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近代革命の社会力学(連載第40回)

2019-11-12 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(5)1830年フランス七月革命  
 イタリアに発祥した立憲革命結社カルボナリ党は、イタリアでの革命がいずれも短命に終わった後、フランスへ移転し、フランス版のシャルボンヌリー党として活動を続けるのであるが、フランスでは復権したブルボン朝の支配力が強く、革命の機運は容易に訪れなかった。  
 時のルイ18世は反動の象徴とみなされるが、復活ブルボン王制の基本法となった1814年憲章は、絶対主義と18世紀フランス革命とのぎこちない妥協の産物と言えるものであった。すなわち、国王が全権を掌握する旧体制の構造を基本としつつ、立法権は議会と共同行使するとされるなど、立憲君主制に半傾斜した内容であった。
 実際、ルイ18世は革命の再発を防ぐ狙いからも専制君主としては振る舞わず、常に受動的な政治姿勢を取ったため、18世の治世は保守的とはいえ、相対的に安定していたと言える。この安定性を確信犯的に壊したのは、継嗣なく死去した18世から王位を継いだ王弟シャルル10世であった。  
 シャルルは兄よりいっそう保守的な絶対君主制の信奉者であった。実のところ、フランス革命後から反革命を煽動し、ブルボン朝復活運動を主導していた黒幕こそシャルルであった。満を持して王座に就いたシャルルは、元来、妥協的な1814年憲章が憲法としての強い効力を有しないことを利用して、議会軽視の反動政治を展開し初めたのである。  
 ここに至り、18世紀フランス革命は根底から否定され、全き振り出しに戻る恐れが生じた。決定的となったのは、1830年5月、自由主義派が増加した議会の解散・総選挙に踏み切った結果、かえって自由主義派の勝利に終わったことに対し、恐慌を来たしたシャルルが議会の強制解散を軸とする事実上の戒厳措置に出たことである。  
 このいわゆる七月勅令には、定期刊行物の廃刊や選挙法改悪による選挙権の制限的縮小も盛り込まれ、18世紀フランス革命前のアンシャン・レジームへの逆行が顕著であり、言わばシャルル10世による「反革命宣言」であった。  
 これに反発したパリの民衆は7月27日、およそ40年ぶりに蜂起した。この時代になると、労働者や学生といった新しい平民階級も増加しており、前回の民衆の顔ぶれとは異なり、より戦略的になっていた。29日までにテュイルリー宮殿、ルーブル宮殿の主要宮殿が革命勢力に占拠されるに至り、シャルルは勅令を撤回するが、革命のうねりを止めることはできなかった。  
 ここで再び引っ張り出されたのが、40年前のフランス革命初期のリーダーだったラファイエットである。彼は革命の急進化により失墜した後は引退状態にあり、すでに70歳を越えていたが、再び国民軍司令官として革命の顔となった。  
 しかし、今度の革命は、共和制の樹立ではなく、イギリスへ亡命したシャルルに代わり、ブルボン分家に当たるオルレアン家のルイ‐フィリップが新国王に担ぎ出され、王朝交代の線で収束した。その結果、1830年憲章により、立憲君主制が確立された。
 この七月立憲革命は、1820年に始まった第一次欧州連続革命が、フランスにおいて10年のタイムラグをもって遅効的に波及したものと理解することができる。実際、シャルボンヌリー党も革命勢力に加わって重要な役割を果たし、新政権にも参加している。  
 他方で、フランス革命という観点から見れば、共和制まで進まず、立憲君主制の線で収束した七月革命は、18世紀フランス革命をもう一度やり直し、初期の立憲革命段階まで巻き戻して停止したようなものであった。
 そのうえで、ルイ‐フィリップ王政下では、七月革命の後衛にあったブルジョワジーが社会の主役となり、産業革命を主導していく。その結果、命がけで革命の最前線を担った労働者階級は脇に追いやられ、不満を鬱積させていった。
 シャルボンヌリー党も、立憲革命の成功により当面の目的を果たし、自然消滅していった。満足できない急進派は改めて共和主義運動を立ち上げ、これが新興の労働者運動や社会主義運動とも交差しながら、やがて新たな共和革命を誘発する潜勢力となる。


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