ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第388回)

2022-03-01 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(5)チェコ/スロヴァキア分離革命

〈5‐2〉学生・知識人決起から体制崩壊へ
 チェコスロヴァキアの革命は、ほぼ流血なしに(後述するように完全ではない)、かつ大混乱もなくあっさりと体制崩壊に進んだため、「ビロード革命」の異名を持つが、そうしたことが可能となったのは、隣国東ドイツの革命に押されるような形で玉突き的に発生したことに加え、前回見たような知識人主体の抗議運動の前史が継続していたことも大きいと考えられる。
 チェコスロヴァキアにおける革命の起点は、「ベルリンの壁」の打壊が始まった1989年11月10日(以下、断りない限り年度は1989年)からほどない同月16日、スロヴァキアの最大都市ブラチスラヴァ(現首都)で、学生が民主化を求める平和的な抗議デモを開始したことに始まる。
 翌日には、チェコでも1万人規模の学生デモが発生し、治安部隊との衝突で600人近い負傷者が出たとされた。これはデモ隊側の発表であり、公式確定数値ではないが、負傷者が出たことに間違いなく、この点で完全なる「ビロード」ではなかったが、死者は記録されていない。
 同月19日にはスロヴァキア側とチェコ側の双方で、それぞれ知識人を主体とする民主組織が結成された。特にチェコ側の「市民フォーラム」は「憲章77」以来、体制抗議の象徴となっていたヴァーツラフ・ハヴェルが創設者となり、以後の革命プロセスで主導的な役割を果たすことになる。
 しかし、当時の体制の根幹となっていた共産党独裁体制の放棄を最初に要求したのは、スロヴァキア側の民主組織「暴力に反対する公衆」であった。一方、「市民フォーラム」側はゼネストに入ることを発表した。
 ここに至り、共産党当局はデモの武力鎮圧を決断し、正規軍の動員を検討するが、国防省は武力鎮圧を否定する声明を発し、「プラハの春」の際には軍事介入したソ連も不介入方針を示した。
 このように内外の軍事手段を封じられたことが決定打となり、11月24日にはフサーク以下、共産党指導部が総辞職に追い込まれた。これにより、「プラハの春」挫折後の「正常化」体制は事実上崩壊したことになるが、フサークは1975年以来在任していた連邦大統領の座は譲らず、新指導部も民主化の要求に消極姿勢を示した。
 そのため、11月27日からは「市民フォーラム」が予定していたゼネストが実行され、翌12月にかけて、民主化要求デモが最大規模に膨張していった。そうした内圧の中、12月10日、ついに共産党は政権を放棄し、「暴力に反対する公衆」のマリアン・チェルファを首班とする非共産党系の政権が発足する。これに伴い、フサークも大統領を辞職した。
 41年ぶりに成立したこの非共産党系政権は、革命政権であるとともに選挙管理政権でもあり、12月29日には新たな連邦大統領にヴァーツラフ・ハヴェルが選出(議会による選出)されたことにより、チェコスロヴァキア革命はひとまず一段落した。
 この間、端緒から一か月程度という異例のスピードで革命プロセスが進行していったため、連続革命の中でも際立ってスムーズに体制移行がなされたことは注目に値する。しかし、すでに革命運動がチェコ側とスロヴァキア側で分岐していたように、チェコスロヴァキアの革命は一国単位での体制移行にとどまらない予兆が見え始めていた。


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