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近代革命の社会力学(連載第38回)

2019-11-06 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(3)1820年ポルトガル立憲革命  
 ポルトガルでもナポレオンの支配下、ブラガンサ王家が遠くブラジル植民地に亡命するという状況にあったが、ナポレオン帝政崩壊後も、王家はしばらくブラジルにとどまり、進駐してきたイギリス軍の庇護の下、暫定的な摂政府が統治する変則的な体制が続いていた。  
 このようなイギリス支配への不満に対し、最初に声を上げたのは秘密結社フリーメーソン会員であったが、イギリスと摂政府はこれを弾圧した。そうした状況下で1820年のスペイン立憲革命に触発された自由主義派将校が同年7月にポルトで反乱決起したのを皮切りに、反乱が全土に拡大、首都リスボンにも波及した。  
 革命派は、ブラジルから王を帰還させたうえで、ブラジルとポルトガルの分離を求めた。そのうえで、制憲議会を設置し、1822年にスペインのカディス憲法をモデルとする近代憲法を制定した。このように、ポルトガルの立憲革命は、王の本国帰還とともに成立した点に独自性がある。しかも、時の国王ジョアン6世は立憲革命に賛同し、1822年憲法を支持したのである。  
 また、スペイン立憲革命はデル・リエゴのような自由主義派将校を中心とした「軍人革命」という性格が強かったのに対し、ポルトガル立憲革命は、軍人より商業ブルジョワジーや知識人が中核を成し、総体的なブルジョワ革命の性格が強かった点も特徴である。  
 こうして、ポルトガル立憲革命はスムーズに展開するかに見えたが、ジョアン6世の三男ミゲル王子が絶対王政派の指導者として立ちふさがる形で、王家内部での権力闘争の火蓋が切られる。ミゲルは1823年に反革命反乱を起こし、ジョアン6世を拘束したが、リスボン駐在外交団の介入で王は救出され、ミゲルはオーストリアへ亡命した。
 しかし、ジョアン6世が1826年に王位継承者を指名せずに死去すると、王位継承が絡んだ政争に発展する。さしあたりは、ジョアンの最年長王子でいったん王位に就いたペドロ4世(兼ブラジル皇帝ペドロ1世)が幼い娘マリアに譲位し、摂政となることで決着した。  
 この摂政体制下、ペドロは絶対王政派との融和を図り、1822年憲法に修正を加えた。中でも立法府を二院制とし、上院は国王勅撰の貴族・聖職者議員で構成するとともに、国王に立法拒否権を与えた点で、立憲君主制は制約されることとなった。
 しかし、こうした融和策はかえって絶対王政派を勢いづかせ、1828年、帰国したミゲル王子を国王に擁立する事実上のクーデターを成功させた。ウィーン体制諸国の支持の下に成立したミゲル僭称王体制は憲法を無効化し、自由主義派への弾圧を断行した。  
 これに対し、立憲派が再び決起、以後、ポルトガルは1834年まで内戦に突入する。この内戦は、ブラジル皇帝を譲位して参戦した立憲派ペドロと絶対王政派ミゲルという兄弟王子の間で戦われるという稀有の宮廷戦争となった。  
 最終的に、内戦は立憲派の勝利に終わり、マリア女王が復位し、立憲政府が回復された。スペインと異なり、ポルトガルでは内戦という代償を払って立憲革命が死守されたと言えるが、以後、立憲派内部の対立から反乱やクーデターに見舞われ、19世紀半ば過ぎまで政情不安が続く。


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