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近代革命の社会力学(連載第253回)

2021-06-25 | 〆近代革命の社会力学

三十七 韓国民主化革命

(3)学生革命への力学
 およそ革命事象が生起するに当たっては、社会経済的な下部構造の変動が大きな要素となる。その点、朝鮮戦争で壊滅的打撃を受けた李承晩体制は、日本からの独立運動を基盤としたため、対日途絶政策を外交上の看板とし、日本とは国交を樹立せず、専らアメリカの経済援助に依存していた。
 そうしたアメリカによる受益体制の下、李承晩は政権とコネクションを持つ財閥を過度に優遇したため、経済開発は遅れ、国内総生産では同時期北朝鮮の社会主義計画経済にも後れを取り、世界最貧国の状態にあった。
 しかも、50年代末にはアメリカの経済援助削減策により窮地に陥り、労働者層の不満は鬱積していた。とはいえ、北朝鮮との対峙状況下、社会主義に結びつきやすい労働運動は抑圧されており、労働者階級政党も結党できない中、労働者を主体とした下部構造由来の革命は望めなかった。
 そのため、4.19革命は専ら上部構造的要因から発生した。中でも直接的な動因は、直前の3月に実施された大統領選挙の結果にあった。当時の韓国では正副大統領選挙を別立てで行う特殊な制度が採用されていたことから、正副大統領が与野党に分裂するねじれの可能性を孕んでいたことが問題であった。
 実際、一代前の1956年選挙ではそうしたねじれが起きており、大統領には自由党の李承晩、副大統領には野党民主党の張勉が当選するという事態となっていた。すでに80歳を越えながら李承晩が四選を狙った1960年選挙では、ねじれの解消が目論まれていた。
 もっとも、大統領選挙では野党系対立候補の病死という僥倖により、李承晩が当選したが、副大統領選挙では勢いのあった野党系候補の当選を阻止するべく、政権は大掛かりな選挙干渉を行い、与党系候補を「当選」させたのである。
 この選挙大干渉は暴力を伴っており、投票日の3月15日、慶尚南道馬山(現・昌原市)で、野党民主党側の投票立会人が投票所から強制的に締め出されたことをきっかけに、学生と市民の抗議デモが発生し、死傷者を出した。
 地方でのこの抗議行動が翌月には首都ソウルにも波及し、4月19日には数万人規模の学生を中心とする抗議デモが発生した。デモの波は他の都市にも拡散し、警察治安部隊の鎮圧行動で200人近い死者が出る中、政府は戒厳令を布告して弾圧を図ったが、軍は中立を保った。
 これを受けて、21日以降、閣僚と与党幹部の総辞職、さらに副大統領に「当選」した李起鵬の当選辞退が続き、政権は瓦解状態となった。同月25日には全国の大学教授団のデモに発展する中、26日に閣僚の説得により李承晩大統領が辞任、翌月にはハワイへ亡命していった。
 このようにして、不正選挙に対する学生主体の抗議行動から自然発生的に生じたのが4.19革命の特質であり、その過程では意識的に結成された革命組織や政党も全く見られなかった点で、この革命は市民が主体となる民衆政変型革命の先駆けでもあった。
 もっとも、事後的に大統領辞任と野党への政権交代を結果しただけであれば、それは革命ではなく、民衆政変にすぎないが、その後、憲法改正によって政体が変更され、議院内閣制を基本とする第二共和国へ移行したことで、革命としての性格を帯びることになった。


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