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近代革命の社会力学(連載第31回)

2019-10-22 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(2)植民地サン‐ドマングの人種別階級構造  
 ハイチ独立革命前のフランス植民地サン‐ドマングは、フランスが1660年以降占領・入植し、アウクスブルク同盟戦争を終結させた1697年のライスワイク条約で、正式にフランス領と認められて以来、カリブ海地域におけるフランスの代表的な植民地として経営され、発展を見せていた。  
 フランス本国から移住・入植した白人は、この地で砂糖やコーヒーのプランテーションを営んで財を成した。労働力としては、奴隷貿易によって主に西アフリカから「輸入」された黒人奴隷が使役された。かれらは、ルイ14世時代に制定された黒人法によって、その権利を厳しく制約されていた。  
 こうした黒人奴隷は日々の重労働と劣悪な居住・衛生環境や奴隷主による虐待などにより、高い死亡率を示したが、そうした労働力の欠損を補って余りある奴隷が常時供給されていたため、本国でフランス革命が起きた1789年にはサン‐ドマング全域の黒人奴隷人口は50万人、カリブ海域の全黒人奴隷のおよそ半分という数であった。  
 すなわち、サン‐ドマングはカリブ海域全体でも最大規模の奴隷制植民地であり、実際フランス革命の頃には世界の砂糖のおよそ40パーセントを生産する世界最大級の砂糖生産基地に成長していた。  
 この植民地の階級構造は、人口の10パーセントに満たないものの、政治経済を掌握する少数白人を頂点に、白人が奴隷に産ませた非嫡出子に発する混血系ムラートが人口構成上は最小ながら自由身分の中間階級を形成し、最下層に人口の圧倒的多数を形成する黒人奴隷が位置するという人種別階級構造であった。  
 もっとも、黒人奴隷の中には主人によって一定の教育を施され、事務的な業務に携わる「有識奴隷」とでも言うべき範疇の者も少数含まれており、この中からトゥーサン・ルーヴェルチュールのようなハイチ革命の未来の指導者が現れた。有識奴隷には、法的に解放されて、「自由黒人」となるものも少なくなかった。  
 一方、かねてから農園を逃亡し、森に潜伏したマウォンと呼ばれる逃亡奴隷集団が存在していた。マウォンは、しばしばアジトを出て白人のプランテーション農園を襲撃したが、革命運動に発展するような知略も組織も欠いており、山賊的な一種のアウトロー集団にとどまっていた。  
 実際のところ、1789年時点で4万人ほどいたと見られる支配階級の白人の中でも農園経営の富裕層に属するのは主として肥沃な北部に居住するごく少数の貴族で、大半はプティ・ブラン(小白人)と呼ばれる庶民層であり、その中には日雇い労働者のような貧困層も含まれていた。  
 フランス革命が勃発した時、本国なら「第三身分」として革命の主体となったはずのプティ・ブランも本国から遠く離れたサン‐ドマングでは、革命に決起するような覚醒も凝集性も発揮しなかった。これは庶民とはいえ、最下層の黒人奴隷よりは優位にあったプティ・ブランと本国の第三身分の階級的布置の違いによるだろう。  
 他方、上述の有識奴隷層ないし自由黒人層とプティ・ブランはともに中産階級を形成しつつあり、両者が共闘して革命を起動するという可能性も想定できたが、サン‐ドマングの支配層は中産階級を抑圧搾取しなかったから、このような異人種間の共闘関係も生まれる余地はなかったのである。


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