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近代革命の社会力学(連載第43回)

2019-11-20 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(2)国民議会の設置まで
 バタヴィア共和国の樹立を担った旧ネーデルラントの革命派は、元来は愛国派を名乗っていた。かれらはネーデルラント統領ウィレム5世の治世下、より民主的な共和制を樹立すべく、保守的なオラニエ家の支配体制に対して、1785年以降、各地で勢力を伸ばした。
 かれらが「愛国派」と称されるのは、ウィレム5世の下、当時新興の帝国として台頭していたイングランドの攻勢を受けて海外の拠点を次々と喪失していく状況に対する強い懸念を代表しているのが、かれらだったからである。
 しかし、愛国派はウィレム5世が頼ったプロイセン軍による弾圧作戦によりいったん掃討され、多くはフランスへ亡命していた。かれらはフランス革命を実地体験し、大いに共鳴した。そして、フランス革命軍の侵攻に合わせて帰国し、フランス革命政権の庇護下に革命を起こしたのであった。
 このような経緯からも、18世紀オランダ革命は18世紀フランス革命と相即不離の関係にあるわけだが、フランス革命とは異なり、世襲制とはいえ、いちおう共和制が定着していたオランダでは、君主制から共和制への移行という革命課題は前面に出ることがなかった。
 もっとも、先代のウィレム4世の頃より次第に全州統領による事実上の君主制に向かいつつあったが、国家の最高機関は全国会議(蘭:Staten-Generaal)と呼ばれる合議制の統治機関が担っていた。これはフランスの全国三部会に類似した機関と言えるが、フランスのような明確な三階級構造は存在しなかったので、ある程度近代的な議会制度に近い構制であった。
 そのため、当初は、革命派も、この旧制度をそのまま流用する形で革命指導機関と位置づけた。しかし、元来七つの州による連邦国家であるため、革命派もそれぞれの州ごと、さらには州内の都市ごとにまとまりがちであり、草の根レベルでより民主的な統治機関の創設を求める動きが強まる。
 その結果、草の根レベルで対抗権力的な民衆組織が数多く現れ、全国会議の権威が低下、形骸化する可能性が生じた。このような状況で、革命派指導部は、全国会議を廃し、新たに国民議会を創設することとした。この機関は、議会といっても立法権のみならず、行政権も兼ね備える総合的機関であり、フランス革命の国民公会をモデルとしたものと思われる。
 このような新制に対しては保守派からの反発があり、いくつかの地域では武力鎮圧も見られたが、保守派の反乱が全国化することはなく、1796年3月、第一回国民議会が招集された。ここまでの革命初期段階はわずか一年余り、ほとんど流血もなく進んだ点は特筆される。


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