ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第459回)

2022-07-15 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(3)チュニジア革命

〈3‐2〉民衆革命への急転
 1987年の政変で権力を掌握したベン・アリは前任者同様の長期政権を維持していたが、野党は断片化され、対抗力を持たなかった。その間、政権と最も対決したのは人権活動家で革命後に暫定大統領となるモンセフ・マルズーキであったが、彼が2001年に結成した新党・共和国のための会議は翌年活動禁止となり、マルズーキもフランス亡命を余儀なくされた。
 こうして、ベン・アリ政権には隙がないかに見える中、政権が24年目に入る2010年末に民衆革命が突発する。民衆蜂起を端緒とする民衆革命は、巷での些細な事件が導火線となることが少なくないが、2010年チュニジア革命はその代表例となった。
 その端緒は2010年12月、中部の地方都市で青果露天商の青年が無許可で路上販売したとして、商品と商売道具の秤を没収されたうえに、秤の返還を求めると担当者から公然賄賂を要求されたことに抗議して、焼身自殺を図った事件であった。
 この事件が現場の動画とともにインターネットを通じて拡散したうえ、青年が治療の甲斐なく年初に死亡すると、事件に抗議するデモが中部都市を中心に自然発生し、1月中旬以降は、それまで比較的平穏だった首都チュニスにも抗議行動が拡大、暴動を含む騒乱状態となった。
 これに対し、政権側は治安部隊を投入して武力鎮圧を図るという定番対策で応じたが、この過程で300人以上が死亡、2000人以上が負傷する流血事態となった。鎮静化を急ぐベン・アリは2014年予定の大統領選挙に立候補せず引退することを公約するも、これはなお政権に固執することを意味しており、民衆はかえって反発した。
 そのため、2011年1月14日には最大規模のデモに発展する中、ベン・アリは軍に鎮圧命令を発したが、軍はこれを拒否し、かえって辞職要求を突き付けたことから、政権継続を断念し、サウジアラビアへ亡命した。こうして、ベン・アリ政権はあっけなく崩壊したが、発端となった露天商青年の死からわずか10日での急展開であった。

〈3‐3〉革命の中和的収斂
 こうした自然発生的な民衆革命では革命後の政権の受け皿を欠くことが多いが、チュニジア革命でも同様で、革命後最初の暫定政権は憲法評議会が憲法規定に基づき指名した与党系の下院議長を暫定大統領とし、ベン・アリ政権の首相が横滑りするという不完全なものであった。
 とはいえ、この暫定政権は野党を含めた挙国一致政権となり、支配政党・立憲民主連合の解散と非合法政党の解禁、全政治犯の釈放、ベン・アリ前大統領の刑事訴追などの措置を矢継ぎ早に講じた。
 そのうえで、2011年10月には制憲議会選挙が挙行されたが、ここでは解禁されたばかりのイスラーム主義政党・覚醒運動が比較第一党に躍進するという事態となった。このように「アラブの春」がそれまで抑圧されていたイスラーム主義勢力の伸長を結果する現象は他国でも程度差はあれ生じており、後に改めて総覧する。
 結局、覚醒運動とそれに続く共和国のための会議、従来からの合法野党であった社会民主主義系の労働と自由のための民主フォーラムの三党連立の新政権が構成され、新たな暫定大統領に共和国のための会議を率いたマルズーキが選出された。
 この連立政権は2014年の新憲法制定までの暫定であり、実際、同年1月に新憲法が制定され、それに基づく総選挙及び大統領選挙が実施された結果、解散した旧支配政党・立憲民主連合から派生した世俗主義政党・チュニジアの呼びかけが第一党となり、大統領にも同党創設者で88歳の古参政治家ベジ・カイドセブシが当選した。
 以後、革命の結果、民主的な憲法のもとで旧立憲民主連合からの派生政党が政権党に納まり、革命が中和的に収斂していったことから、チュニジアの革命は他国のように内戦を惹起しなかった限りで「成功」を収めたと言えるが、それは揺り戻しへの危険を内包する収斂の仕方でもあった。


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