ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第180回)

2020-12-18 | 〆近代革命の社会力学

二十五 スペイン・アナーキスト革命

(8)共和派の敗北とファシズム体制の確立
 スペイン内戦における天下分け目となったのは、1938年7月から11月にかけてのエブロ河の戦いであった。すでに北部を反乱軍に制圧され、実効支配地を南部に追い込まれていた共和派は兵力10万人を投入し、粘り強く起死回生を図るも、ドイツ・イタリアの援軍を受けた反乱軍側に圧倒され、多大の犠牲を出して敗走することとなった。
 これにより、内戦は事実上終結したに等しかったが、38年12月以降、反乱軍は地方革命の要地でもあったカタルーニャ地方の制圧に向けて大攻勢をかけ、翌年1939年1月までに州都バルセロナを制圧した。残すは首都マドリッドのみであったが、ここでも、地方革命機関であったマドリッド防衛評議会はすでに解散しており、同年3月末までに反乱軍の手に落ち、4月1日、フランコによる勝利宣言をもってスペイン内戦は終結した。
 こうして、スペインはフランコが支配する軍事政権の軍門にくだることとなったが、待っていたのは、定番の白色テロであった。その点では、およそ70年遡るアナーキスト系革命であるフランスのコミューン革命後の状況と類似しているが、フランスではまがりなりにもブルジョワ民政による鎮圧措置であり、最終的には恩赦による国民和解が実現した。
 しかし、フランコ体制はファシズムの性格を持つ軍政であったため、白色テロは一層苛烈であった。その弾圧はアナーキストやコミュニストに限らず、穏健派も含めた旧人民戦線支持勢力全般に及び、人民戦線支持勢力の根絶を狙い、即決軍事裁判による大量処刑が断行された。
 しかも、敗戦した独・伊・日とは異なり、第二次大戦を表面上の中立政策(事実上は枢軸国寄り、特に親独)で乗り切ったフランコ政権は、第二次大戦後もフランコ総統の終身間にわたり継続し、その間、弾圧政策も、戦後冷戦構造の中、反共路線を採る西側諸国の黙認を受けて、フランコが死去する1975年まで続き、国民和解の余地はなかった。
 ちなみに、コミューン革命の挫折後に第三共和政が成立していたフランスでも、スペインに続き、共産党を含む複数の革新系政党から成る人民戦線が1936年4月の総選挙で勝利し、社会党のレオン・ブルムを首班とする連立政権が発足した。
 フランスでは、スペインのようなアナーキスト系地方革命も内戦も付随せず、平穏ではあったが、人民戦線を構成する主要政党間の内紛のために政局は安定せず、首相が短期で交代を繰り返した末、38年6月に総退陣した。 
 そのため、同時期のスペイン内戦でカウンターパートとなっていた人民戦線政府を支援することもできずに終わった。そのうえ、1940年にはナチスドイツに併合され、ドイツ占領下でナチスの傀儡政権が成立する。
 このようにして、スペイン、さらにはフランスの人民戦線政権もそれぞれの経緯をたどって挫折し、ファシズム体制へ遷移していった。特にスペインではファシズムが戦後も継続して一つの体制として確立され、およそ40年に及ぶフランコ独裁の下、全国に張り巡らされた秘密警察網の監視と抑圧により、新たな革命の芽は完全に摘み取られたのであった。


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