現実的な背景として、インドシナ戦争の過程での米軍による農村爆撃でカンボジアの主産業であった農業生産が壊滅的な打撃を受けていたこともあり、米国の間接的な責任も免れない。
 クメール・ルージュ政権は79年のベトナム軍の侵攻によって終わったが、その政策は約4年の間に、当時人口600万人ほどの国で最大170万人とも言われる犠牲者を出し、特に知識人が絶滅対象となったことから、現在に至るまで、社会的な諸制度の運営に支障を来たす後遺症を残した。
 この二つの国家的悲劇は、いずれもスターリン主義のアジア的・農本主義的な発現と見ることもできる。同時に、それは各国の共産党組織に共通する激越な理論闘争、異分子排除、首領制といった非民主的な要素の極端な現れでもあったと言える。

4:インドシナ同時革命
 先に述べたように、カンボジア大虐殺の実行者となったクメール・ルージュの支配は、70年代半ばにおけるインドシナ三国で起きた同時革命の一環でもあった。
 インドシナでは戦後、ベトナムがホー・チ・ミンを中心に独立すると、間もなく他名称共産党としての労働党を支配政党とする社会主義体制が樹立された。しかし、第一次インドシナ戦争の結果、南部が反共・親米の南ベトナムとして分離され、南北分断国家となると、北ベトナムは南ベトナムの解放を掲げて南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を支援したことから、米国はドミノ倒し的な共産主義の拡散を抑止するという「ドミノ理論」に基づき、インドシナ半島全域への介入に踏み切る。
 この頃、近隣のラオスでも王党派と共産主義を掲げるパテート・ラオに中立派を加えた三派が内戦に突入しており、北ベトナムと米国双方がこれに介入していた。ベトナム戦争に巻き込まれたカンボジアでも70年のクーデターで親米軍事政権が樹立されると、これに反対するクメール・ルージュが勢力を拡大し、米軍に支援された政府軍との内戦に突入する。
 このような戦線の拡大から第二次インドシナ戦争とも呼ばれたベトナム戦争が、北ベトナムの事実上の勝利という形で終結し、南ベトナムの首都サイゴンが陥落すると、それに前後して、カンボジア、ラオスでも共産主義勢力が政権を掌握した。カンボジアでは先述したとおり、クメール・ルージュの大虐殺が始まるが、ラオスでは人民革命党(他名称共産党)の一党支配体制が構築された。
 南北統一後のベトナムは、労働党から改称された共産党による全国規模の一党支配体制が樹立されるが、79年には国境紛争を抱えていたカンボジアに侵攻し、クメール・ルージュを駆逐して親ベトナムの人民革命党(穏健な他名称共産党)政権に建て替えた。これによりクメール・ルージュを支援する中国との関係が悪化し、両者は軍事衝突に至った。
 こうして、ベトナム戦争後のインドシナ三国ではまさにドミノ倒し的な同時革命により共産党支配体制が樹立されていったのである。 
 その後、カンボジアでは人民革命党政権とゲリラ組織化したクメール・ルージュを中心とする反政府勢力の間で内戦が続くが、92年の和平後、憲法上は立憲君主制の下での複数政党制による議会制民主主義に移行した。しかし、共産主義を放棄し、人民革命党から改称した人民党はファッショ傾向を強めつつ、なお支配政党であり続けている。

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世界共産党史(連載第12回)

2014-06-23 | 〆世界共産党史

第6章 アジア諸国共産党の功罪

1:共産党の成功
 アジア地域は、全般に共産党が最も成功し、定着した地域と言える。その理由をひとことでまとめることは容易でないが、中央指導部を頂点とした垂直構造の権威主義的な党運営は元来権威主義的な文化を持つアジアの政治風土にマッチしたということが考えられる。
 実際、現時点でも中国、ベトナムが強固な共産党支配体制を維持しており、ラオスも他名称共産党(人民革命党)が支配する。(北)朝鮮も近年共産主義を党規約から削除するまでは、他名称共産党(労働党)が支配する体制であったが、政体上はなお共産党一党支配に準じている。
 共産党は共産主義的無神論と鋭く対立するイスラーム圏にも広く波及した。中でもインドネシア共産党はアジアで最初に結成された合法的な共産党であり、独立後の政治でも主要な勢力となった。
 共産党があまり定着しなかった中東でも、1950年代にはイラクで共産党が連合政権の形で与党となった。1967年に英国から独立した旧南イエメンでは、他名称共産党である社会主義者党が90年の南北イエメン統合まで、アラブ世界で唯一マルクス‐レーニン主義を掲げる一党支配体制を維持した。パレスチナ解放闘争では、共産党という形ではないが、マルクス‐レーニン主義を掲げる左派組織が過激な武装闘争を展開した。
 アフガニスタンでは、他名称共産党である人民民主党が1979年の革命で、親ソ政権を樹立した。しかし、この政権はその後、内紛に乗じたソ連の軍事介入下でイスラーム勢力との10年以上に及ぶ内戦に突入し、ソ連解体後の92年に崩壊した。
 議会政党としての成功例は南アジアに見られ、インド共産党(マルクス主義派)は議会で地歩を築き、一部の州レベルで長期政権を担った。南アジアの最貧国ネパールでは90年代の専制王政に対する民主化運動の過程で、分裂状態だった共産党が統一され、2008年の共和制移行後は二大政党の一つに台頭している。野党勢力としては、日本共産党も議会政治に定着している。
 アメリカの影響から反共主義の気風の強いフィリピンでは共産党は69年以降、毛沢東主義の武装ゲリラ活動を展開している。毛沢東主義はネパールでも強力で、貧しい農村を支配して武装革命闘争を展開した共産党毛沢東主義派は共和制以降後、議会主義に転じ、08年総選挙で第一党となって首相を出し、穏健な共産党マルクス‐レーニン主義派とともに連立政権を発足させた。その後も毛派は統一共産党に次ぐ共産系政党として議会政治で地歩を築いている。
 インドでも、遅れて04年に結成されたインド共産党毛沢東主義派は貧しい農村を拠点に急速に支持を拡大して武装ゲリラ活動を展開、2010年代になって政府治安部隊による掃討作戦が活発化するなど、インドの国内治安を脅かす存在となっている。
 こうしたアジアにおける共産党の成功は時に体制による弾圧を招くこともあった。その最も悲劇的な例は、インドネシア共産党に対する軍部による大弾圧である。
 先に述べたように、インドネシア共産党は独立後、民族主義・イスラーム主義・共産主義三者の融和を説く初代スカルノ大統領の下で有力な政治勢力であったが、65年に共産党に近いとされた左派系軍人の起こしたクーデター事件(9月30日事件)が軍部主流によって鎮圧された後、事件の背後にあるとみなされた共産党を壊滅させる目的から、大々的な共産党員狩りが全土で展開された。これにより共産党シンパとみなされた者を含め、100万人が殺害されたとも言われるが、今なお真相は不明である。

2:ジャパノコミュニズム
 日本共産党は、アジアの共産党中でも独自の軌跡をたどった。元来はコミンテルンの傘下にソ連共産党と密接であったが、戦後はいち早くソ連離れをしていく。戦後占領下での党員公職追放が解除された後、宮本顕治が実権を握った50年代以降は武装革命路線を放棄し、議会政治への参加を追求した。
 ハンガリー動乱、チェコ侵攻、核実験とソ連が覇権主義的な傾向を強めると、日本共産党は平和主義の立場から次第に公然とソ連批判を展開し、ソ連共産党とは明確に対立的な関係となった。その後の中ソ対立期には、中国共産党とも距離を置き、自主独立路線を採る。
 こうした議会を通じた社会主義の展望という路線はユーロコミュニズムに近いが、冷戦期のユーロコミュニズムがNATOを容認して事実上西側陣営に吸収されていったのとは一線を画し、日本国憲法9条の非武装平和主義を擁護し、非同盟中立に軸を置いた点で日本共産党独自の、言わばジャパノコミュニズムの特質を持つ。こうした路線確立の過程では、激しい分派抗争を生むと同時に、国際共産主義との連携が希薄となり、一国共産党として孤立的な存在となった。
 しかし、地域福祉活動に根差した選挙戦術によって、地方政治では確実に地歩を築き、70年代には国政でも社会党に次ぐ野党第二党に躍進した。80年代以降は退潮傾向が見られるものの、ソ連解体後も、ユーロコミュニズムの旗手だったイタリア共産党のように党名変更(事実上消滅)することもなく存続している。近年は中国共産党との関係改善・接近傾向も見られる。

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老子超解・目次

2014-06-22 | 〆老子超解

本連載は終了致しました。下記目次各ページ(リンク)より別ブログに掲載された全記事(補訂版)をご覧いただけます。

序文 ページ1

哲理篇

第一章 四つの大 ページ2

第二章 小なる大 ページ3

第三章 始制有名 ページ4

第四章 玄について ページ5

第五章 道の女性性 ページ6

第六章 物質としての道 ページ7

第七章 道の性質 ページ8

第八章 真空としての道 ページ9

第九章 無について ページ10

第十章 無の効用 ページ11

第十一章 万物相同 ページ12

第十二章 一の体得 ページ13

第十三章 儒教批判 ページ14

第十四章 実と華 ページ15

第十五章 道と徳 ページ16

第十六章 水のごとき善 ページ17

第十七章 同ずること ページ18

第十八章 玄同について ページ19

第十九章 感覚遮断 ページ20

第二十章 抱一について ページ21

第二十一章 含徳について ページ22

第二十二章 復帰について ページ23

第二十三章 襲常について ページ24

第二十四章 知の無知 ページ25

第二十五章 道の実践者 ページ26

第二十六章 道の利益 ページ27

第二十七章 無為・無事・無味 ページ28

第二十八章 無為の効用 ページ29

第二十九章 天網恢恢 ページ30

第三十章 知少について ページ31

第三十一章 無私について ページ32

第三十二章 自知自勝 ページ33

第三十三章 知足知止 ページ34

第三十四章 持満の戒 ページ35

第三十五章 余食贅行の戒 ページ36

第三十六章 曲全の処世 ページ37

第三十七章 柔弱の優位性 ページ38

第三十八章 強梁の戒 ページ39

第三十九章 生命執着の戒 ページ40

第四十章 孤高の詩 ページ41

第四十一章 被褐懐玉 ページ42

第四十二章 老子的三宝 ページ43

第四十三章 真なるもの ページ44

第四十四章 信言不美 ページ45

第四十五章 救人救物の妙 ページ46

第四十六章 大器晩成 ページ47

第四十七章 身から天下へ ページ48

政論篇

第四十八章 道に基づく政治 ページ49

第四十九章 無為の政治;意義(一) ページ50

第五十章 無為の政治;意義(二) ページ51

第五十一章 無為の政治;効用 ページ52

第五十二章 反儒教政治 ページ53

第五十三章 非仁愛政治 ページ54

第五十四章 無心の政治 ページ55

第五十五章 悶悶たる政治 ページ56

第五十六章 嗇の政治 ページ57

第五十七章 道に基づく政治―総括 ページ58

第五十八章 反圧政 ページ59

第五十九章 反収奪 ページ60

第六十章 反死刑 ページ61

第六十一章 反和解 ページ62

第六十二章 政教帰一 ページ63

第六十三章 為政者の等級 ページ64 

第六十四章 為政者の条件 ページ65 

第六十五章 軽挙妄動の戒 ページ66

第六十六章 不争の徳 ページ67

第六十七章 謙下不争の指導 ページ68

第六十八章 大なる切断 ページ69

第六十九章 真の為政者 ページ70

第七十章 大国と小国 ページ71

第七十一章 平和と戦争 ページ72

第七十二章 反軍国 ページ73

第七十三章 不祥の用具 ページ74

第七十四章 十歩後退 ページ75

第七十五章 反私有制 ページ76

第七十六章 自然の衡平さ ページ77

第七十七章 天下往く ページ78

第七十八章 無事革命 ページ79

第七十九章 権謀術数の戒 ページ80

第八十章 与えて奪え ページ81

第八十一章 小国寡民 ページ82

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ビン・ラディン以上

2014-06-15 | 時評

第二のビン・ラディン―。イラクで進撃を続け、首都を窺うまでになっているイスラーム原理主義組織「イラクとシャームのイスラーム国」指導者のアブ·バクル·アル·バグダディ師は、今やそう呼ばれている。

だが、彼が率いる組織は、米軍が法に基づかずに事実上処刑した初代ビン・ラディンのアルカイダとは異なり、明確に「国」を名乗っている。よって、これは単純な武装過激派集団ではなく、明確にイスラーム国家樹立を目指す革命組織と言えるだろう。

この組織は、シリア内戦にも参戦して戦闘能力をつけた後、出身地イラクの政情不安を利用して、ひとまずイラクで武装革命によるイスラーム国家の樹立を目指しているようである。となると、バグダディ師はビン・ラディン以上の存在となり得る人物である。実際、彼は本記事から2週間後、「カリフ」就任を宣言した。

これが、10年前のイラク戦争及び近時のシリア介入の結末である。欧米の介入があったところ、内戦と過激派を生み出す。これは、東欧のウクライナを含め、ほぼ法則と言ってよい。

元来イラクとシリアは対立的ながら、共に世俗主義のバース党社会主義独裁政権が長く統治してきたが、これを嫌悪する欧米は武力で介入し、イラクの政権は打倒、シリアの政権についても打倒を目指している。

欧米は隣接する両国に議会制と資本制のセットを移植して、自国資本の進出先にしようと目論んでいるわけだが、その目論見は完全に外れている。

元来、宗派対立の激しい中東で議会制党派政治を安易に導入すれば、戦後イラクのように政党は宗派別に形成され、多数宗派の支配が強まる。それは市場経済化に伴う経済的利権も絡んで宗派対立を激化させる。弊害を伴いつつも、社会主義独裁体制が強制安定化装置となってきたことには理由があるのだ。

そうした中東の特殊性を無視して、欧米式の政治経済構造の強制を性急に目論むことで、かえってイスラーム原理主義という欧米が最も望まない体制の出現を見ようとしているのだ。

そろそろ欧米も気がついてよい頃だが、欧米の経済的覇権主義と中東の政治的過激主義は共に社会主義を忌避し、互いを利用し合う敵対的共犯者関係に立っている。この共犯行為による犠牲者は、中東の一般民衆である。

ちなみに、日本の集団的自衛権が解禁されれば、イラクに現実にイスラーム原理主義国家が樹立され、石油権益防衛を図る欧米がこれに対する戦争を開始した場合、集団的自衛権に基づき、日本自衛隊が参戦するという事態も想定される。 

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旧ソ連憲法評注(連載第3回)

2014-06-14 | 〆旧ソ連憲法評注

第六条

1 ソヴィエト社会の指導力および先導力ならびにその政治システムおよび国家的組織と社会団体の中核は、ソヴィエト連邦共産党である。ソ連共産党は人民のために存在し、人民に奉仕する。

2 マルクス・レーニン主義の理論で武装した共産党は、社会の発展の総合的な展望およびソ連の内外政策の路線を決め、ソヴィエト人民の偉大な創造的活動を指導し、共産主義の勝利のためのかれらの闘争に計画的で、科学的に根拠のある性格をあたえる。

 共産党一党支配の直接的な根拠として、(悪)名高い条文であった。第一項第二文で、付け足しのように人民への奉仕が謳われているとはいえ、第一文で共産党の指導性が明確に宣言され、第二項では共産党がソ連の内外政策の路線や未来まで決定するという形で、事実上恒久的に指導政党であり続けることが示唆されているからには、人民への奉仕は空虚なレトリックにすぎなかった。
 結局、この条文はソ連最末期の「ペレストロイカ」の中で、削除されることになったが、ソ連共産党の指導なきソ連とはソ連の解体・消滅へのステップにほかならなかった。

第七条

労働組合、全連邦レーニン共産主義青年同盟、協同組合およびその他の社会団体は、その規約の定める任務にしたがい、国家的および社会的なことがらの管理ならびに政治的、経済的および社会的、文化的な問題の解決に参加する。

 労組をはじめとする社会団体の役割に関する規定であるが、前条と合わせ読むと、これら社会団体もあくまで共産党の指導下に所定の管理と問題解決に参加するという枠付けがなされているのであり、各社会団体の自立性は保障されていない。

第八条

1 労働集団は、国家的および社会的なことがらの討議と決定、生産と社会的発展の計画づくりおよび労働条件と生活条件の改善の問題ならびに生産の発展、社会的、文化的措置および物質的奨励にあてられる資金の利用の問題の討議および決定に参加する。

2 労働集団は、社会主義競争を発展させ、先進的作業方法の普及および労働規律の強化を促進し、その構成員に共産主義的倫理を教育し、かれらの政治的自覚、文化および職業的技能の向上について配慮する。

 労働集団という独自の概念は、およそ企業的組織における経営管理層を含む全従業員を包括するもので、当時の「発達した社会主義国家」の段階にあっては資本主義的な労使対立はもはや存在しないという想定(プロパガンダ)で成り立つ概念であった。
 従って、資本主義的な用語では労働集団は企業と置き換えても誤りではない。すなわち、労働集団=企業は生産計画や労働問題のみならず、国家社会に関わる問題や公的資金の利用に関する討議や決定にも参加するという原則が本条で与えられていることになる。
 企業を単なる生産組織に限局せず、社会の基礎集団としてこうした幅広い役割を与えることは、社会主義の一つの特徴とも言えるが、これとて第六条が規定する共産党の指導下での「参加」という枠付けに変わりはなく、いわゆる自主管理社会主義とは異なるものであった。
 ちなみに、第二項に労働集団の対内的な役割の一つとして、「社会主義競争を発展させ(る)」とあるのは、社会主義にも市場的な競争原理を一部導入しようという試みの表れと読めるが、すでにこの時期、こうした市場経済への接近傾向が生じ始めていたことの証左である。

第九条

ソヴィエト社会の政治システムの発展の基本方向は、社会主義的民主主義のいっそうの展開、すなわち国家と社会のことがらの管理への市民のますます広範な参加、国家機構の改善、社会団体の積極性の向上、人民的監督の強化、国家生活および社会生活の法的基礎の強化、公開の拡大ならびに世論についての恒常的な考慮である。

 第一章の末尾を飾る本条はやや唐突な観もあるが、前文でも宣言されていた共産主義の実現へ向けたソ連社会の未来展望を改めて具体化して述べ、政治システムについて定める第一章の締めくくりとしたものである。
 それは「社会主義的民主主義」という概念で総括されているが、内容上は市民参加や法治主義、情報公開、世論重視などブルジョワ民主主義的な項目がやや雑多に並べ立てられており、「社会主義的民主主義」固有の特質には乏しいように感じられる。西側からの非民主性への批判を意識したのかもしれない。
 ただ、いかに「社会主義的民主主義のいっそうの発展」を謳ったところで、それは共産党の指導性を大前提としたうえでのことであるから、憲法内部での理論的な矛盾をいっそう深めるだけであった。

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旧ソ連憲法評注(連載第2回)

2014-06-13 | 〆旧ソ連憲法評注

第一編 ソ連の社会体制および政策の諸原則

 全9編174か条から成るソ連憲法中、筆頭の第一編は総則に当たる部分で、ここでは全5章32か条にわたってソ連の基本的な体制と政策の基本理念が体系的に列挙されている。

第一章 政治システム

 本章は、経済システムを定める次章とセットで、ソ連の政治経済体制の基本原則を列挙している。このように社会システム論的な構成を採るのは、政体論が中心のブルジョワ憲法よりも先進的な特徴であった。
 ただ、政治的な原則が経済的な原則より優先されているのは、経済的なもの、特に生産様式が社会の土台となるとするマルクス理論からは外れ、むしろ政治哲学が優先されるブルジョワ社会思想への傾斜が見られる。

第一条

ソヴィエト社会主義共和国連邦は、労働者、農民およびインテリゲンチャならびに国のすべての民族および小民族の勤労者の意思と利益を表現する社会主義的全人民国家である。

 本条は、ソヴィエトの政体を「社会主義的全人民国家」と規定する。前文でも述べられていたとおり、当時のソ連体制は「プロレタリアート独裁」の労働者階級国家の段階をすでに終了し、農民や知識人、諸民族を束ねる階級・民族包括国家となったとの規定である。
 この「全人民国家」という概念は、支配民族の優位性を前提とする「国民国家」とは異なり、小民族(少数民族)を含めた多様な人々を包摂する意義を持っていたが、実際のところ多数派ロシア民族の優位性が裏に隠されていた。

第二条

1 ソ連におけるすべての権力は、人民に属する。

2 人民は、ソ連の政治的基礎である人民代議員ソヴィエトをとおして、国家権力を行使する。

3 他のすべての国家機関は、人民代議員ソヴィエトの監督をうけ、それにたいする報告義務をもつ。

 本条は、人民主権の原則を宣言したものである。ただし、第二項にあるように、国家権力は人民代議員ソヴィエトを通じて行使される。これは間接民主制を規定したものである。
 人民代議員ソヴィエトとは、形の上ではブルジョワ議会制における国会及び地方議会に相当するが、単なる立法機関ではなく、全国家権力の源泉となる人民代表機関である。第三項はそうしたソヴィエトの国家監督権を規定したもので、人民主権原理の具体的な表現である。

第三条

ソヴィエト国家は、下から上までのすべての国家権力機関が選挙され、それらが人民にたいして報告義務をもち、下級機関は上級機関の決定にしたがう義務をもつという民主主義的中央集権の原則にしたがって、組織され、活動する。民主主義的中央集権は、統一的な指導を、現地のイニシアチブおよび創造的な積極性ならびにすべての国家機関および公務員が自分にゆだねられた仕事について責任をもつことと結合させる。

 本条は民主集中制という本来はレーニン主義的な共産党の運営原則を国家機関の活動にもあてはめたものである。この原則が真に民主的に機能するのは、条文にあるとおり、下から上までのすべての国家権力機関が選挙されるという保障がある限りであるが、結局のところ共産党の一党支配下では、国家機関も共産党の指導に拘束されることとなり、本条の意義は共産党中央指導部への権力集中にすり替わっていた。

第四条

1 ソヴィエト国家およびそのすべての機関は、社会主義的適法性にもとづいて活動し、法秩序、社会の利益および市民の権利と自由の保護を保障する。

2 国家的組織、社会団体および公務員は、ソ連憲法およびソヴィエトの法律を遵守する義務をおう。

 本条は、社会主義的法治国家原則を規定している。単に国家機関の活動の形式的合法性のみならず、社会的利益と市民の権利自由の保護まで義務づけていることが注目される。第二項で憲法・法律遵守義務が、公務員のみならず、社会団体に及ぶことも社会主義的法治国家の特徴である。

第五条

国家生活のもっとも重要な問題は、全人民的討議にかけられ、全人民投票(レファレンダム)に付される。

 第二条で間接民主制を原則としつつ、国政上の重要問題については人民投票に付するという形で限定的に直接民主制を取り入れる規定であるが、共産党支配下では実際のところ機能しない空文であった。

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世界共産党史(連載第11回)

2014-06-12 | 〆世界共産党史

第5章 冷戦時代の共産党

3:ユーゴ共産党の独自路線
 1947年に結成されたコミンフォルムには、当初ユーゴスラビア共産党も参加していた。その指導者チトーは前章でも見たとおり、ユーゴのパルチザンの英雄であり、独立達成後は、制憲議会選挙で勝利した共産党を中核とする人民戦線政府の首相に就いていた。
 しかし、他の東欧諸国と異なり、強力なパルチザン組織によりソ連の支援を得ず独力で独立を勝ち取った民族主義志向の強いユーゴ共産党はスターリンの不興を買い、48年に早々とコミンフォルムを除名される。
 除名後のユーゴ共産党は対外的にはソ連従属の否定、対内的には市場的要素を伴った分権的な自主管理社会主義を基本路線として採択し、ソ連とは異なる道を歩むようになる。52年には共産党の一党支配も廃され、イデオロギー的な指導機関としての共産主義者同盟に組織変更されるに至った。
 このような体制はたしかにスターリン主義体制と袂を分かつ程度には異質であったが、終身大統領チトーを頂点とする権威主義的体制であることに変わりなく、その点ではスターリン型の首領指導制の亜類型であった。また共産主義者同盟もソ連共産党のような独裁政党ではないと規定されたが、複数政党制が容認されたわけではなく、事実上は同盟が政権を独占していた。
 連邦体としては、6つの民族共和国と2つの民族自治州から成る共和国連邦という点でソ連との類似性もあったが、ソ連よりも緩やかな多様性が強調された。しかし、それも多分にしてプロパガンダの域を出ず、民族的な分離独立は厳しく抑圧された。
 こうしてソ連陣営を離れて独自の道を歩み出したユーゴは国際政治面でも、東西両陣営に属しない非同盟諸国運動のリーダーとなり、非同盟中立という第三の陣営を形成した。非同盟諸国運動はフルシチョフ政権以降、ソ連離れを始めた中国をもオブザーバーに加えて、発展を見せた。
 ユーゴの分権体制はソ連型社会主義のオールタナティブとして西側では好意的に注目されたが、所詮はチトーの個人的な権威でもって結合を保っていたにすぎなかったため、スターリンの死後も命脈を保ったソ連とは異なり、80年のチトー死後のユーゴ連邦は凄惨な内戦を伴いながら崩壊の道を転げ落ちていく。

4:ユーロコミュニズム
 西側諸国の共産党では、イタリア共産党を中心にユーゴよりも一足先にソ連離れが起きていた。イタリア共産党では、1940年代にトリアッティ書記長が議会制民主主義を通じた社会主義革命への道を理論化した。実際、イタリア共産党はこの路線に基づき、戦後民主化されたイタリアで議会選挙に参加し、勢力を伸張させ、野党ながら最大政党となって国政に地歩を築き、多くの地方自治体首長も輩出した。
 こうしたイタリア共産党の議会政治での成功は、同様に議会政治が発達した他の西欧諸国にも影響を及ぼし始める。68年のソ連軍によるチェコスロバキア侵攻(プラハの春)はこの傾向を決定づけた。
 チェコでは48年の政変以降続いていたソ連に忠実な共産党支配体制が揺らぎ始め、68年には改革派のドプチェク新書記長の下、「人間の顔をした社会主義」を標語とする体制内改革が始められた。この改革は一党支配の緩和と連邦制導入、市場経済要素の導入、検閲廃止などのかなり踏み込んだ自由化改革プログラムを含んでいた。
 これに危機感を持った党内保守派と同様の改革の波及を恐れたソ連指導部や衛星諸国指導部は軍事介入を決断し、同年8月、ワルシャワ条約機構軍がチェコに侵攻、占領したうえ、親ソ指導部にすげ替えた。
 この武力による改革潰しは西側共産党のソ連離れを加速させた。イタリア共産党はこの軍事介入を公然と非難した。西側共産党では「モスクワの長女」と呼ばれるほど親ソ派であったフランス共産党でさえ、70年代以降、マルシェ書記長の下、ユーロコミュニズムに接近する。
 こうした議会制への参加を基本とするユーロコミュニズムは一方で、西側の資本主義市場経済との妥協も意味したから、この路線は次第に西側共産党を革命的な共産主義から穏健な社会民主主義への道に転向させ、最終的にはイタリア共産党のように中道政党への組織転換・事実上の消滅へと導かれていく。

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世界共産党史(連載第10回)

2014-06-11 | 〆世界共産党史

第5章 冷戦時代の共産党

1:冷戦の開始と東西共産党
 スターリンのソ連共産党を指令部とするコミンテルンは第二次世界大戦中の1943年、独ソ開戦を機にソ連が米英仏の連合国側に加わったことで解散されていたが、戦後の47年には後身組織としてコミンフォルムが結成された。これはスターリンの提唱により結成された東西欧州をまたぐ共産党の国際連絡機関であったが、その真の目的は米国に対抗するソ連を中心とする勢力圏の設定にあった。
 かくして、東西冷戦の開始にも共産党は深く関与している。単純化してみれば、冷戦とはソ連を総帥とする共産党対米国を総帥とする保守党の国際的なせめぎ合いであったとくくることもできる。事の発端は、第二次世界大戦では米国とも陣営を共にしたソ連が、東ドイツを含む東欧のソ連占領地域で、直接間接の干渉によって次々とソ連の衛星諸国を作出していったことにあった。
 このドミノ倒しのような東欧のソ連化の過程で政権を掌握したのが、各国の共産党(他名称共産党を含む)であった。それらの多くは、戦前期コミンテルンを通じたスターリンによる粛清の手が及んでおり、スターリン主義政党としての素地はすでに出来上がっていた。
 特に最初期の冷戦舞台となった東ドイツではナチス時代に禁圧されていたドイツ共産党と東ドイツ地域の社会民主党の一部が合同し、他名称共産党としての社会主義統一党が結成され、支配政党となった。同党は以後、ソ連に最も忠実な支配政党として、東独を独裁統治する。
 同様に他名称共産党が支配政党に就いたのは、ポーランド(統一労働者党)とハンガリー(ハンガリー勤労者党、後に社会主義労働者党に再編)であった。両国では、支配政党内にソ連への従属に抗する民族主義者が存在したことから、後に反ソ暴動・動乱の要因ともなる。チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリアでは文字どおりの共産党が支配政党に就いた。
 戦間期に議会政治で地歩を築いていたチェコスロバキア共産党は46年の総選挙で第一党に躍進し、首相を出したが、これは共産党が民主的な選挙で政権を獲得した世界最初の事例であった。しかし連立政権であったため、48年、共産党は超法規的な手段を用いて他政党を政権から排除し、一党支配体制を確立する。
 この時期、西欧諸国の共産党にも政権に参加する動きが見られた。フランスでは対独レジスタンスで功績のあった共産党が選挙で躍進し、連立政権に参画した。ムソリーニのファシスト政権時代に弾圧を受けて解体されていたイタリア共産党もファシスト政権からの解放で重要な役割を果たし、戦後の挙国一致政府に参画するなど、イタリアの戦後民主化に足跡を残した。

2:スターリン後のソ連共産党
 戦前戦後にかけて30年近く君臨してきたスターリンは53年、死去した。大粛清によって党内の多くの人材が失われており、絶対的独裁者が去った後の常として、際立った後継候補者は見当たらなかった。
 そうした中で、ウクライナ出身のニキータ・フルシチョフが台頭してくる。党第一書記に就任した彼は56年の秘密報告で、いわゆる「スターリン批判」を展開し、スターリン時代の終焉を宣言した。ただし、この「批判」では専らスターリンの個人崇拝政治と粛清の罪悪に焦点が当てられており、スターリン時代に確立された抑圧的な共産党支配体制の基本的な変更には及ばなかった。
 とはいえ、当時は秘匿されていた大粛清の事実が明らかにされ、絶対者スターリンが公然批判されたことは、党内外のスターリン主義者に強い衝撃を与えた。この時期、スターリン主義に忠実な支配体制を構築しつつあった毛沢東の中国、ホジャのアルバニアではフルシチョフを「修正主義者」と規定する強い反批判が出され、ソ連との関係悪化につながった。
 一方で、スターリン批判は民族主義派を抱えていたポーランドやハンガリーでは反ソ暴動の導火線となった。ポーランドでは56年6月、ポーランド西部の都市ポズナンのスターリン名称金属工場で起きたストをきっかけとする暴動を機に、いったんは民族主義派として追放されていたゴウムカが政権に返り咲き、一党支配の枠内で一定の民主化に着手した。
 このポズナン暴動は、同年10月にはハンガリーに飛び火し、より大規模な反ソ動乱を引き起こした。ここでは革命的状況に発展し、反ソ的なナジ政権の成立を見るが、ソ連のフルシチョフ指導部は軍事介入で応じ、結局動乱は翌月、武力鎮圧され、親ソ派政権にすげ替えられた。かくして、ソ連共産党がスターリン後も東欧で覇権を維持しようとする強い意志が示されたのだった。
 フルシチョフ指導部は、対外的には米国との緊張緩和、国内的にも秘密警察組織の改革や一定の経済分権化などの改革を実現したが、元来フルシチョフの党内基盤は磐石でなく、農業問題での失政などもあり、64年の党内クーデターで失墜し、政権を追われた。
 代わって、党内クーデターの仕掛け人でもあったレオニード・ブレジネフが新しい共産党指導者となるが、彼は党内官僚の権化のような保守的な人物であり、以後スターリンに次ぐ18年の長期に及んだブレジネフ指導体制下のソ連共産党は安定しながらも官僚組織化の度を強めていく。

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